第四十八話 太吉丸
天正十八年三月、文が四行だけ届きました。
板を、張り終えた。
来月、浮かべる。
――見に来い。
勘十郎は、平らな廊下を十歩も歩けません。
天正十八年、三月。
――《《文が、二通、同じ日に来た》》。
◆
一通目は、《《兄》》からだった。
――《《四行しか、なかった》》。
◆
――《《勘十郎。》》
――《《板を、張り終えた。》》
――《《来月、浮かべる。》》
――《《――《《見に来い。》》》》
◆
俺は、その四行を、《《寝床の上で、何度も読んだ》》。
――《《八年》》。
――《《七年かけて骨を組み、一年かけて板を張った》》。
――《《そして、この人は、それを四行で知らせてきた》》。
◆
――《《そして、俺は、《《行けない》》》》。
◆
――《《五十五である》》。
平らな廊下を、十歩も歩けない。
厠は、二人がかりで運ばれる。
――《《堺までは、五日かかる》》。
――《《駕籠で五日揺られたら、《《途中で死ぬ》》》》。
◆
俺は、返事を書こうとして、筆を持ったまま、《《動けなくなった》》。
――《《なんと書けばいい》》。
――《《「行けませぬ」か》》。
墨を磨らせたまま、半日、そのままだった。
◆
そこへ、宗吉が入ってきた。
「――《《先生。もう一通、ございます》》」
「――《《誰からだ》》」
「――《《与一郎さまにございます》》」
◆
俺は、それを開いた。
――《《四十五になった弟子の字である》》。
――《《二十五年前より、少し丸くなっていた》》。
◆
――《《勘十郎さま。》》
――《《殿の文が、同じ日に届いておりましょう。》》
――《《「見に来い」と書いておられるはずにござる。》》
――《《――《《あの方は、それだけしか書かれませぬ。》》》》
――《《ゆえに、それがしが書きまする。》》
◆
――《《勘十郎さま。》》
――《《《《舟で、来られませ。》》》》
◆
――《《俺は、その一行を見て、《《手が止まった》》》》。
◆
――《《京の伏見から、《《淀川を下れば》》、大坂まで舟で参れまする。》》
――《《川舟にござれば、揺れませぬ。》》
――《《そして――《《歩かずに済みまする》》。》》
――《《大坂から堺までは、《《海沿いに、また舟》》にて。》》
――《《合わせて、二日にござる。》》
――《《――《《一歩も、歩かずに参れまする。》》》》
◆
――《《勘十郎さま。》》
――《《それがしは、二十五年、あなたさまの傍におりました。》》
――《《そして、この八年、殿の傍におりました。》》
――《《その三十三年で、それがしが学んだことを、一つ申し上げまする。》》
――《《――《《あなたさまは、《《歩けぬときのことを、他人には教えるが、ご自分では考えぬ》》。》》》》
◆
――《《俺は、その文を持ったまま、《《声を上げて笑った》》》》。
――《《笑って、胸が痛んで、そして咳き込んだ》》。
「――《《先生!》》」
「――《《宗吉》》」
俺は、咳き込みながら言った。
「――《《舟を、《《手配しろ》》》》」
◆
四月。
――《《伏見から、川舟に乗った》》。
◆
――《《寝たままだった》》。
舟底に夜具を敷き、背中に荷を積んで、上体を起こしたまま横になる。
板が、背中に硬い。だが、宗吉が夜具を三枚重ねてくれていた。
――《《それでも、息は苦しかった》》。
――《《だが、《《歩くよりは、ずっとましだった》》》》。
◆
――《《川は、静かだった》》。
春である。
両岸に菜の花が咲いていて、鳥が鳴いていた。
舟は、櫓を使わない。流れに乗って、ただ下っていく。時々、船頭が竿を突いて向きを直す。その音だけがしていた。
俺は、舟底から空を見ていた。
――《《雲が、流れていく》》。
――《《俺と、同じ速さで流れていた》》。
◆
――《《三十五年、俺はこの国を歩き回った》》。
尾張。美濃。京。近江。播磨。甲斐。
――《《いつも、《《急いでいた》》》》。
誰かが死にかけていて、走って、駆けつけて、そして間に合ったり、間に合わなかったりした。
――《《道の景色を、覚えていない》》。
◆
――《《こんなに、ゆっくり動いたのは、初めてだった》》。
◆
「――《《宗吉》》」
「はい」
「――《《菜の花が、咲いておる》》」
