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転生軍医、織田信勝 ―本能寺を消す処方箋―  作者: 東雲 諒杏
外伝三「秋疫」

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外伝三「秋疫」(四・完) 四つ目が消える

外伝三、最終話です。


 ――予防の触れの、六つ目に何を書くか。

予防の触れは、六つにまとめた。


  ――一、《《足に傷のある者は、田に入るな》》。

   ――これが、一番効く。

    傷が塞がるまで、《《別の仕事をさせよ》》。


  ――二、《《田へ入るときは、履物を履け》》。

   藁沓わらぐつでも、脚絆でもよい。

   ――《《素足を、水に浸けるな》》。


  ――三、《《田の水で、顔を洗うな。飲むな》》。

   ――眼と口から入る。


  ――四、《《上がったら、傷を、真水で洗え》》。


  ――五、《《米を拾え。稲を刈れ。鉄を拾え》》。

   ――鼠の餌を、絶やせ。


  ――六、《《猫を飼え》》。


 六つ目を書いたとき、弥兵衛が目を丸くした。


「宗吉さま。……猫でございますか」


「猫だ」


「それは、医の話でございますか」


「医の話だ」


 わたしはそう答えた。


「鼠を減らすのに、人の手では追いつかん。猫は、《《寝ておっても鼠を減らす》》」


 弥兵衛は、それを笑いながら書いた。


 それでいい、とわたしは思った。笑って覚えたものは、忘れにくい。


          ◆


 触れは、三日で行き渡った。


 そして、笑われた。


「この忙しいのに、藁沓を編めと」


「傷があるから田に入るなだと。……村じゅう、傷だらけじゃ」


「猫を飼えとは、恐れ入る」


 先生の書に、こうある。


 ――一、予防の触れは、《《必ず笑われる》》。まだ病んでおらぬ者に、面倒を強いるものだからである。――《《笑わぬ者を、一人作れ》》。


 越後では、刺し口を見つけられた九人がそれになった。


 この村では、誰になるか。


          ◆


 わたしは、寺の坊主のところへ行った。


 この人にも、二度目が来ていた。


 眼が、うっすらと黄色い。だが、小便は出ていた。粥も食っていた。奥の間に敷いた筵の上で、背をもたせて座っている。


「お坊さま」


「宗吉どの」


「一つ、お願いがござる」


「なんなりと」


「《《説法をしていただきたい》》」


 僧はしばらく黙っていた。


 そして、笑った。


「医者どのが、拙僧に説法をせよと」


「さようにござる」


「何を説けと」


「六つの触れを」


 わたしはそう言った。


「それがしが申しても、村は笑うだけにござる。旅の医者が、二十日おっただけにござれば」


「なれど――《《病んで、まだ黄色い坊さまが説かれれば》》」


 僧は、自分の手を見た。黄色い手である。指の付け根の皺のところが、特に濃く見えた。


「宗吉どの」


「はい」


「《《ひどいことを申される》》」


 わたしは深く頭を下げた。


 三年前、越後でも同じことを言われた。


 ――いや。


 六十年、生の沢蟹を子に呑ませてきた婆さまに、止めよと頼んだ話。


 あれは、わたしではない。九年前、肥前で、与一郎さまが言われたことである。わたしは、文で読んだだけだ。


 文で読んだ話と、自分の話が、混じりはじめている。


 それでいい、とわたしは思った。誰の話であっても、構わぬ。


          ◆


 僧は、本堂で説いた。


 村じゅうが集まった。八十人ほどが、板の間と庭に分かれて座った。


 僧は、まず袖をまくった。


「見よ」


 彼はそう言った。


「拙僧の手は、《《黄色い》》。これが、《《二度目が来た者の色》》じゃ」


 本堂が、静まり返った。


「太作は、これで死んだ」


 僧はそう言った。


「あれは、《《治ったと思うて、田へ出た》》。医者どのは、治っておらぬと申された。拙僧も、聞いておった」


「だが、みなで、田へ出した」


 僧は、そこで一度、言葉を切った。庭のほうを見渡した。


「拙僧も、《《止めなんだ》》」


 わたしは、その場で目を閉じた。


 この人は、わたしを庇ったのだ。


 『医者が笑った』とは、言わなかった。


          ◆


 六つの触れは、その日から守られはじめた。


 完全にではない。藁沓を編む暇のない者はいた。傷があっても、田に入らねばならぬ者もいた。


