第四十七話 誰に、いつ、どれだけ
平らな廊下を、二十歩。
――それが、歩けなくなりました。
今日の症例は、勘十郎自身です。
天正十六年、春。
――《《俺は、講堂へ行けなくなった》》。
◆
坂ではない。
――《《平らな廊下を、二十歩》》である。
それが、歩けなくなった。
庭の桜が咲いていた。俺の部屋の窓からは、その枝先だけが見える。
――《《去年までは、木の下まで歩いて行けた》》。
◆
「――《《宗吉》》」
「はい」
「――《《俺の部屋を、《《講堂にする》》》》」
◆
――《《それから、若い者たちが、俺の寝床の周りに座るようになった》》。
十人ずつ、交代である。
八畳ほどの部屋に、寝床を置いて、その周りに十人。膝と膝が触れる。後ろの者は、壁に背をつけて座る。
五十人は、入らない。
――《《日に五度、入れ替えることにした》》。
◆
俺は、寝床の上で、《《背中に夜具を積んで》》喋った。
――《《寝ると、苦しいからである》》。
◆
「――《《今日は、《《俺の身体》》を教える》》」
俺は、そう言った。
「――《《一番、手近な症例だ》》」
◆
若い者たちが、《《顔を強張らせた》》。
筆を持った手が、止まっている。
「――《《そういう顔をするな》》」
俺は、そう言った。
「――《《俺は、あと何年か生きる。……その何年かで、《《一つでも多く見せてやる》》のが、俺の仕事だ》》」
俺は、少し笑った。
「――《《それに、《《これほど都合のよい症例はない》》。……何度でも触らせてやれる》》」
◆
「――《《見ろ》》」
俺は、そう言って、自分の背中の夜具を指した。
「――《《俺は、《《平らに寝られん》》》》」
「……」
「――《《寝ると、四半刻で息が苦しくなる。……起きると、楽になる》》」
◆
「――《《これを、《《起きて座らねば息ができぬ》》という》》」
俺は、そう言った。
「――《《なぜだと思う》》」
◆
――《《一人が、手を挙げた》》。
十九になる、《《平助》》という男である。
近江の百姓の子で、去年の秋に来た。字は下手だが、聞いたことを一度で覚える。
「――《《肺に、水が溜まっておるゆえ、でございましょうか》》」
「――《《半分、正しい》》」
俺は、そう言った。
「――《《だが、《《なにゆえ、寝ると溜まる》》》》」
◆
――《《誰も、答えなかった》》。
俺は、夜具をめくって、自分の足を出した。
「――《《見ろ》》」
――《《脛が、腫れていた》》。
膝から下が、丸太のように太い。皮が張って、光っている。脛の骨の線が、もう見えなくなっていた。
俺は、そこを親指で押した。
――《《ゆっくり、五つ数えるほど押した》》。
そして、指を離した。
◆
――《《凹んで、戻らなかった》》。
親指の跡が、そのまま残っている。
「――《《平助。押してみろ》》」
「――《《は》》」
「――《《押せ》》」
◆
平助は、恐る恐る俺の脛に指を当てた。
そして、押した。
――《《その顔が、変わった》》。
「――《《……戻りませぬ》》」
「――《《そうだ》》」
俺は、そう言った。
「――《《みな、順に押せ》》」
◆
――《《十人が、順に俺の脛を押した》》。
――《《俺は、それを見ていた》》。
――《《この感触は、書いても伝わらん》》。
◆
「――《《昼のあいだ、水は《《足に溜まる》》》》」
俺は、そう言った。
「――《《立っておるゆえだ。……水は、低いところへ行く》》」
「……」
「――《《そして、夜、《《寝ると、どうなる》》》》」
◆
「――《《足が、《《胸と同じ高さになりまする》》》》」
平助が、そう言った。
「――《《そうだ》》」
俺は、頷いた。
「――《《昼のあいだ足に溜まった水が、《《一斉に胸へ戻る》》》》」
◆
「――《《心の臓が丈夫なら、それを送り出せる》》」
俺は、続けた。
「――《《俺の心の臓は、《《六年前に、一部死んでおる》》》》」
「……」
「――《《ゆえに、送り出せん。……胸に溜まる》》」
◆
「――《《これが、寝ると苦しくなる理由だ》》」
俺は、そう言った。
「――《《よいか。《《これは、非常によく効く見分けだ》》》》」
俺は、指を立てた。
「――《《『寝ると苦しく、起きると楽になる』と言う者を見たら、《《心の臓を疑え》》》》」
◆
「――《《肺の病では、こうはならん》》」
俺は、続けた。
「――《《労咳の者は、寝ても起きても苦しい》》」
「……」
「――《《《《姿勢で変わるのが、心の臓の病だ》》》》」
――《《十五年、竹中どのを診た》》。