「――《《さようにございます》》」
「――《《……見たのは、何年ぶりだろうな》》」
◆
――《《宗吉は、答えなかった》》。
――《《ただ、俺の背中の荷を、少し高くしてくれた》》。
――《《そして、垂れを上げて、菜の花がよく見えるようにした》》。
◆
二日目の夕方。
――《《堺の湊が、見えた》》。
◆
湊は、船で埋まっていた。
明の帆船。南蛮の丸い船腹の船。日本の弁才船。荷を積んだ小舟が、その間を縫って動いている。
岸には蔵が並び、荷揚げの掛け声が水の上を渡ってきた。
――《《俺は、舟底から身を起こそうとした》》。
「――《《先生、なりませぬ》》」
「――《《起こせ》》」
「――《《先生》》」
「――《《宗吉》》」
俺は、その袖を掴んだ。
「――《《俺は、三十五年、これを待っておった》》」
◆
――《《宗吉は、俺を抱え起こした》》。
――《《そして、俺は、それを見た》》。
◆
――《《湊の、一番奥》》。
――《《そこに、《《巨大なものが、立っていた》》》》。
◆
――《《長さ、十八間》》。
――《《だが、《《長さより、高さだった》》》》。
――《《周りの船が、みな低く見えた》》。
◆
この国の船は、《《低い》》。
平べったくて、水に張りついたような形をしている。波を避けて、内海を走るための形だ。
――《《これは、違った》》。
舳先が高く反り上がり、後ろも高く、そして――《《腹が、深かった》》。
まだ台の上に載せられている。だから、その腹の底まで見える。
――《《丸い》》。
――《《そして、《《異様に深い》》》》。
◆
――《《それは、《《水に浮かぶために作られた形》》ではなかった》》。
――《《《《波を、越えるために作られた形》》だった》》。
◆
俺は、その場で、《《声が出なくなった》》。
――《《見た瞬間に、分かった》》。
――《《これは、《《海の向こうへ行く船》》だ》》。
◆
「――《《勘十郎さま》》」
――《《声が、した》》。
俺は、湊のほうを見た。
――《《男が、立っていた》》。
◆
――《《痩せていた》》。
――《《日に焼けていた》》。
――《《髭が、白かった》》。
――《《町人の小袖を着て、腰に何も差していなかった》》。
――《《袖をたくし上げていて、腕に木の削り屑がついていた》》。
◆
――《《首に、傷跡があった》》。
◆
「――《《兄上》》」
俺は、そう言った。
――《《八年ぶりだった》》。
◆
――《《五十七である》》。
――《《だが、《《背筋が、まっすぐだった》》》》。
――《《俺のほうが、よほど老いていた》》。
◆
「――《《勘十郎》》」
彼は、そう言った。
――《《声が、低く、嗄れていた》》。
――《《八年前と、同じだった》》。
◆
「――《《歩けるか》》」
「――《《歩けませぬ》》」
「――《《そうか》》」
◆
――《《彼は、《《舟に乗り込んできた》》》》。
――《《舟が、揺れた》》。
――《《そして、俺の傍に、《《胡座をかいて座った》》》》。
◆
「――《《兄上。それは、その》》」
「――《《貴様が来られぬなら、俺が行くだけだ》》」
彼は、こともなげに言った。
「――《《船は、逃げん》》」
◆
――《《俺は、その言葉に、《《何も返せなかった》》》》。
◆
――《《その日は、それで終わった》》。
俺は、堺の宿に運ばれ、そして――《《一日、寝込んだ》》。
――《《舟でも、二日は堪えた》》。
夜、足がひどく腫れた。宗吉が碗に半分、血を抜いた。
◆
――《《翌々日、俺は湊へ運ばれた》》。
――《《戸板に乗せられて》》。
――《《四人の船大工が、担いだ》》。
――《《そして、船の下に置かれた》》。
◆
――《《近くで見ると、《《さらに大きかった》》》》。
――《《見上げると、首が痛くなった》》。
板の継ぎ目に、黒いものが詰めてある。松脂と麻を煮たものだという。
その匂いが、あたりに満ちていた。
◆
「――《《兄上》》」
「なんだ」
「――《《これは、《《何人で作られました》》》》」
◆
「――《《延べで、二百人ほどだ》》」
兄は、そう答えた。
「――《《始めは二十人だった。……途中で増えた》》」
「……」
「――《《近江の宮大工が来た。伊勢の船大工が来た。……《《一人、南蛮人も来た》》》》」
◆