 だが、村じゅうが傷を洗うようになった。井戸端に桶が置かれ、田から上がった者がそこで脚を洗ってから家へ入った。


 そして、米を拾いはじめた。


 散らばった兵糧を、拾って集めた。畦を歩き、泥をかき分け、破れた俵の中身をざるに移した。


 それは、鼠を減らすためであり――同時に、《《冬を越すためでもあった》》。


「宗吉さま」


 三右衛門が、笊を提げたまま、そう言った。


「不思議なものでございます。病を防ぐために米を拾えと言われて、《《飯が増えました》》」


「それは、よくある話にござる」


 わたしはそう答えた。


「先生は、四十年前、井戸を埋めよと申されました。疫を止めるためにござる。……なれど、そのついでに、村の水がうまくなり申した」


          ◆


 十一月、わたしは数をまとめた。


  ――倒れた者、総計三十一名。

   うち、《《二度目が来た者、十四名》》。――うち、死亡、《《六名》》。

   二度目が来なかった者、十七名。――全員、生存。


 そして、触れを出した後に倒れた者は、八名。


 そのうち、二度目が来たのは一名。


 その一名も、生きた。


 なぜか。


 田へ出さなかったからである。熱が下がっても、十日、寝かせた。


「宗吉さま」


 弥兵衛がそう言った。


「これは、《《治したことになりまするか》》」


 わたしは、その問いにしばらく考えた。


「ならん」


 わたしはそう答えた。


「わたしは、薬を一つも持っておらん。この病を治す手立てを、何も知らん」


「したことは、二つだけだ。一つ、水に入るのを、止めた。二つ、熱が下がっても、寝かせた。……それだけだ」


 弥兵衛は、しばらく黙っていた。


 そして、こう言った。


「宗吉さま。……それだけで、《《十人生きております》》」


 わたしは、その言葉に何も返さなかった。


 太作の顔が浮かんだからである。


          ◆


 京へ戻ったのは、十二月であった。


 啓迪院は雪だった。


 庭の松に雪が積もり、井戸の縄が凍っている。廊下は氷のように冷たく、足の裏が痛んだ。


 わたしは火鉢を引き寄せ、『手当書』の前に座った。


 七巻目は、だいぶ厚くなっていた。


 三年前に書いた「島虫」の項がある。その次に、与一郎さまが明から送ってこられた「蟹」の項がある。


 そして、わたしは三つ目を書いた。


  ――一、美濃の在にて見たる秋の熱病のこと。

   土地の者は「秋疫あきやみ」と呼ぶ。「七日熱」とも。


   症――

    一、突然の悪寒と高熱。下がる日なし。

    二、《《眼の白いところが真っ赤になる》》。痛まず、眩しがる。

    三、《《ふくらはぎが、触れるだけで飛び上がるほど痛む》》。

   ――発疹なし。黒きかさぶたなし。下痢なし。咳なし。


   ※《《三つ目が、決め手である》》。

    熱を出す病は多い。眼の赤くなる病もいくつかある。

    ――なれど、《《ふくらはぎだけが、あれほど痛む病を、他に知らぬ》》。


   ※そして、これが最も大事である。


   ――《《この病は、一度、熱が下がる》》。

    六日ないし八日目。眼の赤みも引き、こむらの痛みも消える。

    ――起き上がり、飯を食い、歩く。

    ――周りは「治った」と言う。


    それから三日ないし五日して、《《二度目が来る》》。

     一、《《眼と肌が黄色くなる》》。

     二、《《小便が減り、やがて止まる》》。

     三、《《歯茎・鼻より血が出て、止まらぬ》》。

    ――ここまで来ると、たいてい死ぬ。


   道筋――《《鼠の小便が、田の水に混じる》》と考える。

    入り口は二つ。《《足の傷》》と、《《眼・鼻・口》》。

    ――皮の破れておらぬところからは、たぶん入らぬ。

    ※証は立たぬ。証の立たぬまま、書き残す。

     ――いつか、誰かが確かめる。


   手当て――《《薬なし》》。

    できることは、二つのみ。

     一、《《水に入るのを止める》》。

     二、《《熱が下がっても、なお十日寝かせる》》。


   予防――六箇条(別記)。

    ※六つ目に「猫を飼え」と記した。

     ――笑われた。笑って覚えたものは、忘れにくい。


          ◆


 わたしはそこで筆を止めた。


 火鉢の炭が一つ、崩れた。


 そして、一番書きにくい一行を、最後に書いた。


   ※《《熱が下がったことを、「治った」と言うべからず》》。


    ――それがしは、言葉では言うた。

