第五十話 ひとつ、押さえよ
最終話です。
――三十五年前、末森城の一室で、この人はこう言いました。
「兄上の身体を、それがしに預けていただきたい。死ぬまで、それがしが診まする」
天正十八年、十月。
――《《俺は、坂を下りはじめた》》。
◆
――《《医者として、それは分かった》》。
――《《瀉血が、効かなくなった》》。
碗に半分抜いても、翌日には足が腫れる。
二日に一度が、毎日になった。それでも追いつかなくなった。
――《《飯が、通らなくなった》》。
粥を三口食うと、腹が張って苦しくなる。
◆
――《《そして、《《咳が出るようになった》》》》。
――《《横になると、《《泡の混じった痰》》が出る》》。
――《《薄い赤みが、混じっていた》》。
俺は、それを碗に取らせて、明かりにかざした。
――《《細かい泡が、いつまでも消えなかった》》。
◆
「――《《宗吉》》」
「はい」
「――《《これを、《《書いておけ》》》》」
◆
――《《一、心の臓の弱りが進むと、《《泡の混じる痰》》が出る。》》
――《《 薄く赤みを帯びることあり。》》
――《《 ――《《これは、肺に水が溜まった徴である。》》》》
――《《 ――《《この症が出たら、《《残りは、月の単位である》》。》》》》
◆
「――《《先生》》」
宗吉は、《《筆を持ったまま、動かなかった》》。
「――《《書け》》」
「――《《なれど》》」
「――《《宗吉》》」
俺は、そう言った。
◆
「――《《俺が今、《《書かせずに死んだら》》》》」
「……」
「――《《お前は、《《次に同じ症を見たとき、何も知らん》》》》」
◆
「――《《俺の身体は、《《最後の症例》》だ》》」
俺は、そう言った。
「――《《無駄にするな》》」
◆
――《《宗吉は、《《泣きながら書いた》》》》。
――《《字が、震えていた》》。
――《《それでいい、と俺は思った》》。
――《《この男は、三年前、俺の脛を押した十人のうちの一人ではない》》。
――《《もっと前から、俺の身体を診てきた男である》》。
◆
十一月。
――《《与一郎が、来た》》。
◆
――《《四十五になっていた》》。
――《《髪に、白いものが混じっていた》》。
――《《俺が二十六年前に拾った、廊下で倒れていた小姓である》》。
――《《あのとき、この男は十九だった》》。
◆
「――《《勘十郎さま》》」
彼は、寝床の傍に座って、そう言った。
――《《旅装のままだった》》。
「――《《遅うなり申した》》」
「――《《舟か》》」
「――《《さようにございます》》」
彼は、少し笑った。
「――《《歩いて参りましたら、《《十日かかりまする》》》》」
◆
「――《《与一郎》》」
「はい」
「――《《脈を、取れ》》」
◆
――《《この弟子は、《《何も言わずに、俺の手首を取った》》》》。
――《《指を、三本》》。
――《《人差し指、中指、薬指。橈骨の内側》》。
――《《宗吉は、涙を流しながら書く》》。
――《《与一郎は、《《泣かずに、診る》》》》。
――《《二十六年の差である》》。
◆
「――《《どうだ》》」
「――《《速うございます。……そして、《《時折、飛びます》》》》」
「――《《足は》》」
「――《《膝まで、腫れております》》」
「――《《首の血の管は》》」
「――《《起こしておっても、《《浮いております》》》》」
◆
「――《《与一郎》》」
俺は、そう言った。
「――《《お前の見立てを、言え》》」
◆
――《《与一郎は、しばらく黙っていた》》。
――《《俺の顔を見て、それから足を見て、また顔を見た》》。
そして、こう言った。
「――《《……月の単位かと存じます》》」
「――《《甘い》》」
俺は、そう答えた。
「――《《《《日の単位だ》》》》」
◆
「――《《なにゆえでございます》》」
「――《《俺の身体だからだ》》」
俺は、そう言った。
「――《《内から分かる》》」
◆
「――《《それは、書に書けん》》」
俺は、続けた。
「――《《ゆえに、《《言うておく》》》》」
◆
