外伝二「蟹」(四・完) 錆色の痰、労咳にあらず
外伝二、最終話です。
――治す薬は、ありません。
やす婆は、三日で村を回った。
わたしはついていかなかった。ついていけば、医者が言わせたことになる。
小屋に残って、三人の脈を取り、痰を見て、それから紙に書いた。一日に何度か、遠くで婆の声がした。何を言っているかは聞こえない。ただ、時々、怒鳴り返す声が混じった。
四日目の朝、婆が上ってきた。
息を切らして、小屋の前の石に腰を下ろした。
「医者どの」
「いかがでござった」
「怒鳴られた」
婆はそう言って笑った。
「『婆さまが呑ませたのだろうが』とな」
「さようにござろう」
「そうじゃと答えた」
彼女は、袖で額を拭いた。
「『わしが呑ませた。ゆえに、わしが止めよと言うておる』とな」
わたしは深く頭を下げた。
「医者どの。一つ、聞かせよ」
「はい」
「《《焼けば、よいのか》》」
わたしは顔を上げた。いい問いである。
「たぶん、よろしゅうござる」
「たぶん、か」
「わたしは、《《虫を見ておりませぬ》》」
わたしはそう言った。
「ゆえに、焼けば死ぬとも言い切れませぬ。なれど――生で呑んだ者だけが病み、《《焼いて食う者は病んでおりませぬ》》」
わたしは、三日分の調べを頭の中で並べた。
「この村で、蟹を焼いて食う者に、一人も咳の者がおりませなんだ。ならば、焼けばよろしい」
「それと――潰した汁が手についたら、洗うてくだされ。その手で、別の飯を触られては、意味がござらぬ」
やす婆は頷いた。膝に手を突いて、ゆっくり立ち上がる。
「医者どの。久兵衛たちは、どうなる」
◆
わたしは、それに答えねばならなかった。
先生は、こう言われた。――治せぬときに、逃げるな。
小屋へ戻り、四人の前に座った。
朝の光が、煙出しの穴から一本、床に落ちている。その光の中を、細かい埃が上っていた。
「申し上げまする」
わたしはそう言った。
「《《治す手立ては、ござらぬ》》」
久兵衛が、目を伏せた。
「肺に入った虫を、殺す薬を、わたしは持っておりませぬ。南蛮にも、明にも、たぶんござらぬ。いつか、誰かが見つけましょう。なれど、《《それは、今日ではござらぬ》》」
「なれど」
わたしは続けた。
「三つ、申し上げまする」
「一つ。……《《この病は、労咳ほど早くは進み申さぬ》》」
わたしはそう言った。
「久兵衛どのは、四年経って、まだ歩いておられる。労咳の四年目は、こうではござらぬ」
「わたしは、労咳の者を十五年診申した。その方は、三十六で亡くなられ申した」
久兵衛が、顔を上げた。
「久兵衛どのは、四十五にござる。まだ、《《歩いておられる》》」
「二つ。……《《養生は、効き申す》》」
わたしは指を折った。
「食え。寝ろ。日に当たれ。風を通せ。これは労咳の養生にござる。なれど、《《肺を病んだ者には、たいてい効き申す》》」
わたしは、煤で黒い天井を見上げた。窓のない、煙の籠もる小屋である。
「山の小屋に籠っておっては、効きませぬ」
そこで、三つ目を言った。
「三つ。……《《村へ、降りてくだされ》》」
久兵衛が、顔を上げた。
「なれど、村の者が」
「わたしが、申しまする」
◆
その日の夕、わたしは村の辻に立った。
やす婆が村じゅうを呼び集めた。八十人ほどが、辻の周りに集まった。田から上がったばかりの者は、脛に泥をつけたままだった。日が斜めに差して、人の影が長く伸びていた。
「京、啓迪院の与一郎と申す」
わたしはそう名乗った。
「三つ、申し上げる」
「一つ。《《久兵衛どのの一家の病は、労咳ではない》》」
ざわめきが起きた。
「労咳には、《《夕方の熱と、夜の汗》》がある。あの三人には、ない」
わたしはそう言った。
「労咳の痰は、《《鮮やかな赤》》である。あの三人の痰は、《《錆の色》》をしておる」
「そして、《《やす婆どのが、十月、あの小屋で世話をなさった》》」
わたしは続けた。
「窓もない狭い小屋で、同じ空気を吸い、同じ釜の飯を食うて、十月。そして、《《この通り、達者でおられる》》」
やす婆が、前に出て両手を広げてみせた。
どっと、笑いが起きた。
わたしは、その笑いをありがたいと思った。
「二つ目」
わたしはそう言った。
「この病は、《《人から人へは移らぬ》》。元は、《《生の沢蟹》》である」
村が、静まり返った。誰かの手から、鍬が滑って地面に当たった。
「そして――《《この村には、咳をしておる者が、ほかに十一人おる》》」
わたしはそう言った。
「そのうち六人の痰が、久兵衛どのと同じ色をしておる」
ざわめきが、別の色になった。互いに顔を見合わせる者がいた。目を伏せる者がいた。
「村の衆」