――《《あの方は、最後まで、寝ても起きても同じように苦しんでおられた》》。
◆
「――《《それと、もう一つある》》」
俺は、そう言った。
「――《《寝入って、一刻か二刻して、《《息が苦しくて飛び起きる》》》》」
「……」
「――《《これも、同じ理屈だ》》」
俺は、言った。
「――《《寝てから、水が戻るのに、それくらいかかる》》」
「――《《俺は、この半年、《《毎晩それで起きておる》》》》」
◆
「――《《先生》》」
平助が、聞いた。
「――《《どういたせば、よろしいのでございますか》》」
◆
俺は、そう聞かれるのを待っていた。
「――《《三つある》》」
俺は、指を折った。
「――《《一つ。《《塩を、減らせ》》》》」
「――《《塩、でございますか》》」
「――《《そうだ》》」
◆
「――《《塩は、水を身体に留める》》」
俺は、そう言った。
「――《《三十三年前、俺はこの国で最初に、《《塩と甘みを溶いた湯》》を作らせた》》」
「……」
「――《《腹を下して干からびた者に、水を入れるためだ》》」
俺は、少し笑った。
「――《《同じ理屈が、《《逆に働く》》》》」
◆
「――《《俺の身体は今、《《水が多すぎる》》》》」
俺は、そう言った。
「――《《ゆえに、塩を絶つ。……味噌も、漬物も、干物も》》」
「……」
「――《《旨いものが、全部食えなくなる》》」
俺は、そこで、《《本音を漏らした》》。
「――《《これが、《《一番つらい》》》》」
――《《若い者たちが、初めて笑った》》。
◆
「――《《二つ。《《上体を起こして寝ろ》》》》」
俺は、背中の夜具を叩いた。
「――《《俺がこうしておるのは、《《治療だ》》。楽をしておるのではない》》」
「――《《だから、《《患者が起き上がって寝ておるのを、寝かせるな》》》》」
俺は、続けた。
「――《《『横になったほうが休まる』などと、《《親切のつもりで殺すな》》》》」
◆
「――《《三つ》》」
俺は、そこで、《《一度、言葉を切った》》。
――《《言いにくい》》。
――《《だが、言わねばならない》》。
庭で、鵯が鳴いた。
◆
「――《《三つ目は、《《瀉血》》だ》》」
◆
――《《部屋が、《《静まり返った》》》》。
十人が、《《いっせいに顔を上げた》》。
――《《筆を落とした者がいた》》。
◆
「――《《先生》》」
平助が、掠れた声で言った。
「――《《先生は、瀉血を、《《間違いだ》》と仰せでは》》」
「――《《言うた》》」
俺は、そう答えた。
「――《《三十年、言い続けた》》」
◆
「――《《十九年前、南蛮寺で、南蛮の司祭に言うた》》」
俺は、続けた。
「――《《『それがしは、瀉血には賛同いたしかねる』と》》」
「……」
「――《《『それがしの手当所では、血を一滴でも減らさぬことに全力を注ぐ』と》》」
――《《あのとき、あの司祭は、顔を赤くして立ち上がった》》。
◆
「――《《そして今、《《俺自身に、それが要る》》》》」
◆
「――《《先生。……なにゆえでございますか》》」
平助が、そう聞いた。
俺は、答えた。
「――《《俺の身体には、《《水が多すぎる》》からだ》》」
◆
「――《《傷を負うた者は、《《血が足りぬ》》》》」
俺は、そう言った。
「――《《ゆえに、抜けば死ぬ》》」
「……」
「――《《俺は、《《血が多すぎる》》》》」
俺は、続けた。
「――《《正確には、《《血の中の水が》》だ》》」
◆
「――《《心の臓が送り出せぬのに、身体は水を溜め続けておる》》」
俺は、言った。
「――《《ゆえに、《《減らせば、楽になる》》》》」
◆
――《《俺は、そこで、若い者たちを見渡した》》。
「――《《よいか。ここが、《《今日一番大事なところ》》だ》》」
――《《筆を、置いた者がいた》》。
――《《書くのではなく、聞こうとしたのだ》》。
◆
「――《《瀉血は、《《正しくもなければ、間違いでもない》》》》」
俺は、そう言った。
「――《《俺は三十年、それを『間違いだ』と言うてきた》》」
「……」
「――《《それは、《《言い過ぎだった》》》》」
◆
「――《《俺が本当に言うべきだったのは、こうだ》》」
俺は、そう言った。
「――《《《《熱があるからと、傷を負うた者から血を抜くのは、間違いだ》》》》」
俺は、指を立てた。
「――《《《《なれど、水が溜まりすぎた心の臓の病には、効く》》》》」
◆
「――《《正しいか、間違いか、ではない》》」
俺は、そう言った。
「――《《《《誰に、いつ、どれだけ》》か、だ》》」
◆
「――《《薬も同じだ》》」