「――《《人は、《《自分が死ぬのが分かる》》ことがある》》」
俺は、そう言った。
「――《《患者がそう言うたら、《《笑うな》》》》」
「……」
「――《《『気の迷いにござる』と言うな》》」
俺は、言った。
「――《《《《たいてい、当たる》》》》」
◆
「――《《そのときは、《《やり残したことを聞け》》》》」
俺は、そう言った。
「――《《『まだ大丈夫だ』ではない。……《《『何かやり残しがあるか』》》だ》》」
◆
「――《《与一郎》》」
「はい」
「――《《聞け》》」
◆
――《《与一郎は、姿勢を正した》》。
――《《そして、こう聞いた》》。
「――《《勘十郎さま。……やり残されたことは、ございますか》》」
◆
――《《俺は、少し考えた》》。
――《《そして、こう答えた》》。
「――《《ある》》」
「――《《三つだ》》」
◆
「――《《一つ。《《甲斐の、貝》》だ》》」
俺は、そう言った。
「――《《八年前、俺は甲府の盆地で、腹の膨れる病の元を見つけた》》」
「……」
「――《《水際におる、七、八分の小さな巻貝だ》》」
◆
「――《《あれを絶やせば、病は消える》》」
俺は、そう言った。
「――《《俺の代では、終わらん。……お前の代でも終わらん》》」
「……」
「――《《《《続けろ》》》》」
◆
「――《《二つ。《《書だ》》》》」
俺は、そう言った。
「――《《六巻ある。……徳川どのの巻が一つ、南蛮へ渡ったものが一部》》」
「……」
「――《《《《写しを、増やせ》》》》」
◆
「――《《そして、《《散らせ》》》》」
俺は、そう言った。
「――《《一か所に置いたものは、《《一度の火で消える》》》》」
「――《《……八年前にも、そう仰せになりました》》」
「――《《同じことしか言うておらん》》」
俺は、少し笑った。
「――《《それが、俺の仕事だ》》」
◆
「――《《三つ目は》》」
与一郎が、そう聞いた。
◆
――《《俺は、そこで、《《答えられなかった》》》》。
――《《障子の外で、風が鳴っていた》》。
◆
「――《《勘十郎さま》》」
「――《《……いや》》」
俺は、そう言った。
「――《《三つ目は、《《言えぬ》》》》」
◆
「――《《なれど、《《やり残しではない》》》》」
俺は、続けた。
「――《《《《人の名だ》》》》」
◆
「――《《本能寺で、十四人を置いてきた》》」
俺は、そう言った。
「――《《そのうち、《《一人の名しか知らん》》》》」
「……」
「――《《千代丸という。……十六だった》》」
俺は、そう言った。
「――《《残りの十三人は、《《もう、誰にも分からん》》》》」
◆
「――《《八年前だ。……あの部屋は、《《焼けた》》》》」
俺は、そう言った。
「――《《寺の過去帳も、焼けた》》」
「……」
「――《《《《探しようが、ない》》》》」
◆
「――《《与一郎》》」
「はい」
「――《《これは、《《やり残しではない》》》》」
俺は、そう言った。
「――《《《《取り返しがつかぬこと》》だ》》」
◆
「――《《医者は、《《取り返しのつかぬものを、いくつか抱えて死ぬ》》》》」
俺は、そう言った。
「――《《それは、《《当たり前のことだ》》》》」
「……」
「――《《数えるな。……ただし、《《忘れるな》》》》」
◆
十二月。
――《《兄が、来た》》。
◆
――《《雪の日だった》》。
――《《俺は、そのとき、《《半分、眠っていた》》》》。
――《《起きているのか寝ているのか、自分でも分からなくなっていた》》。
◆
「――《《勘十郎》》」
――《《その声で、目が覚めた》》。
――《《肩に、雪が乗っていた》》。
――《《払わずに入ってきたのだ》》。
◆
「――《《兄上》》」
俺は、そう言った。
――《《声が、出なかった》》。
――《《いや、《《出ていたが、自分では聞こえなかった》》》》。
◆
「――《《遅い》》」
兄は、そう言った。
◆
――《《俺は、笑おうとした》》。
――《《笑えたかどうかは、分からない》》。
◆
「――《《船は》》」
俺は、そう聞いた。