わたしはそう言った。
「六人は、《《この中におられる》》。名は、申さぬ」
わたしは続けた。
「なれど、その六人を山へ追うなら――《《この村は、山だらけになり申す》》」
誰も、何も言わなかった。
風が吹いて、辻の埃が舞った。
「三つ目」
わたしはそう言った。
「《《明日から、沢蟹を生で呑ませるのを、やめていただきたい》》」
「焼いて食うのは、構い申さぬ。潰した汁が手についたら、洗うてくだされ。それだけにござる」
「それだけで、《《これから生まれる子は、この病にかかり申さぬ》》」
◆
その夜、久兵衛の一家は村へ降りた。
家は荒れていた。一年、空いていたからである。屋根の茅が落ち、土間に草が生えていた。
村の者が、七人ほど手伝いに来た。
誰も、口をきかなかった。黙って草を抜き、黙って茅を運び、黙って帰っていった。
だが、来た。
わたしは、それでいいと思った。
◆
発つ朝、万作が荷を担いでいた。
「万作。……乗るのか」
「乗ります」
彼はそう答えた。
「兄が、《《行けと申しました》》。――『おれは、労咳ではない。ゆえに、《《お前は、逃げなくてよい》》』と」
わたしは、その言葉に何も返せなかった。
◆
村の外れの道で、やす婆が待っていた。
朝靄が谷に溜まっていて、婆の姿は下半分が白く霞んでいた。
「医者どの」
「やすどの」
「一つ、頼みがある」
「なんなりと」
「《《書いてくれ》》」
わたしは顔を上げた。
「わしは、八十じゃ。来年おるかどうか、分からん。わしが死ねば、《《また、蟹を呑ませはじめる》》。ゆえに、紙に、書いてくれ」
わたしはその場で、荷から紙を出して書いた。
だが、書きながら思った。
この村に、字の読める者が何人おる。
「やすどの」
わたしはそう言った。
「紙は、置いてゆき申す。なれど、《《それだけでは足りませぬ》》」
「ほかに、何がある」
わたしは、三十九年前に作られたものを思い出していた。
岐阜城の裏庭で、字の読めぬ三百人のために作られたもの。
「やすどの。……《《節を、一つご存じか》》」
わたしはそこで、唄った。
――ひとつ、押さえよ 離すな覗くな
やす婆の顔が、変わった。
「それは」
「ご存じか」
「知っとる」
彼女はそう言った。
「村の者は、《《みな知っとる》》」
「どこで覚えられた」
「知らん」
やす婆はそう答えた。
「《《昔から、あった》》」
◆
わたしは、それを聞いて笑った。
笑って、そして目のあたりが熱くなった。
先生は、九年前に亡くなられた。
だが、節は、肥前の山奥まで来ていた。
「やすどの。その節に、《《言葉を入れ替えてくだされ》》」
わたしたちは、その場で四つ作った。
朝靄の中で、八十過ぎの婆と四十八の医者が、節を合わせて言葉を並べた。
――ひとつ、蟹は焼け 生では呑むな
――ふたつ、潰した手は よう洗え
――みっつ、錆色の痰 労咳にあらず
――よっつ、咳の者を 山へやるな
やす婆は、それを三度繰り返して覚えた。
「医者どの」
「はい」
「《《三つ目が、一番よい》》」
彼女はそう言った。
「なにゆえ」
「『労咳にあらず』と唄えば、《《山へやらんで済む》》」
わたしは、その場で深く頭を下げた。
◆
平戸へ戻ったのは、九日目である。
太吉丸は、まだ湊にいた。帆を下ろしたまま、朝の光の中で静かに揺れていた。
「爺さま」
「遅い」
爺さまはそれだけ言った。
「風は」
「明後日だ」
◆
その夜、わたしは爺さまの部屋で、一部始終を話した。
爺さまは黙って聞いていた。手元では、竹を細く削っている。何に使うものかは分からなかった。
話し終えると、こう聞いた。
「与一郎」
「はい」
「その一家は、《《治るのか》》」
「治り申さぬ」
「ならば、《《貴様は、何をした》》」
わたしは、その問いに少し驚いた。
先生も、同じことを聞かれたと聞いている。三十四年前、中村という村で七人死んだときである。
――その七人は、貴様が来る前に死んだ。では貴様は、《《何を助けた》》。
「爺さま。……三つにございます」
わたしはそう答えた。
「一つ。《《四人が、山から降り申した》》。病は治り申さぬ。なれど、家で寝られまする」
「二つ。《《六人が、山へ追われずに済み申した》》。その者どもは、まだ『年のせい』と言われておりました。いずれ、労咳と呼ばれる日が来たはずにござる」
「三つ」
わたしは、そこで一度、言葉を切った。
「《《これから生まれる子が、この病にかかり申さぬ》》」
削り屑が、床に落ちる音がした。
「爺さま。……三つ目は、《《数えられませぬ》》。名も、顔も、生まれておるかどうかも分かり申さぬ」
わたしはそう言った。