「――《《南蛮人》》」
「――《《追放になった坊主どもの中に、《《船の分かる者》》がおった》》」
兄は、そう言った。
「――《《九州へ落ちる途中で、堺に寄った。……そのまま、《《残った》》》》」
◆
「――《《なにゆえ》》」
「――《《骨組みを見たからだ》》」
兄は、そう答えた。
「――《《『これを、日本人が作ったのか』と申した》》」
彼は、少し笑った。
「――《《そして、《《三月泣いて、それから三年働いた》》》》」
◆
――《《俺は、その話を聞いて、《《目を閉じた》》》》。
――《《ロレンソどののことを、思い出していた》》。
――《《あの人も、三十五年、どちらの国の者でもなかった》》。
◆
「――《《兄上》》」
「なんだ」
「――《《その者は、今も》》」
「――《《去年、死んだ》》」
兄は、そう答えた。
「――《《病でな》》」
「……」
「――《《墓は、あそこだ》》」
◆
――《《彼が指したのは、湊の脇の、小さな盛り土だった》》。
――《《木の札が、二本立っていた》》。
――《《どちらも、新しくはなかった》》。
――《《だが、《《倒れていなかった》》》》。
――《《誰かが、直しているのだ》》。
◆
「――《《二本、ござるが》》」
「――《《もう一人おる》》」
兄は、そう言った。
「――《《船大工だ。……《《六年目に、落ちた》》》》」
「……」
「――《《骨組みの、上のほうからだ》》」
◆
「――《《名は》》」
「――《《《《太吉》》と申した》》」
兄は、そう答えた。
「――《《四十二だった》》」
◆
――《《俺は、その名を、《《口の中で繰り返した》》》》。
――《《太吉》》。
――《《四十二》》。
――《《会ったことのない男である》》。
◆
「――《《兄上》》」
俺は、そう言った。
「――《《この船に、《《名は》》》》」
◆
――《《兄は、答えなかった》》。
――《《代わりに、湊のほうを顎で示した》》。
◆
――《《船の舳先に、《《墨で、字が書いてあった》》》》。
俺は、靉靆を鼻に乗せた。
――《《見えた》》。
◆
――《《太吉丸》》
◆
――《《下手な字だった》》。
――《《船大工が書いたのだ》》。
――《《俺は、その三文字を見て、《《動けなくなった》》》》。
◆
「――《《船大工どもが、勝手につけた》》」
兄は、そう言った。
「――《《俺が知ったのは、後だ》》」
「……」
「――《《消させようかと思うた》》」
◆
「――《《なにゆえ、消させなんだ》》」
俺は、そう聞いた。
兄は、しばらく黙っていた。
そして、こう答えた。
「――《《あれを組んだのは、俺ではないからだ》》」
◆
「――《《俺は、銭を出した。図を集めた。人を集めた》》」
彼は、そう言った。
「――《《だが、《《釘を打ったのは、あの者どもだ》》》》」
「……」
「――《《ならば、名は、あの者どもがつければよい》》」
◆
――《《俺は、その言葉を聞いて、《《泣いた》》》》。
――《《近頃、本当によく泣く》》。
◆
「――《《なぜ泣く》》」
「――《《兄上》》」
俺は、涙を拭いながら言った。
「――《《三十五年前、末森城で、それがしは兄上の脈を取り申した》》」
「……」
「――《《あのとき、それがしは、兄上を《《退屈という病に罹った男》》と見立て申した》》」
◆
「――《《周りの誰も、自分と同じ速さで物を考えぬ。ゆえに何もかもがのろく、つまらぬ》》」
俺は、そう言った。
「――《《それが、兄上のうつけの装束と、奇矯な振る舞いの元にござると》》」
「……」
「――《《それがしは、そう診立て申した》》」
◆
「――《《当たっておったか》》」
兄が、そう聞いた。
「――《《当たっており申した》》」
俺は、答えた。
「――《《そして、《《治り申した》》》》」
◆
「――《《なんだと》》」
「――《《兄上は今、《《釘を打った者の名を、船につけておられる》》》》」
俺は、そう言った。
「――《《三十五年前の兄上なら、《《消させておられた》》》》」
◆
――《《兄は、しばらく黙っていた》》。
そして、こう言った。
「――《《勘十郎》》」
「はい」
「――《《俺は、《《八年、人の顔を覚えた》》》》」
◆
「――《《船大工の名を、二百人分覚えた》》」
彼は、そう言った。