「――《《浮かんでおる》》」
「――《《出しましたか》》」
「――《《まだだ》》」
兄は、そう答えた。
「――《《春に出す》》」
◆
「――《《どこへ》》」
「――《《まず、《《九州だ》》》》」
彼は、そう言った。
「――《《それから、《《明へ行く》》》》」
「……」
「――《《その次は、《《南だ》》》》」
◆
「――《《兄上》》」
俺は、そう言った。
「――《《お一人で、乗られるのか》》」
「――《《阿呆》》」
兄は、そう言った。
「――《《船大工が二百人おる》》」
◆
「――《《四十人、乗る》》」
彼は、そう言った。
「――《《みな、《《自分で乗ると言うた》》》》」
「……」
「――《《俺は、一人も誘っておらん》》」
◆
――《《俺は、その言葉に、《《笑った》》》》。
――《《今度は、《《確かに笑えた》》》》。
◆
「――《《兄上》》」
「なんだ」
「――《《それが、《《答え》》にござる》》」
◆
「――《《何のだ》》」
「――《《三十五年前、それがしは兄上に申し上げました》》」
俺は、そう言った。
「――《《『兄上は、いずれ天下をお獲りになる』と》》」
「……」
「――《《あれは、《《外れ申した》》》》」
◆
「――《《なれど》》」
俺は、続けた。
「――《《《《二百人が、船を作った》》》》」
「……」
「――《《そして、《《四十人が、自分から乗ると言うた》》》》」
◆
「――《《兄上。……それは、《《天下より、難しゅうござる》》》》」
◆
――《《兄は、しばらく黙っていた》》。
そして、こう言った。
「――《《勘十郎》》」
「……」
「――《《七十まで生きろと、貴様は言うたな》》」
◆
「――《《申し上げ申した》》」
俺は、そう答えた。
「――《《三十五年、同じことを》》」
◆
「――《《生きる》》」
兄は、そう言った。
「――《《七十まで生きる》》」
「……」
「――《《そして、《《そのときに、礼を言う》》》》」
◆
「――《《兄上》》」
俺は、そう言った。
「――《《それがしは、おり申さぬ》》」
◆
「――《《知っておる》》」
兄は、そう答えた。
◆
「――《《それでも、言う》》」
◆
――《《俺は、そこで、《《泣こうとした》》》》。
――《《だが、《《涙が出なかった》》》》。
――《《身体に、水を出す力が、もう残っていなかった》》。
◆
――《《俺は、その代わりに、こう言った》》。
「――《《兄上》》」
「なんだ」
「――《《脈を、取らせていただきたい》》」
◆
――《《三十五年前と、同じ言葉だった》》。
◆
――《《兄は、腕を差し出した》》。
――《《俺は、その手首に指を当てた》》。
――《《いや、《《当てようとした》》》》。
――《《手が、動かなかった》》。
◆
「――《《与一郎》》」
俺は、そう言った。
「――《《代われ》》」
◆
――《《与一郎が、俺の手を取って、《《兄の手首に導いた》》》》。
――《《指の腹が、皮膚に触れた》》。
――《《冷たかった》》。
――《《外から来たばかりの腕である》》。
◆
――《《打っていた》》。
――《《整。……やや硬い。……六十台の後半》》。
◆
「――《《兄上》》」
俺は、そう言った。
「――《《ご健勝にござる》》」
◆
――《《三十五年前、末森城の一室で、俺は同じことを言った》》。
――《《あのとき、この人は二十二だった》》。
――《《縁側に片膝を立てて座って、庭を見ていた》》。
――《《俺は、その脈を取って、こう言った》》。
――《《『今は、どこも』》》。
◆
――《《そして、こう続けた》》。
――《《『兄上は、いずれ天下をお獲りになる。……ゆえに、家督は要りませぬ』》》。
――《《『代わりに、兄上の身体を、それがしに預けていただきたい』》》。
◆
――《《『死ぬまで、それがしが診まする』》》。
◆
「――《《兄上》》」
俺は、そう言った。
「――《《約定を、《《果たせませなんだ》》》》」
◆
「――《《『死ぬまで診る』と申し上げました》》」
俺は、続けた。
