外伝二「蟹」(三) 薬じゃ
この村では、沢蟹を生で食べます。
――薬として。
三十軒を回るのに、三日かかった。
最初の日、わたしは門前払いを食った。
「労咳の家に出入りしておる医者を、入れられるか」
当然である。戸を閉められ、心張り棒を掛ける音が中から聞こえた。
二軒目も、三軒目も同じだった。四軒目では、戸を開けもしなかった。
わたしは村の辻に立った。
昼下がりで、斜面の棚田に人影がいくつか動いている。稲はまだ青い。谷から風が吹き上がってきて、稲の葉がいっせいに裏返った。
「咳をしておる者はおらぬか!」
わたしは、そう叫んだ。
「一月を越えて咳をしておる者は、どこの家でもよい! 診る! 銭は取らぬ!」
田で動いていた人影が、二つ三つ、こちらを見た。それだけだった。誰も出てこなかった。
◆
二日目、わたしはやす婆を訪ねた。
村の一番下、沢に近い小さな家である。土間に藁が積んであり、その奥で婆が縄を綯っていた。
八十を越えた、小さな婆さんだった。背が丸まって、座っていると子供ほどの大きさしかない。だが手だけは休みなく動いていた。
「やすどの」
わたしはそう呼んだ。
「あの小屋で、十月、世話をされたと伺い申した」
「したよ」
婆は、手を止めずに答えた。
「なにゆえ」
「ほかに、誰も行かんからじゃ」
「怖くはござらなんだか」
婆は、そこで初めて顔を上げた。そして、歯のない口で笑った。
「八十じゃぞ。移ったところで、どうということもない」
わたしはその言葉に、深く頭を下げた。
「やすどの。……お願いがござる」
「なんじゃ」
「この村で、《《咳をしておる者を、教えていただきたい》》」
婆の手が、そこで止まった。縄が、半ばまで綯われたまま膝の上に落ちる。
「医者どの。……なにゆえ、そんなことを聞く」
「久兵衛どのの病が、《《労咳ではないかもしれぬ》》ゆえにござる」
婆の顔が、変わった。
「なんと」
「まだ、確かではござらぬ。確かめるには、ほかに咳をしておる者を探さねばなり申さぬ」
「なにゆえじゃ」
「もし村じゅうに散らばっておるなら、《《人から移っておる》》」
わたしはそう答えた。
「なれど、同じところで、同じものを食うた者にだけ出ておるなら――それは、《《別の話》》にござる」
やす婆は、膝の縄を土間に置いた。そして、両手を突いて立ち上がった。腰が伸びきらず、しばらく前屈みのまま止まっていた。
「行くぞ」
「どちらへ」
「《《わしが連れて行く》》」
彼女はそう言った。
「医者どのが辻で怒鳴っても、誰も出て来ん。じゃが、《《わしが行けば、戸を開ける》》」
◆
二日で、十七軒を回った。
やす婆は、家の前に立つと、戸を叩きもせずに名を呼んだ。
「おい、ぜんじ。おるか」
すると、戸が開いた。
この婆さんが六十年この村にいるということが、それだけで分かった。中には、生まれたときに取り上げてもらったという者もいた。
そして、咳をしている者が十一人見つかった。
「医者どのの言うた通りじゃ」
最後の家を出たところで、やす婆はそう言った。
「みな、『年のせい』『煙のせい』と言うておった」
◆
わたしは、その十一人を一人ずつ診た。
背中に耳を当て、指で叩き、そして痰を出させた。
「汚うございます」
何人にも、そう言われた。
「わたしは、《《汚いものを見るのが仕事》》にござる」
わたしは、そのたびにそう答えた。
結果は、こうだった。
十一人のうち、《《六人》》の痰が、錆の色をして、糸を引いた。残る五人は、白か、黄色であった。
◆
「万作。絵図だ」
その晩、わたしは小屋の囲炉裏端で、紙を広げた。
村の絵を描く。家を、四角で。道を、線で。
そして、《《沢を、書き込んだ》》。
