第六話 白い飯が兵を殺す
戦国時代、兵を最も多く殺したのは刀でも鉄砲でもありませんでした。
今回は「飯」の話です。
弘治二年、秋。
その夜、末森城の廊下を、裸足の足音が駆けてきた。
「勘十郎さま! 与一郎が、与一郎が息をせぬと!」
飛び込んできたのは、すずだった。夜着のまま、髪も結わずに。
与一郎。
――半年前、清洲で長く正座して控えていて、立った拍子に倒れた、あの小姓だ。あれから何かと俺のもとへ出入りするようになり、今は末森で薬草の乾燥やら煎じ薬の管理やらを手伝わせている。十五になったばかりの少年である。
「息をせぬ、とは。まったくか」
「いえ……その、苦しそうに、はあはあと」
「呼吸はあるな。よし」
俺は寝間着のまま部屋を飛び出した。
◆
与一郎は、寝床の上で身体を起こしていた。
いや、《《起こさねば息ができない》》のだ。褥に積み上げた夜具に背を預け、上体を立てたまま、肩でぜいぜいと喘いでいる。
(起坐呼吸だ)
寝かせると苦しくなり、起こすと少し楽になる。肺に水が溜まっている者の姿勢である。
「与一郎。俺だ。分かるか」
「……か、勘十、郎、さ、ま……」
顔色は蒼白いのに、唇と頬にはうっすら赤みがある。俺は膝をついて、まず脈を取った。
――速い。毎分百四十を超えている。しかも脈が跳ねるように大きい。指を押し返してくる。
(頻脈。脈圧が大きい。……脈が「弱い」のではない)
次に、手を握った。
温かい。汗ばんでいるが、指先まで血が通っている。
(末梢は温かい。冷たくない。……これは、血が足りぬのではない)
首を見た。顎の下、鎖骨の上のあたり。上体を起こしているにもかかわらず、太い血の管が浮き上がり、脈打つたびに膨らんでいる。
(頸の血の管が張っている。心の臓に血が戻りきれずに、渋滞している)
そして、脛。
俺は掛け物をめくり、少年の脛に親指をぐっと押しつけた。
――離すと、そこに指の跡が、ぽっかりと残った。
しばらく消えない。
「……浮腫だな」
俺は、静かに息を吐いた。
診断は、ついていた。
(《《衝心脚気》》。――脚気の、心の臓に来る型だ)
◆
脚気とは、この時代の言葉で言えば「足萎え」。
現代の言葉で言えば、《《チアミン欠乏症》》である。
米を精げると――つまり玄米を搗いて白くすると――米粒の外側の糠の部分が削り落とされる。そして、身体が糖を燃やしてちからに変えるために欠かせぬ小さな成分は、その削り落とされる部分にこそ多く含まれている。
だから《《白い飯ばかり食う者ほど、脚気になる》》。
後の世で、江戸の武士が「江戸患い」と呼び、明治の陸軍が二万人を超える兵を死なせることになる病だ。
病の形は、大きく二つ。
一つは、足から来る型。膝から下が痺れ、感覚が鈍り、足首に力が入らなくなる。爪先が上がらず、すり足になる。
もう一つが――こちらだ。
心の臓が、悲鳴を上げる型。
身体の隅々の細い血の管が、原因も分からぬまま緩みきってしまう。行き場を失った血を巡らせようと、心の臓が異様な速さで、異様な量を送り出し続ける。全力疾走を昼も夜も続けさせられるようなものだ。
やがて、心の臓が音を上げる。血が戻りきれず、肺に水が滲み出す。溺れる。
――《《衝心》》。心を衝く、とはよく言ったものだ。
放置すれば、数日で死ぬ。
「勘十郎さま」
すずが、震える声で聞いた。
「与一郎は……助かりましょうか」
俺は、少年の脛から指を離して、立ち上がった。
「――厨へ行くぞ」
「は?」
「薬箱ではない。《《厨だ》》」
◆
真夜中の厨に、俺は下女を叩き起こして案内させた。
「糠はあるか。米を搗いたあとの、あの粉だ」
「ぬ、糠にございますか……そんなもの、漬物床か、鶏の餌にしか……」