「――《《誰の女房が病んで、誰の倅が生まれて、誰の親が死んだかも》》」
「……」
「――《《《《天下を獲るには、要らんことだ》》》》」
◆
「――《《だが、《《船を作るには、要る》》》》」
◆
――《《俺は、その言葉を聞いて、こう思った》》。
――《《三十五年、俺はこの人を《《生かそう》》としてきた》》。
――《《そして、《《生かした》》》》。
――《《だが、《《生かした先で、この人が何になるかは、俺が決めたのではない》》》》。
◆
――《《この人は、《《自分で、これになった》》》》。
◆
四月十八日。
――《《船を、浮かべる日である》》。
◆
――《《朝から、人が集まっていた》》。
船大工二百人。その家族。堺の商人。近隣の村の者。
――《《湊の岸が、埋まっていた》》。
俺は、戸板の上で、それを見ていた。
――《《一番よく見える場所に、置いてもらった》》。
◆
船は、《《台の上に載っている》》。
その台から、水際まで、《《太い木を敷いた道》》が作ってあった。
――《《滑らせて、下ろすのである》》。
道には、獣の脂が塗ってあった。日を受けて、鈍く光っている。
◆
――《《船を支えているのは、《《楔》》だった》》。
船の腹の両側に、何十本という楔が打ち込んである。
それが、この巨大なものを、地面に留めている。
◆
――《《それを、《《一斉に抜く》》》》。
◆
――《《兄が、船の脇に立った》》。
町人の小袖のままである。何も持っていない。
――《《誰も、その男を偉い者だとは思わない》》。
◆
そして、片手を上げた。
――《《それだけだった》》。
◆
――《《槌の音が、始まった》》。
両側で、男たちが楔を叩いている。
――《《かん。かん。かん》》。
音が、湊じゅうに響いた。
――《《だんだん、速くなる》》。
◆
――《《船が、《《軋んだ》》》》。
――《《木が、鳴った》》。
――《《腹の底から、《《みしり》》という音がした》》。
◆
――《《そして――《《動いた》》》》。
◆
――《《ゆっくりだった》》。
――《《人が歩くより、遅い》》。
だが、《《止まらなかった》》。
十八間の船が、傾いた道を、《《滑りはじめた》》。
◆
――《《速くなる》》。
――《《木と木が擦れて、白い煙が上がった》》。
――《《脂が、焼けている》》。
◆
――《《誰も、声を出さなかった》》。
二百人が、《《息を止めていた》》。
◆
――そして。
◆
――《《船の尻が、水に入った》》。
◆
――《《どぉん》》。
◆
――《《水が、《《壁のように立った》》》》。
湊じゅうの水面が、《《一度、盛り上がった》》。
――《《岸まで波が来て、俺の戸板を濡らした》》。
――《《だが、誰も動かなかった》》。
◆
――《《船は、《《後ろから水に入っていった》》》》。
――《《そして、《《舳先が、台を離れた》》》》。
◆
――《《一瞬》》。
――《《その巨体が、《《どこにも支えられていなかった》》》》。
◆
――《《俺は、そこで、《《息を止めた》》》》。
――《《ここで沈めば、八年が終わる》》。
――《《太吉も、南蛮人も、無駄になる》》。
◆
――《《船は、《《一度、深く沈んだ》》》》。
――《《舳先が、下がった》》。
◆
――そして。
◆
――《《《《浮き上がった》》》》。
◆
――《《ゆっくりと、水を押しのけて》》。
――《《舳先が、上がってきた》》。
――《《そして、《《静かになった》》》》。
◆
――《《傾かなかった》》。
――《《沈まなかった》》。
――《《ただ、《《静かに、浮いていた》》》》。
◆
――《《湊が、《《割れるような音になった》》》》。
二百人の船大工が、《《叫んでいた》》。
抱き合っている者がいた。
――《《座り込んで、動かない者がいた》》。
――《《笠を投げた者がいた》》。
――《《水に飛び込んだ者が、三人おった》》。
◆
――《《女が、泣いていた》》。
――《《たぶん、太吉の女房だ》》。
――《《いや、それは俺の勝手な思いつきである》》。
――《《だが、そう思った》》。
◆
――《《俺の隣で、兄は、《《何も言わなかった》》》》。
――《《ただ、《《それを見ていた》》》》。
――《《手が、《《膝の上で震えていた》》》》。