    ――なれど、《《笑った》》。

     ――患者は、言葉ではなく、《《顔を信じる》》。


      ――太作、二十四歳。それがしが、笑ったゆえに死んだ。


 その下に、署名を入れた。


  ――記す。啓迪院、宗吉。


          ◆


 年が明けて、明から文が来た。


 与一郎さまである。十年ぶりの便りだった。


  ――宗吉どの。

  ――生きております。爺さまも、生きております。

  ――《《六十七になられました》》。


  ――南の国におります。ここは、冬がありませぬ。

  ――ゆえに、病が、《《一年じゅう出ます》》。


  ――一つ、教えていただきたい。

  ――この地に、《《脚の腫れる病》》がございます。

  ――片脚だけが、丸太のように腫れまする。

  ――《《『手当書』に、これはございますか》》。


 わたしはその文を三度読んだ。


 そして、返事を書いた。


  ――与一郎さま。

  ――その病は、《《書にございませぬ》》。

  ――先生も、それがしも、見ておりませぬ。


  ――ゆえに――《《書いてくださいませ》》。


  ――それが、《《八巻目になりまする》》。


 わたしはそこまで書いて、筆を止めた。


 そして、一行、書き足した。


  ――それと、一つ。


  ――《《熱が下がっても、治ったと申されますな》》。

   ――そして、《《笑われますな》》。

    ――それがしは、笑いました。


          ◆


 雪が、降っていた。


 啓迪院の弟子は、六十人になっていた。


 そのうち何人かが、庭で唄っていた。雪掻きをしながらである。


  ――ひとつ、押さえよ 離すな覗くな


 四十三年前に作られたものである。


 作ったのは、織田の姫だと聞いている。だが、その名を知る者は、もう、ほとんどおらぬ。


 越後では、島虫の唄になった。肥前では、蟹の唄になった。


 そして、美濃では――


 わたしが村を出るとき、子供が唄っていた。


  ――ひとつ、傷ありゃ 田には入るな

  ――ふたつ、上がったら 傷を洗え

  ――みっつ、こむら痛けりゃ すぐに来い

  ――よっつ、熱が引いても 十日は寝ろ


 四つ目を、わたしは何度も口ずさんだ。


 太作は、それを知らずに死んだ。


 だが、あの村の子は、知っている。


          ◆


 先生は、こう書き残された。


 ――医者は、《《自分が蒔いた種の実を、たいてい見ずに死ぬ》》。


 わたしは、その逆もあると思う。


 ――《《医者は、自分が殺した者の顔を、死ぬまで覚えている》》。


 それでいい。


 忘れたら、《《四つ目が消える》》。

外伝三「秋疫」、これで完結です。


 レプトスピラ症は、現在では抗菌薬で治療できます。早期に投与すれば経過は良好で、重症化を防げます。


 ですが慶長五年の宗吉には、薬がありません。


 彼にできたのは二つだけでした。水に入るのを止めること。そして、熱が下がっても寝かせ続けることです。


 この二つ目が、この物語の主題です。


 彼は「まだ治っていない」と、確かに言葉では言いました。ですが同時に、笑い返しました。


 そして患者は、田へ出て、死にました。


 ――


 外伝三では、宗吉に失敗させました。


 外伝一で彼は刺し口を見つけ、外伝二で与一郎は労咳の誤診を覆しました。二人とも、師の知らなかった病を書き残しました。


 ですが、それだけでは足りないと思ったのです。


 本編の主人公は、五十話のあいだ何度も負けています。第九話で母を治せず、第十四話で不作為から一人を死なせ、第二十五話で焼き討ちを止められず、第三十三話から始めた処方は失敗し、第四十四話では八年前に聞き損ねたことを悔いました。


 彼が書き残した『手当書』が読むに堪えるものであるとすれば、それは正しいことが書いてあるからではなく、間違えた記録が残っているからです。


 弟子も、同じことをしなければなりません。


 最後に宗吉が書いた一行——「太作、二十四歳。それがしが、笑ったゆえに死んだ」——は、そういう頁です。


 そして彼は、最後にこう考えます。


 「医者は、自分が蒔いた種の実を、たいてい見ずに死ぬ」——その逆もある。「医者は、自分が殺した者の顔を、死ぬまで覚えている」。


 それでいい。忘れたら、唄の四つ目が消えるからです。


 長らくのお付き合い、ありがとうございました。

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