「それでいい。ありったけ持て。それと、大豆。炒った胡麻があればそれも。麦は」
「麦なら、下男の飯に」
「よし」
俺は、湯を沸かさせた。
糠を厚手の布に包み、湯に入れて、じっくりと煮出す。糠は油気が多いから、煮すぎると胸が焼ける。ほどよいところで引き上げ、炒った大豆をすり潰したものと、少量の塩、それに味を殺すための味噌をほんの少し落とした。
――要するに、糠と豆の汁である。
湯気の立つ椀を見ながら、俺はふと、この構図のばかばかしさに笑いそうになった。
四十年、俺は医者だった。日本有数の病院で、最新の機械と薬を使ってきた。
その俺が今、真夜中の厨で、鶏の餌を煮ている。
(――だが、これが薬だ)
この汁の中に、たった一つの、目に見えぬ成分がある。
それが足りぬだけで、少年は死ぬ。
それが満ちれば、少年は生きる。
「与一郎。飲め」
俺は少年の口元に椀を運んだ。
「……に、苦……」
「知っている。俺も飲んだことがある。だが飲め。半刻で楽になる」
嘘ではなかった。
脚気の心不全に対する治療は、医学の中でも際立って劇的なものの一つだ。
足りぬものを補ってやれば、《《数時間で、目に見えて変わる》》。
◆
果たして。
一刻も経たぬうちに、与一郎の脈が百二十を切った。
夜明け前には百を切り、肩で息をするのをやめた。
東の空が白む頃、少年は自分から横になって、静かな寝息を立てはじめた。
俺は脛をもう一度押してみた。指の跡は――まだ残るが、さっきよりずっと浅い。
「……勘十郎さま」
すずが、涙をこらえた声で言った。
「あの糠は、いったい何にございますか。あんな、鶏の餌のようなものが」
「すず」
俺は、椀の底に残った濁った汁を見つめながら答えた。
「――《《人は、米を白くすることで、命を捨てている》》のだ」
「え」
「精げれば精げるほど、飯は白く、旨く、上等になる。だから貴人が食う。……だが、削って捨てているところにこそ、身体が要るものが詰まっておる。白い飯ばかり食う者ほど、この病になる。下男は玄米や麦を食うから、めったにならぬ」
すずが、目を見開いた。
「では……上さまや、お城のお歴々ほど、危ういと」
「そういうことになる」
言ってから、俺は自分の言葉の重さに気づいた。
――そういうことに、なる。
◆
その十日後、俺は清洲城の広間にいた。
上座に信長。左右に家老衆。末席に、なぜか具足姿の柴田権六勝家がいて、こちらを見て小さく頷いた。
「勘十郎。話とはなんだ」
俺は、平伏してから顔を上げた。
「兄上。織田家の飯を、変えていただきたい」
広間が、しんとした。
「……飯だと」
「はい。《《白飯を減らし、麦と豆と糠を混ぜていただきたい》》。兵の飯も、城中の飯も、すべて」
案の定、家老の一人が鼻で笑った。
「勘十郎さま。武士に麦飯を食えと申されるか。下人の飯にござるぞ」
「その下人が、脚気になり申さぬ」
俺は即答した。
「先だって、それがしの小姓が心の臓を病んで死にかけ申した。糠の汁で助かった。同じ病で、この一年に城中で三人が足を萎えさせ、一人が死んでおる。……調べ申した。《《死んだ者、患った者、すべて白飯を常食する身分の者にござる》》」
ざわめきが起きた。
「兵が槍を持てぬようになる病にござる。矢も鉄砲も要らぬ。飯だけで、軍が半分になり申す」
「――しかし」
別の家老が言った。
「そのお話、証はござるか。たまたま身分の高い者が病んだだけやも知れませぬ。飯のせいと、どうして言い切れましょうや」
――いい質問だ。
俺は、内心で拍手した。
この男は今、《《因果関係と相関関係の違い》》を突いてきたのだ。四百年早い。
「ごもっともにござる」
俺は頭を下げた。
「ゆえに、《《確かめまする》》」