◆
「――《《兄上》》」
俺は、そう呼んだ。
「……」
「――《《名乗られませぬのか》》」
◆
――《《八年前、俺はこう言った》》。
――《《船が浮かんだときにござる》》。
――《《そのときは、隠しようがござらぬ。誰が作ったのだと、必ず問われまする》》。
――《《そのときに、名乗られよ》》。
◆
――《《兄は、しばらく黙っていた》》。
そして、こう言った。
「――《《勘十郎》》」
「はい」
「――《《《《要らん》》》》」
◆
「――《《兄上》》」
「――《《名乗って、どうする》》」
彼は、そう言った。
「――《《関白が飛んでくる。兵が来る。……そして、《《この船が、軍船になる》》》》」
「……」
「――《《それは、俺の作った船ではない》》」
◆
「――《《それに、勘十郎》》」
彼は、続けた。
「――《《俺は、《《織田上総介として、この船を作っておらん》》》》」
「……」
「――《《八年、《《ただの爺》》として作った》》」
◆
「――《《船大工どもは、俺を《《源三の爺さん》》と呼んでおる》》」
彼は、そう言った。
「――《《八年、そう呼ばれてきた》》」
「……」
「――《《――《《悪くない》》》》」
◆
――《《俺は、その言葉に、《《笑った》》》》。
「――《《兄上》》」
「なんだ」
「――《《それがしは、三十五年前、兄上に『天下を獲られる』と申し上げ申した》》」
「――《《覚えておる》》」
「――《《――《《当たり申さなんだ》》》》」
◆
「――《《いや》》」
兄は、そう言った。
「――《《獲った》》」
◆
「――《《八年前まではな》》」
彼は、そう言った。
「――《《本能寺の前の夜、俺は貴様に『この国が狭い』と言うた》》」
「……」
「――《《あのときは、《《天下を獲った上で、海へ出る》》つもりでおった》》」
◆
「――《《だが、《《順序が違うた》》》》」
彼は、そう言った。
「――《《天下は、《《要らなかった》》》》」
◆
「――《《勘十郎。俺は、《《八年、この国が狭いと思うたことが、一度もない》》》》」
◆
――《《俺は、その言葉を聞いて、《《長いこと動けなかった》》》》。
◆
「――《《兄上》》」
俺は、そう言った。
「――《《なにゆえ、狭くなくなったのでござる》》」
◆
――《《兄は、船を見ていた》》。
――《《浮かんだばかりの、まだ綱で繋がれていない船を》》。
そして、こう答えた。
「――《《やることが、《《細かくなったからだ》》》》」
◆
「――《《天下は、でかい。……だが、《《やることは、少ない》》》》」
彼は、そう言った。
「――《《攻める。獲る。次へ行く。……それだけだ》》」
「……」
「――《《船は、小さい。……だが、《《やることが、無限にある》》》》」
◆
「――《《釘の一本ずつが違う。木の一本ずつが違う。……《《毎日、知らんことが出てくる》》》》」
彼は、そう言った。
「――《《昨日も、一つ知った》》」
「……」
「――《《八年、《《退屈しなかった》》》》」
◆
――《《俺は、そこで、《《医者として、はっきりと診断した》》》》。
◆
――《《この人の病は、《《治った》》》》。
――《《三十五年かかった》》。
――《《そして、《《俺が治したのではない》》》》。
◆
「――《《兄上》》」
俺は、そう言った。
「――《《それがしは、もう、長うござらぬ》》」
◆
――《《兄は、船を見たまま、こう言った》》。
「――《《知っておる》》」
「……」
「――《《与一郎から、毎月聞いておる》》」
◆
「――《《兄上》》」
「なんだ」
「――《《七十まで、生きてくだされ》》」
◆
――《《兄は、そこで、初めてこちらを向いた》》。
――《《そして、こう言った》》。
「――《《勘十郎》》」
「はい」
「――《《貴様は、三十五年、《《同じことしか言うておらん》》》》」
◆
「――《《同じことしか、申し上げており申さぬ》》」
俺は、答えた。
「――《《それが、それがしの仕事にござる》》」
◆
――《《兄は、しばらく黙っていた》》。
そして、《《手を伸ばした》》。
――《《俺の手を、握った》》。
◆
――《《八年前、俺はこの手で、この人を担いで塀を越えた》》。
――《《今、この手は、俺より《《ずっと硬かった》》》》。