「――《《なれど、《《それがしのほうが、先に死にまする》》》》」
◆
――《《兄は、しばらく黙っていた》》。
そして、こう言った。
「――《《勘十郎》》」
「……」
「――《《俺は、《《死ぬまで診てもらった》》》》」
◆
「――《《貴様のではない》》」
彼は、そう言った。
「――《《《《俺の、死ぬまでだ》》》》」
「……」
「――《《まだ死んでおらんから、《《続きは、与一郎が診る》》》》」
◆
「――《《それは、貴様が作った男だ》》」
兄は、そう言った。
「――《《ならば、《《貴様が診ておるのと同じだ》》》》」
◆
――《《俺は、そこで、《《ようやく、涙が出た》》》》。
――《《一筋だけだった》》。
――《《それが、身体に残っていた最後の水だった》》。
◆
――《《それから、どれほど経ったか、分からない》》。
――《《日が沈んで、また昇った気がする》》。
――《《何度か、そうなった気がする》》。
――《《障子が、明るくなったり暗くなったりしていた》》。
◆
――《《そして、《《息が、変わった》》》》。
◆
「――《《宗吉》》」
俺は、そう呼んだ。
――《《声が出たかどうか、分からない》》。
――《《だが、《《手が、握られた》》》》。
◆
「――《《書け》》」
◆
「――《《先生》》」
「――《《書け》》」
◆
――《《一、死に際の息のこと。》》
◆
「――《《息が、《《だんだん深くなる》》》》」
俺は、そう言った。
――《《一息に一つしか言えなかった》》。
「――《《深く、深く、《《大きくなって》》》》」
「……」
「――《《そして、《《だんだん浅くなる》》》》」
◆
「――《《浅く、浅くなって、《《止まる》》》》」
俺は、続けた。
「――《《数を、《《十か、二十》》数える間、止まる》》」
「……」
「――《《そして、《《また、始まる》》》》」
◆
「――《《これを、繰り返す》》」
俺は、そう言った。
「――《《宗吉。……《《これが出たら、《《日ではない》》》》》》」
◆
「――《《《《刻の単位だ》》》》」
◆
「――《《だから、《《人を呼べ》》》》」
俺は、そう言った。
「――《《家族を呼べ。……間に合わせろ》》」
「……」
「――《《それが、《《この症を知っておく理由だ》》》》」
◆
「――《《治すためではない》》」
俺は、そう続けた。
「――《《《《間に合わせるためだ》》》》」
◆
「――《《書いたか》》」
「――《《……書きました》》」
◆
「――《《宗吉》》」
「はい」
「――《《それは、《《今の俺の息だ》》》》」
◆
――《《宗吉が、《《声を上げた》》》》。
――《《与一郎が、それを制した》》。
――《《肩に手を置いただけだった》》。
◆
「――《《勘十郎さま》》」
与一郎が、そう言った。
「――《《やり残しは、ございますか》》」
◆
――《《俺は、この弟子が、《《ちゃんと聞いた》》ことに、笑った》》。
――《《二十六年、教えた甲斐があった》》。
◆
「――《《ある》》」
俺は、そう言った。
「――《《一つだけ》》」
◆
「――《《なんなりと》》」
◆
「――《《《《唄を、聞きたい》》》》」
◆
――《《部屋が、静かになった》》。
◆
「――《《三十四年前に作った》》」
俺は、そう言った。
「――《《岐阜城の裏庭でだ》》」
「……」
「――《《字の読めぬ三百人に、《《どうやって教えるか》》分からなくて、《《絵を描いて唸っておった》》》》」
「――《《紙を、三十枚無駄にした》》」
◆
「――《《そこへ、義姉上が来られた》》」
俺は、そう言った。
「――《《絵を一枚だけ覗いて、そして、こう仰せになった》》」
◆
――《《唄になさいませ》》
◆
「――《《俺は、三十四年、《《あれを超えるものを、一つも思いつかなかった》》》》」
◆
「――《《与一郎》》」
「はい」
「――《《唄え》》」
◆
――《《与一郎が、《《唄いはじめた》》》》。
――《《下手だった》》。
――《《四十五の男の、震える声だった》》。
――《《節が、二度外れた》》。