「……確かめる?」
「兄上」
俺は、上座に向き直った。
「足軽を二百人、お貸しいただきたい」
信長が、初めて身を乗り出した。
「聞こう」
「二百人を、くじ引きで二手に分けまする。百人と百人。年格好も、身分も、務めも、なるべく同じになるように」
「うむ」
「一方には、これまで通りの白飯を食わせる。もう一方には、麦と豆を混ぜた飯を食わせる。それ以外は《《一切、同じにする》》。同じ普請、同じ調練、同じ寝所」
俺は指を二本立てた。
「そして三月の後、両方の脛を押し、膝を叩いて数え申す。……もし飯が関わりなければ、二つの組で病人の数は同じになるはず。もし飯が原因ならば」
俺は、指を一本折った。
「白飯の組にだけ、病人が出まする」
沈黙。
やがて、上座で、乾いた笑い声が上がった。
「――くくっ」
信長が、脇息を叩いた。
「面白い。貴様、《《人で試す》》と申すか」
「毒を盛るのではござらぬ。どちらの組も、これまでより悪くはなり申さぬ。片方が良くなるかどうかを見るだけにござる」
「それでも、試すのだろう」
信長の眼が、あの乾いた光を帯びた。
「よい。二百と言わず、四百くれてやる」
「兄上」
「ただし」
彼は、指を一本立てた。
「三月後、貴様の申した通りにならなんだら、二度と飯のことを言うな」
「――承知」
俺は、深く頭を下げた。
三百年後、明治の海軍軍医・高木兼寛が、二隻の軍艦を同じ航路に出し、片方には白米を、片方には麦飯を積んで脚気の数を比べることになる。
その原型を、俺は今、戦国の広間で提案した。
◆
広間を出たところで、太い声に呼び止められた。
「勘十郎さま」
柴田勝家だった。相変わらずでかい。
だが半年前より、腹まわりが締まって、顔色がいい。
「権六殿。足はいかがか」
「毎朝、見ており申す。爪も深く切っており申さぬ」
律儀な男だ。
「……ひとつ、お伝えしたきことが」
勝家は、少し照れたように鼻の下を擦った。
「それがし、麦飯にしてから、《《膝が軽うござる》》。前は馬を下りるとき、脛のあたりが妙に重うござったが、近頃はそれがない」
俺は、思わず足を止めた。
(――そうか)
この男は、この一年、城中でただ一人、麦飯を常食していた。
飲水病の養生のために俺が命じた麦飯が、《《ついでに脚気を防いでいた》》のだ。
城中で三人が足を萎えさせ、一人が死に、与一郎が心の臓を病んだ、その同じ一年に。
俺は、この男の顔を見上げて、正直に言った。
「権六殿。それがし、貴殿を診たとき、飲水病のことしか考えており申さなんだ」
「は」
「――だが結果として、貴殿は二つの病を避けておられた。医者が思い至らぬところで、身体は勝手に助かることがある」
「……はあ」
勝家は、よく分からぬという顔をした。
構わない。俺が覚えておけばいい。
医者は万能ではない。だが、正しいことをしておけば、《《自分が意図しなかった命まで、時々、拾える》》。
◆
その日から、末森と清洲に、奇妙な光景が現れた。
俺が、小さな木槌を持って歩き回るのである。
足軽を捕まえては座らせ、膝の少し下、皿の下の腱を、ぽん、と叩く。
健やかな者は、脛が勝手にぴょこんと跳ね上がる。
だが脚気の来ている者は、《《跳ねない》》。
膝の反応が消えるのは、この病の早い徴の一つだ。腕や口の中を見るより、はるかに手っ取り早く、はるかに正確である。
「うわっ、勝手に足が!」
「動くな。もう一度」
ぽん。
「……跳ねぬな。お前、近頃、飯は」
「へ、へえ。組頭に取り立てていただいてから、白い飯を」
「今日から麦を混ぜろ。糠の汁も飲め。苦いが我慢しろ」
城中では、これが「勘十郎さまの膝叩き」と呼ばれるようになった。
