外伝二「蟹」(二) 錆の色
痰を、見せていただきたい。
万作が村から借りてきた紙は、寺の反故だった。裏に読経の練習らしい下手な字が並んでいる。
わたしはそれをひっくり返し、囲炉裏の傍に膝をついて、真ん中に一本、縦の線を引いた。
左に、《《合うもの》》。右に、《《合わぬもの》》。
――合うもの
一、四年に及ぶ咳。
二、喀血。
三、痩せ。
四、右上肺の擦れ音と濁音。
五、家の者に、次々と出ている。
――合わぬもの
一、夕方の熱がない。
二、夜の汗がない。
書き終えて、わたしはその二つを長いこと見ていた。炭が爆ぜて、火の粉が一つ、灰の上に落ちた。
「与一郎さま」
万作が、覗き込んで言った。
「合うものが、五つでございます。合わぬものは、二つで」
「万作。数の話ではない」
わたしはそう言った。
「先生は、こう言われた」
――一つずつなら、どれも大したことはない。なれど、《《全部揃っている》》。
「これは、揃っておらん。労咳は、《《必ず、熱と汗を連れてくる》》」
わたしは十五年、それを見た。
竹中どのは、初診のときにこう言われた。寝間着を絞れるほどに、それも寒い夜ほど、と。わたしはそれを隣で聞いていた。そして、その後の十五年、毎年それを確かめた。労咳が進むほど、熱と汗は必ず増えた。播磨の陣中で最後に診たとき、あの方の寝間着は、夜明けには床に染みを作るほどだった。
「万作。嫂どのを呼べ」
◆
さとは、四十になる女だった。
髪を後ろで無造作に括っている。頬骨が浮いて、目の下に色がなかった。咳をしていた。そして、わたしの顔を見ようとしなかった。
「さとどの」
わたしはそう呼んだ。
「一つ、伺いまする。……痰を、見せていただきたい」
さとの顔が歪んだ。
「そのようなもの」
「見せていただきたい」
「汚うございます」
わたしはその言葉に、ふと宗吉のことを思い出した。
あれは今どうしているだろうか。先生が亡くなられて七月、京の啓迪院を一人で背負っているはずである。
先生は、こう教えられた。
――汚いと思うのは、《《見る側》》である。病人は、それどころではない。
「さとどの」
わたしはそう言った。
「わたしは、《《汚いものを見るのが仕事》》にござる。膿も、糞も、血も見申す。それを見なんだら、何も分かり申さぬ」
さとはしばらく黙っていた。囲炉裏の火が、その横顔を赤く照らしている。
やがて、彼女は枕元の欠けた碗を取って、こちらへ押し出した。
◆
わたしはそれを、煙出しの穴から差し込む光にかざした。
そして、息を呑んだ。
――色が、違う。
労咳の血痰は、鮮やかな赤である。肺の血の管が破れて、新しい血がそのまま出てくるからだ。
だが、これは。
《《錆の色》》だった。茶褐色――いや、赤黒い茶色である。
そして、ねばっていた。
わたしは箸でそれを持ち上げた。
――糸を、引いた。
「さとどの。これは、いつもこの色にござるか」
「……はい」
「赤いものは」
「ございませぬ」
「一度も、でござるか」
「一度も」
わたしはその碗を持ったまま立ち上がった。
「久兵衛どのの痰も、見せていただきたい。たね殿のも」
◆
三つの碗が、囲炉裏の縁に並んだ。
三つとも、同じ色をしていた。錆の色。そして、糸を引く。
「万作。書け」
「おれは、字が」
「下手でよい。絵で描け」
万作は炭の欠片を取って、紙の隅に三つの丸を描いた。そしてその中を、ぐるぐると塗り潰した。
◆
その日、わたしは三人を並べて、もう一度、初めから診た。
そして、《《合わぬもの》》が増えていった。
――三、《《痰の色が違う》》。
鮮血にあらず。錆色にて、ねばりあり、糸を引く。
――四、《《胸が痛む》》。
三人とも、《《脇腹の、決まった一点》》を押さえる。
――労咳では、こうは言わぬ。
――五、《《四年、ほとんど変わっておらぬ》》。
久兵衛どの、四年前より痩せてはおるが、《《歩ける》》。
――労咳の四年目は、こうではない。
五つ目を書いたところで、筆が止まった。
竹中どのは、初診から四年目に左へ渡られた。そして、そこから早かった。左に音が出てから、亡くなるまで五年である。
この男の左は、澄んでいた。四年経って、右の上だけである。
「万作。一つ、聞かせろ」
わたしはそう言った。
「お前は、八年、堺におった」
「はい」
「その間、この山には帰らなんだな」
「帰りませぬ」
「そして、お前は咳が出ん」
「……はい」
「万作。……去年の秋から今日まで」
わたしは、囲炉裏の火を見ながら聞いた。
「この小屋で、《《誰が三人の世話をしておった》》」
万作は少し考えた。
「……村の、《《やす婆さま》》が」
「その婆さまは、どうしておる」
「達者でございます」
万作はそう答えた。
「八十を越えておりますが、咳一つしませぬ」