――《《掌に、《《豆が潰れた跡》》がいくつもあった》》。
――《《八年、木を削っていた手である》》。
◆
「――《《勘十郎》》」
「はい」
「――《《俺は、貴様に一度も礼を言うたことがない》》」
◆
――《《俺は、その言葉に、《《息を止めた》》》》。
――《《八年前》》。
――《《本能寺の、前の夜》》。
――《《この人は、こう言った》》。
――《《言わんぞ。七十になったら、言う》》。
◆
「――《《兄上》》」
俺は、そう言った。
「――《《まだ、五十七にござる》》」
◆
「――《《知っておる》》」
兄は、そう言った。
「――《《だが、《《貴様が七十まで待てん》》》》」
◆
――《《俺は、そこで、《《声を上げて泣いた》》》》。
――《《戸板の上で、五十七の男が、子供のように泣いた》》。
――《《周りには、二百人がいた》》。
――《《誰も、こちらを見ていなかった》》。
――《《みな、船を見ていた》》。
◆
――《《兄は、何も言わなかった》》。
――《《ただ、《《手を握っていた》》》》。
◆
――《《そして、俺が泣き終わるまで、《《そこにいた》》》》。
◆
――《《それが、俺が三十五年で教えた、たった一つの手当てだった》》。
◆
天正十八年 四月 堺
舟にて、伏見より淀川を下る。二日。――《《一歩も歩かずに着いた。》》
――《《与一郎の献策である。》》
――《《「あなたさまは、歩けぬときのことを、他人には教えるが、ご自分では考えぬ」》》
――《《その通りであった。》》
四月十八日、進水。
長さ十八間。舳先高く、腹深し。――《《波を越えるための形である。》》
延べ二百人。八年。
――《《一度、深く沈んだ。舳先が下がった。》》
――《《そして、浮き上がった。》》
――《《傾かず、沈まず、静かに浮いた。》》
※墓、二基。
一、南蛮人。追放の途中で堺に寄り、骨組みを見て残った由。三年働いて病死。
二、船大工・太吉。四十二歳。六年目に、骨組みの上より墜落。
――《《木の札は、倒れていなかった。誰かが直している。》》
※船の名――《《太吉丸》》。
――《《船大工どもが勝手につけた。下手な字であった。》》
――《《兄上は、消させなかった。》》
――《《「あれを組んだのは俺ではない。釘を打ったのはあの者どもだ」》》
症例・織田上総介信長、五十七歳。
――《《三十五年前の見立て――「退屈という病」。》》
――《《本日、《《寛解を確認》》。》》
本人の言――「八年、この国が狭いと思うたことが、一度もない」
「天下は、でかい。だが、やることは少ない」
「船は、小さい。だが、やることが無限にある」
「昨日も、一つ知った」
――《《俺が治したのではない。この人が、自分でそうなった。》》
――《《掌に、豆の潰れた跡がいくつもあった。》》
※名乗らず。
――《《「名乗って、どうする。この船が、軍船になる」》》
――《《船大工どもは、この人を「源三の爺さん」と呼んでいる。》》
――《《「俺は、貴様に一度も礼を言うたことがない」》》
――《《「まだ、五十七にござる」》》
――《《「知っておる。だが、貴様が七十まで待てん」》》
今回、医学的な新しい知識はほとんど出てきません。
代わりに書いたのは、移動手段の話です。
心不全が進行すると、わずかな労作でも息切れが起こります。歩けない、階段が登れない、平地でも二十歩がつらい。そうなると、外出そのものが不可能になります。
ですが、動けないことと、移動できないことは、同じではありません。
自力で歩けなくても、揺れず、体を起こしたまま、労力を使わずに運ばれる手段があれば、人は移動できます。作中では川舟がそれにあたります。当時の陸路の駕籠は揺れが激しく、心臓に負担がかかりますが、川を下る舟なら振動が少なく、横になったまま進めます。
「歩けないから行けない」と決めてしまう前に、歩かずに行く方法を探す——これは現在の医療や介護でも、しばしば見落とされる視点です。
作中で与一郎が師に書いた一文が、それです。
「あなたさまは、歩けぬときのことを、他人には教えるが、ご自分では考えぬ」
次話、続きます。
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