◆
――《《ひとつ、押さえよ 離すな覗くな》》
◆
――《《宗吉が、続いた》》。
――《《この男の声は、まっすぐだった》》。
◆
――《《ふたつ、寝た者 横向けよ》》
◆
――《《廊下から、声が入ってきた》》。
――《《若い者たちである》》。
――《《いつの間にか、《《廊下に、大勢いた》》》》。
――《《障子の向こうに、影が並んでいた》》。
◆
――《《みっつ、白けりゃ 足あげろ》》
――《《 赤けりゃ 頭をあげてやれ》》
◆
――《《数が、増えていく》》。
――《《十人。二十人。……もっと》》。
――《《廊下が、いっぱいになったらしい》》。
――《《庭からも、聞こえてきた》》。
◆
――《《よっつ、煮た布 洗うた手》》
――《《 塩と甘みの 湯を飲ませ》》
◆
――《《俺は、目を閉じた》》。
◆
――《《三十四年前、この唄を、三百人が唄いながら庭を練り歩いた》》。
――《《鍬を担ぐような調子で》》。
――《《足軽が、足並みを揃えて》》。
――《《傍から見れば、完全に狂った光景だった》》。
――《《通りかかった家老が、露骨に顔をしかめて去っていった》》。
◆
――《《俺は、庭の隅で腕を組みながら、《《震えていた》》》》。
――《《これが、教育だ》》と、思った。
◆
――《《しめて、縛ったその刻を》》
――《《 額に書いて 忘れるな》》
◆
――《《額に、書いてあった》》。
――《《越前の寺で、二十年前に》》。
――《《坊さまが、それを読んで、《《ゆっくり縄を解いた》》》》。
◆
――《《俺は、それを、知らずに二十年生きた》》。
◆
――《《医者は、自分が蒔いた種の実を、たいてい見ずに死ぬ》》。
◆
――《《それでいい》》。
◆
――《《唄が、続いている》》。
――《《廊下から、庭から、どこか遠くから》》。
――《《俺の知らぬ声が、混じっていた》》。
――《《たぶん、《《俺が名を知らぬ弟子どもだ》》》》。
◆
――《《それでいい》》。
◆
――《《俺は、その中で、《《息を吸った》》》》。
◆
――《《深く》》。
◆
――《《そして――》》
◆
◆
◆
◆
――《《天正十八年十二月十九日、酉の刻。》》
――《《織田勘十郎信勝、死去。享年五十五。》》
◆
――《《死因――心の臓の弱り。》》
――《《 六年前の、心の臓の血の管の詰まりによる。》》
◆
――《《経過――》》
――《《 労作時の息切れ(平地二十歩)→ 起坐呼吸 → 夜間の発作 →》》
――《《 下腿の浮腫 → 瀉血の効果減弱 → 食思不振 →》》
――《《 《《泡沫状の血痰》》 → 意識の混濁 →》》
――《《 ――《《死に際の息(深浅を繰り返し、止まり、また始まる)》》》》
◆
――《《※最後まで、口述された。》》
――《《 ――《《ご自身の死に際の息を、書き取らせられた。》》》》
――《《 「これが出たら、刻の単位だ。だから、人を呼べ。家族を呼べ。間に合わせろ」》》
――《《 「治すためではない。間に合わせるためだ」》》
◆
――《《※最期の御所望は、唄であった。》》
――《《 ――《《手当ての唄。三十四年前、岐阜にて作られしもの。》》》》
――《《 四番の途中にて、息を引き取られた。》》
◆
――《《 ――《《唄は、五番まで唄い終えた。》》》》
――《《 ――《《止める者が、おらなんだゆえである。》》》》
◆
――《《記す。啓迪院、宗吉。》》
◆
◆
◆
◆
――《《以下、後の記録による》》。
◆
――《《翌年の春、堺より一艘の船が出た》》。
――《《名を、太吉丸という》》。
――《《乗り組み、四十二名》》。
――《《うち一名、四十六歳の医者。名を与一郎という》》。
◆
――《《船は、九州を経て明へ渡り、その後の消息を、公の記録は伝えない》》。
――《《ただし、慶長の頃、堺の商家の帳面に、こういう一行がある》》。
◆
――《《南より、太吉丸の便り届く。》》
――《《源三の爺さま、いまだ達者との由。》》
◆
――《《この「源三の爺さま」が誰であったかは、分からない》》。