わたしは、そこで背中に汗をかいた。
「万作。その婆さまは、何月世話をした」
「去年の秋から……ですから、十月ほどでございましょうか」
「この、狭い小屋でか」
「さようで」
「飯も、同じ釜か」
「はい」
わたしはその場に座り込んだ。
◆
労咳は、空気で移る。
先生は、こう書かれた。
――触れて移るのではない。器を分けても、あまり意味はない。《《同じ空気を吸うことが、いかん》》。特に、狭い部屋。締め切った部屋。長く一緒にいる者。
この小屋には窓がない。煙出しの穴が一つあるきりだ。
そこで、八十を越えた婆が、十月。
咳をする三人と、同じ空気を吸い続けた。
そして、病んでいない。
「万作」
わたしはそう言った。
「《《これは、労咳ではない》》」
万作はわたしを見た。口を半分開けたまま、まばたきもしなかった。
「与一郎さま。……それは」
「万作。落ち着いて聞け」
わたしはそう言った。
「まだ、確かではない。だが、労咳としては、辻褄が合わぬところが五つある」
わたしは指を折った。
「夕方の熱がない。夜の汗がない。痰が錆の色をして、糸を引く。脇腹の一点が痛む。四年経って、左へ渡っておらぬ」
「そして、《《十月世話をした婆さまが、病んでおらぬ》》」
万作の膝が、そこで崩れた。土間に手をついて、彼はしばらく動かなかった。
「では、兄は」
「万作」
わたしはその肩を掴んだ。
「《《治るとは、申しておらん》》」
◆
ここを、間違えてはならない。
先生は、こう書かれた。
――症が軽くなることと、病が治ることは、違う。これを取り違えると、医者は嘘をつくことになる。
「労咳でないということは、《《別の病だ》》ということにすぎん。別の病が、治るとは限らん」
「なれど」
わたしはそう続けた。
「《《一つだけ、変わることがある》》」
「なんでございます」
「《《移らぬ、かもしれん》》」
万作の顔が止まった。
「移らぬ、と」
「まだ、《《かもしれん》》だ」
わたしはそう釘を刺した。
「だが、婆さまが十月無事だったのは、大きい」
◆
「ならば、なにゆえ、《《三人とも病んだのでございますか》》」
万作がそう聞いた。
わたしは、その問いに膝を打ちたくなった。いい問いである。
「万作。それが、これから調べることだ」
囲炉裏の火が、また一つ爆ぜた。
「移らぬなら、なにゆえ一つの家で三人病んだか。答えは、二つに一つだ」
わたしは指を折った。
「一つ。《《やはり移る》》。二つ。《《三人とも、同じものを、どこかで受け取った》》」
「同じもの」
「そうだ。人からではなく、《《同じところから》》」
わたしはそう言って、万作の顔を見た。
「万作。お前は、八年、この山におらなんだ。そして、病んでおらん」
「婆さまは、この山におったが、小屋に来たのは去年の秋からだ。そして、病んでおらん」
「ならば、《《受け取ったのは、それより前だ》》」
「万作。……四年前より前に、この家で、《《何が起きたか》》」
万作は長いこと考えていた。そして、首を振った。
「分かりませぬ。おれは、九年前にこの山を出ました」
「ならば、聞け」
わたしはそう言った。
「村じゅうに、聞け」
「何を」
「《《咳をしておる者を、全部数えろ》》」
万作が顔を上げた。
「村には、おりませぬ。労咳は、兄の家だけでございます」
「万作」
わたしはそう言った。
「それは、《《村の者がそう言うておるだけ》》だ」
わたしは立ち上がった。頭が梁に当たりそうになって、少し屈む。
「咳をしておる者は、《《必ず、ほかにもおる》》。ただ、『労咳』と呼ばれておらぬだけだ。『年のせいだ』『煙のせいだ』『風邪が長引いておる』――そう呼ばれておる」
戸口を開けると、外はもう暗かった。沢の音が、昼より大きく聞こえる。
「三十軒だな」
「はい」
「《《全部、回る》》」
今回の決め手は、喀痰の性状です。
結核の血痰は鮮紅色です。肺の血管が破れて、新しい血液がそのまま出てくるためです。
一方、肺吸虫症の喀痰は、錆色から暗褐色を呈し、粘稠でゼリー状になります。虫が肺に作った巣の中で、血液が変性して長く滞留するためです。実際、この特徴的な喀痰は、現在も診断の重要な手がかりとされています。
もう一つ、今回登場したのが、十か月看病して発症しなかった老婆です。
結核は空気を介して伝播します。狭い小屋で十か月、同じ空気を吸い続けて発症しないというのは、極めて考えにくいことです。
感染症を考えるとき、「誰が発症したか」と同じくらい、「誰が発症していないか」が重要になります。曝露したのに発症しない人がいるなら、その病の伝播経路を疑い直さなければなりません。
次話、原因に辿り着きます。
お読みいただきありがとうございました。