最初は薄気味悪がっていた兵も、そのうち順番待ちの列を作るようになった。跳ねると嬉しいらしい。
ある日、その列の最後尾に、見覚えのある大男が並んでいた。
権蔵――半月ばかりで槍を持てるようになった、あの足軽組頭である。
「なんだ権蔵。お前は麦を食っておろう」
「へえ。ですが、跳ねるところを見とうござって」
俺は、笑ってしまった。
◆
そして三月の後。
白飯の組、二百人。足の萎えを訴えた者、十一名。膝の反応が消えていた者、二十九名。
麦飯の組、二百人。足の萎えを訴えた者、一名。膝の反応が消えていた者、三名。
――一名の内訳は、隠れて白飯を買い食いしていた者だった。
数を書き付けた紙を、俺は清洲の広間に置いた。
信長は、それを長いこと眺めていた。
武将たちが息を殺す中、彼はやがて顔を上げ、こう言った。
「勘十郎」
「はい」
「貴様の申した通りになったな」
「……はい」
「ならば、織田の飯は変える」
あっさりしたものだった。
この男には、面目もしがらみもない。《《数が正しければ、正しい》》。ただそれだけだ。
俺は、この兄のこういうところが――たぶん、生涯で一番好きだったのだと思う。
「兄上。もう一つ、お願いが」
「なんだ」
「兄上ご自身の飯も」
信長の眉が、初めて、あからさまに動いた。
「……俺は湯漬けでよい」
「白い飯を湯で流し込む。脚気になれと申されるようなものにござる」
「戦の前は、あれが早い」
「麦飯でも湯は注げまする」
「味が落ちる」
「命よりは軽うござる」
しばらく、兄弟で睨み合った。
家老たちが、青い顔で息を止めていた。天下の織田上総介に飯の中身で説教する人間など、この世に一人しかいない。
やがて、信長は、ふん、と鼻を鳴らして横を向いた。
「……三日に一度だ」
「毎日」
「五日に二度」
「毎日」
「勘十郎、貴様」
「兄上」
俺は、真顔で言った。
「それがしは、《《兄上に七十まで生きていただく》》と申し上げた。約定にござる」
信長は、俺を睨みつけた。
それから、なぜか、ふっと笑った。
「――麦を炊け」
小姓が慌てて走り出す。
俺は、心の中で一つ、カルテに書き込んだ。
弘治二年 冬
症例・織田上総介信長。二十四歳。
主食を麦飯へ変更。本人の同意、辛うじて得たり。
残り、二十六年。
――白い飯が兵を殺す。
この国が、それを本当に理解するまで、あと三百年かかる。
だが俺は、三百年を待つ気がなかった。
脚気はビタミンB1(チアミン)の欠乏で起こります。米を白く精げるときに削り落とされる糠の部分に、それが最も多く含まれているためです。
作中の与一郎が起こしたのは「衝心脚気」と呼ばれる型で、末梢の血管が緩みきり、心臓が異常な量の血を送り続けた末に力尽きるものです。全力疾走を昼夜続けさせられるようなもの、と言えば近いかもしれません。数日で死に至りますが、B1を補うと数時間で劇的に改善します。医学の中でも、これほど劇的に効く治療は多くありません。
膝を叩いて反応を見る診察は、実際に明治期の日本陸軍が脚気の集団検診に使っていた方法です。膝の反射が消えるのは、この病のかなり早い徴候です。
そして今回の山場である「四百人をくじで二組に分け、飯だけを変えて比べる」という手法。これは三百年後の明治十七年、海軍軍医・高木兼寛が二隻の軍艦を同じ航路に出して実証した、日本医学史に残る実験の原型です。ちなみに当時、陸軍でこれに真っ向から反対したのが、軍医であり文豪でもあった森鷗外でした。結果、日露戦争で陸軍は二万七千人を脚気で失っています。
次話から、勘十郎の医術は城の中を出て、尾張の村々へ向かいます。
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