この村には、沢が三本流れ込んでいる。東の沢。中の沢。西の沢。三本とも、上流の山から下りてきて、村の下で本流に合わさる。
わたしは、錆色の痰を出した九人の家を、炭で黒く塗った。
久兵衛の家。さと。たね。そして村の六人。
塗り終えて、紙を持ち上げ、囲炉裏の火に近づけた。
「万作」
わたしはそう言った。
「《《散っておる》》」
黒い四角は、村じゅうに散らばっていた。東にも、西にも、真ん中にも。
「与一郎さま。……ならば、《《やはり移っておるのでは》》」
万作がそう言った。
わたしはその紙を、長いこと見ていた。
二十四年前、先生はこう教えられた。
――偏りが出ぬなら、《《別の軸で塗れ》》。
「万作。家では、駄目だ」
「ならば、何で」
「《《食うたもの》》だ」
わたしはそう言った。
「人から移らぬなら、同じところから受け取っておる。同じところとは、水か、飯か、そのどちらかだ」
わたしは絵図を指した。
「水は、三本の沢に分かれておる。だが、病んだ者は、三本ともにおる。ならば、水ではない」
「残るは、《《食うたもの》》だ」
「万作。……九人に、聞け。《《みなが食うて、村の残りの者が食わぬもの》》を」
◆
それは、半日で分かった。
いや、やす婆が、聞いた瞬間に言った。
朝、水を汲みに来たところを捕まえて、わたしがそれを問うと、婆は不思議そうな顔をした。
「それなら、《《蟹》じゃろう」
わたしは顔を上げた。
「蟹」
「沢蟹じゃ。この山では、《《生で食う》》」
わたしは、その言葉に背筋が凍った。
「生で」
「潰して、そのまま呑む。甲羅ごと石で潰して、汁を呑む者もおる」
「なにゆえ、そのようなことを」
やす婆は、不思議そうな顔をした。桶を地面に置いて、腰を伸ばしながら答えた。
「決まっとろうが。《《薬じゃ》》」
◆
わたしは、その場に座り込んだ。
「薬」
「疳の薬じゃ」
婆はそう言った。
「子が夜泣きしたら、沢蟹を潰して呑ませる。麻疹のときも呑ませる。……咳が出るときも、じゃな」
わたしは、頭を抱えた。
――咳が出るときも。
「やすどの」
わたしは掠れた声で言った。
「久兵衛どのが咳きだしたとき、……《《呑まされましたか》》」
「呑ませたじゃろうな」
「さとどのは」
「呑ませたじゃろう」
「《《たね殿は》》」
やす婆は、そこで黙った。
沢の音がしていた。婆は桶の縁に手を掛けたまま、しばらく水面を見ていた。
「あの子は、《《生まれつき身体が弱かった》》」
やがて、そう言った。
「さとが、《《毎年、呑ませておった》》」
◆
わたしは、立てなくなった。
母が、娘に、良かれと思って呑ませ続けた。そして、娘が病んだ。
その夜、わたしは小屋の外で、ずっと沢の音を聞いていた。
月が出ていた。杉の梢の間から、細く光が落ちている。沢の水が、そこだけ白く見えた。
「与一郎さま」
万作が、隣に来て腰を下ろした。
「嫂に、……申しまするか」
わたしは答えられなかった。
告げれば、この女は一生、自分を責める。告げねば、同じことが続く。
先生の言葉を思い出していた。
――知らなかったことで、人は責められん。知る手立てが、なかったのだからな。だが、今、お前は知った。
先生は、この言葉を三十年、繰り返された。中村の三助に。明智十兵衛どのに。産婆のとめどのに。
わたしは、その全部を隣で聞いていた。
「万作」
わたしはそう言った。
「告げる。なれど、《《言い方がある》》」
◆
翌朝、わたしは小屋の中に四人を集めた。
久兵衛。さと。たね。そして万作。やす婆にも、来てもらった。
煙出しの穴から、朝の光が斜めに落ちていた。灰の中で、埋み火が細く煙を上げている。
「申し上げまする」
わたしはそう言った。