「なれど、《《それが一番、多うござる》》」
爺さまは、長いこと黙っていた。
そして、竹を削る手を止めずに、こう言った。
「与一郎」
「はい」
「《《勘十郎と、同じことを言うたぞ》》」
わたしは、そこで泣きそうになった。
◆
出航の前夜、わたしは京への文を書いた。宗吉宛である。
灯明の下で、船が軋む音を聞きながら書いた。
――宗吉どの。
――明日、明へ渡る。いつ戻るか、分からぬ。
――『手当書』に、一項を加えていただきたい。別紙に記す。
――一、《《労咳に似て、労咳にあらざる咳のこと》》。
―― 肥前の山中にて見たり。
―― 症――長く続く咳。喀血。痩せ。右上肺に擦れ音と濁音。
―― ――《《ここまでは、労咳と同じである》》。
―― 《《合わぬもの、五つ》》。
―― 一、《《夕方の熱がない》》。
―― 二、《《夜の汗がない》》。
―― 三、《《痰が錆色にて、ねばり、糸を引く》》。(労咳は鮮血なり)
―― 四、《《脇腹の一点が痛む》》。
―― 五、《《四年経ちて、なお片肺に留まる》》。
―― ※そして、《《狭き小屋にて十月世話をしたる老婆が、病まず》》。
―― ――《《これが、最も大きい。労咳ならば、必ず移る》》。
―― 元――《《生の沢蟹》》と考える。
―― 当地にては、これを「疳の薬」として子に呑ませる習わしあり。
―― ――《《薬として、母が娘に呑ませていた》》。
―― ※虫は、《《見ておらぬ》》。
―― ――《《証は立たぬ。証の立たぬまま、書き残す》》。
―― ――《《いつか、誰かが、この虫を見つける》》。
―― 手当て――《《薬なし》》。
―― なれど、労咳ほど早くは進まぬ。養生は効く。
―― ――そして何より、《《山へ追う必要がない》》。
―― 予防――《《生で呑むな。焼いて食え。潰した手を洗え》》。
―― ※唄、四つを作りたり。別記。
―― ――節は、先生のものを借りた。
―― 肥前の山奥にて、《《すでに唄われておった》》。
―― ――《《誰も、作り手を知らぬ》》。
◆
わたしはそこまで書いて、筆を止めた。
そして、最後に一行足した。
―― ※二十四年前、わたしは、《《同じ症を見て「労咳」と申し上げた》》。
―― ――《《先生に、「答えを持って部屋に入るな」と叱られた》》。
―― ――《《今日、村じゅうが持っておった答えを、捨てた》》。
―― ――《《二十四年、かかった》》。
署名を入れた。
――記す。太吉丸、与一郎。
◆
明けて、風が来た。
南から吹き上がる、乾いた風である。帆が張られると、船体が軋んで、係留の綱が鳴った。
太吉丸は、平戸を出た。
万作は、舳先に立っていた。
陸が遠ざかっていく。入江が閉じ、山が青く霞んでいった。
あの奥に、村がある。
わたしは、たぶん、二度と行かない。久兵衛がいつまで生きるかも、知らない。たねが嫁に行けるかどうかも、知らない。やす婆が来年おるかどうかも、知らない。
先生は、こう書き残された。
――医者は、《《自分が蒔いた種の実を、たいてい見ずに死ぬ》》。
わたしは、舳先に立って山を見ていた。
万作が、隣で唄っていた。
――みっつ、錆色の痰 労咳にあらず
下手だった。
だが、節は、合っていた。
外伝二「蟹」、これで完結です。
肺吸虫症は、現在ではプラジカンテルという薬で治療できます。治癒率は高く、早期であれば後遺症もほとんど残りません。
ですが天正十九年の与一郎には、薬がありません。
彼にできたのは三つだけでした。労咳ではないと告げること。感染経路を断つこと。そして、山へ追われた人々を村へ戻すことです。
病そのものは、一つも治していません。
それでも、この三つには意味があります。
感染症において、診断が持つ価値は治療だけではありません。「これは人にうつらない」と確定させることは、その人が社会の中で生きられるかどうかを決めます。
現代においても、感染経路の正しい理解が、患者への不当な扱いを防ぐという場面は、繰り返し起こっています。
なお、肺吸虫症の病原体が発見されるのは十九世紀後半のことで、日本での本格的な研究は明治期を待ちます。与一郎が書き残したのは、虫を見ないまま、症状の差異と曝露歴から組み立てた推論だけです。
――
外伝二は、二十四年前の誤診をやり直す話でした。
本編第十九話で、与一郎は同じような症状の若者を診て「労咳かと存じます」と答え、師にこう叱られています。
「お前は、答えを持って、この部屋に入ったな。それは、診察ではない。答え合わせだ」
今回、村じゅうが持っていた答えを、彼は捨てました。
二十四年かかりました。
お読みいただきありがとうございました。