――《《ただ、この帳面に記された年から逆算すると、その人物は、《《七十を越えていたことになる》》》》。
◆
――《《啓迪院は、続いた》》。
――《《『手当書』は、六巻から、やがて十四巻になった》》。
――《《書き足したのは、宗吉と、その弟子と、そのまた弟子である》》。
――《《そして、《《越後や、肥前や、美濃の話が、加えられていった》》》》。
◆
――《《甲斐の盆地では、腹の膨れる病が、その後も長く人を殺し続けた》》。
――《《この病が完全に消えるのは、《《四百年ほど後》》のことである》》。
――《《だが、水際の貝を拾う習わしは、絶えなかった》》。
――《《なにゆえ拾うのかを、途中から誰も知らなくなった》》。
――《《それでも、拾い続けた》》。
◆
――《《そして、唄が残った》》。
◆
――《《誰が作ったかは、誰も知らない》》。
――《《尾張で唄われ、美濃で唄われ、越前で唄われ、播磨で唄われた》》。
――《《産婆が唄い、足軽が唄い、百姓が唄った》》。
◆
――《《節は、土地ごとに少しずつ変わった》》。
――《《言葉も、少しずつ変わった》》。
――《《だが、《《一番目だけは、どこでも同じだった》》》》。
◆
――《《ひとつ、押さえよ 離すな覗くな》》
◆
――《《それは、傷を負うた者の血を止めるとき、《《布を当てて押さえ続けよ》》という意味である》》。
――《《途中で覗くな、という意味である》》。
◆
――《《なぜ覗いてはならぬのかを、唄は説明しない》》。
◆
――《《説明せずとも、《《人は覚え、そして、《《人が死ななかった》》》》》》。
◆
◆
◆
――《《慶長十九年の冬。》》
――《《大坂の城が、囲まれた。》》
◆
――《《城の中に、四十五になる女がいた》》。
――《《幼い頃、二度、燃える城から出された女である》》。
――《《そして今度は、《《出されなかった》》》》。
◆
――《《その女が、城内の手当所を差配していたという話が、一つだけ伝わっている》》。
――《《傷者を三つの筵に分けさせ、湯を絶やさず沸かさせ、そして》》。
◆
――《《産婆を呼び、《《手を洗わせた》》という》》。
◆
――《《なにゆえそこまでするのかと問われて、その女はこう答えたと伝わる》》。
◆
――《《昔、面倒な仕事をする医者がおりました。》》
◆
◆
◆
――《《 ――《《了》》》》
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
今回の医学的な内容について、二つだけ補足します。
一つは、心不全の終末期に現れる泡沫状の血痰です。肺の中に水が溜まり、空気と混ざることで泡状になります。うっすらと赤みを帯びるのは、毛細血管から少量の血液が漏れ出すためです。この症状が現れると、経過は厳しいものになります。
もう一つが、最後に勘十郎が口述した呼吸です。
だんだん深く大きくなり、次にだんだん浅くなり、そして数十秒止まる。また始まる。これを繰り返す——チェーン・ストークス呼吸といいます。
重症の心不全や、脳の障害、そして死期が近づいたときに現れます。
この呼吸を知っておく意味は、治療のためではありません。時間の見通しを立てるためです。この呼吸が現れたら、多くの場合、残された時間は日ではなく時間の単位になります。
だから、人を呼びます。間に合わせるために。
勘十郎が最後に書かせたのは、それでした。
――
この物語は、六十三歳の外科医が「本能寺の変さえなければ」と考えながら死ぬところから始まりました。
彼は、本能寺を消せませんでした。
寺は焼け、明智光秀は死に、歴史は動きました。彼が二十七年をかけて防ごうとしたものは、防げませんでした。
残ったのは、一人の兄と、六巻の書と、四十七の名前と、そして唄です。
それが多いのか少ないのか、書いている私にも分かりません。
ただ、彼はこう書き残しました。
「医者は、自分が蒔いた種の実を、たいてい見ずに死ぬ」
長らくのお付き合い、まことにありがとうございました。