「一つ目。《《これは、労咳ではござらぬ》》」
さとが、息を呑んだ。
「二つ目。《《人から人へは、移り申さぬ》》」
久兵衛の顔が、ゆっくりと歪んだ。四年、この男が背負ってきたものが、そこで崩れたのが分かった。
「三つ目」
わたしはそう続けた。
「元は、《《沢蟹にござる》》」
◆
「生の沢蟹の中に、目に見えぬ虫がおりまする。それを呑むと、腹から入り、肺に住みつきまする。そして、咳と、錆色の痰を出しまする」
さとの手が、震えはじめた。
この女は、気づいた。
「さとどの」
わたしは、すぐにそう呼んだ。
「先に、一つ申し上げまする」
「《《貴女は、悪くござらぬ》》」
さとがわたしを見た。目が、大きく見開かれていた。
「この山では、沢蟹は《《薬》》にござった」
わたしはそう言った。
「親から、そう教わられた。その親も、そのまた親から教わられた。《《何百年も、そうでござった》》」
「貴女は、《《薬を呑ませた》》のです。娘御を、《《治そうとなさった》》。それは、母として、正しいことにござる」
わたしは深く頭を下げた。土間の冷たさが、膝から伝わってきた。
「知らなかったことで、人は責められませぬ。知る手立てが、なかったのですから」
「――《《なれど》》」
わたしは顔を上げた。
「今、貴女は知られた。ここから先は、《《違いまする》》」
◆
さとは、声を上げて泣いた。
十四のたねが、母の背中をさすっていた。この娘も咳をしているのに、母の背をさすっていた。
やす婆は、わたしをじっと見ていた。
そして、こう言った。
「医者どの」
「はい」
「わしは、《《六十年、蟹を呑ませてきた》》」
わたしは顔を上げた。
「産婆の真似事をしておったでな。この村の子は、《《たいてい、わしが呑ませた》》」
わたしは何も言えなかった。
この婆は、六十年、良かれと思って。
「やすどの」
わたしはそう呼んだ。
「一つ、お願いがござる」
「なんじゃ」
「《《止めていただきたい》》。そして、《《止めるのは、貴女でなければならぬ》》」
「なにゆえ」
「わたしが『蟹を食うな』と言うても、《《誰も聞き申さぬ》》」
わたしはそう答えた。
「旅の医者が、四日おっただけにござる。なれど、六十年、蟹を呑ませてきた婆さまが『やめよ』と言えば――《《村は、やめまする》》」
やす婆は、長いこと黙っていた。
囲炉裏の煙が、光の筋の中をゆっくり上っていく。
やがて、歯のない口で笑った。
「医者どの」
「はい」
「《《ひどいことを言いよるな》》」
「さようにござる」
わたしはそう答えた。
「《《六十年を、否めと言うておりまする》》」
肺吸虫症の感染源は、サワガニやモクズガニの生食です。
そして日本では長く、生の川蟹が民間薬として用いられてきました。子どもの疳の虫に効く、麻疹に効く、咳に効く——地域によって様々な言い伝えがあり、実際に子どもに飲ませる習慣が広く存在しました。
つまりこの病は、多くの場合、**親が良かれと思って子に与えた結果**として広がりました。
これは日本の寄生虫症の歴史において、繰り返し現れる構図です。善意で行われてきた習慣が、原因そのものであるという事態。
こうした場面で、原因を告げる側には慎重さが求められます。
告げなければ、同じことが続きます。ですが告げ方を誤れば、その人は生涯自分を責め続けることになります。
作中で与一郎が用いたのは、彼の師が三十年繰り返してきた言葉でした。
「知らなかったことで、人は責められません。知る手立てが、なかったのですから。——ですが、今、あなたは知りました。ここから先は、違います」
次話で完結します。
お読みいただきありがとうございました。