俺は、続けた。
「――《《柳の皮は、熱と痛みに効く。……飲みすぎれば、耳が鳴り、息が荒くなり、死ぬ》》」
「……」
「――《《十九年前、それがしは京の商人を、《《殺しかけた》》》》」
俺は、言った。
「――《《量を書かなんだゆえだ》》」
――《《あの男の顔を、俺は覚えている》》。
――《《眼が落ち窪んで、口の端に泡がついていた》》。
◆
「――《《瀉血も、同じだ》》」
俺は、そう言った。
「――《《俺は、《《いつ使うかを書かなんだ》》》》」
「……」
「――《《『やめろ』とだけ書いた》》」
俺は、頭を下げた。
「――《《それは、《《怠慢だった》》》》」
◆
――《《その日、俺は『手当書』に新しい項を口述した》》。
――《《書いたのは、平助である》》。
――《《この男は、俺の言葉を一言も落とさなかった》》。
◆
――《《一、瀉血のこと。》》
――《《 これまで、それがしは「するべからず」と書いてきた。》》
――《《 ――《《これを、改める。》》》》
――《《 《《してはならぬ場合》》》》
――《《 一、傷を負うて血を失うた者。――《《絶対にするべからず。》》》》
――《《 二、熱のある者。腫れ物のある者。頭の痛む者。――《《無益である。》》》》
――《《 三、痩せた者、年寄り、産後の女。――《《危うい。》》》》
――《《 《《してよい場合》》》》
――《《 ――《《心の臓が弱り、身体に水が溜まりすぎた者。》》》》
――《《 徴――足が腫れる。寝ると息が苦しく、起きると楽になる。》》
――《《 寝入って一、二刻で息苦しくて飛び起きる。》》
――《《 量――《《碗に半分まで》》。それ以上は害。》》
――《《 抜いた後、必ず脈を取れ。速くなり、力が落ちたら、《《やめよ》》。》》
――《《 ※それがしは三十年、「瀉血は間違い」と言い続けた。》》
――《《 ――《《言い過ぎであった。》》》》
――《《 ――《《正しいか間違いかではない。《《誰に、いつ、どれだけ》》である。》》》》
◆
――《《俺は、その項を口述しながら、《《嬉しかった》》》》。
――《《三十年の自分を、否定できたからである》》。
――《《書というものは、こうやって直すものだ》》。
◆
――《《処置は、その日の夕に行った》》。
やったのは、宗吉である。
俺の左の肘の内側に、細い刃を当てた。
「――《《先生。……本当に、よろしいのでございますか》》」
「――《《やれ》》」
◆
――《《血は、《《黒かった》》》》。
碗に落ちる音が、部屋に響いた。
――《《赤くない》》。
――《《これは、身体を回って戻ってきた血だからである》》。
碗が半分になったところで、俺は言った。
「――《《止めろ》》」
◆
宗吉は、俺の脈を取った。
「――《《いかがだ》》」
「――《《変わっておりませぬ。……速くも、弱くもなっておりませぬ》》」
「――《《よし》》」
俺は、そう言った。
「――《《脈が速くなり、力が落ちたら、それは《《抜きすぎ》》だ。……そこで止めろ》》」
◆
――《《そして、その処置は、《《効いた》》》》。
碗に半分。
二日に一度。
――《《三日目に、足の腫れが引きはじめた》》。
――《《脛の骨の線が、見えるようになった》》。
――《《七日目には、夜、飛び起きなくなった》》。
◆
――《《宗吉が、それを見て、泣いていた》》。
「――《《宗吉。泣くな》》」
「――《《なれど、先生》》」
「――《《これは、《《治ったのではない》》》》」
俺は、そう言った。
「――《《水を抜いただけだ。……心の臓は、《《一つも良くなっておらん》》》》」
◆
「――《《症が軽くなることと、病が治ることは、《《違う》》》》」
俺は、そう言った。
「――《《これを取り違えると、医者は嘘をつくことになる》》」
――《《そして、《《一番先に騙されるのは、医者自身だ》》》》。
◆
天正十七年、五月。
――《《大坂から、報せが来た》》。
◆
俺は、その報せを、寝床で受け取った。
持ってきたのは、宗吉である。
――《《一年半、大坂にいた》》。
顔が、日に焼けていた。そして、少し痩せた。
――《《だが、眼が違っていた》》。
――《《一年半、一人で人を診た者の眼である》》。
「――《《先生》》」
彼は、そう言った。
「――《《お生まれになりました》》」
◆
「――《《男か》》」
「――《《はい》》」
「――《《母は》》」
「――《《ご無事にございます》》」
「――《《子は》》」
「――《《――《《危うございました》》》》」
◆
俺は、身を起こした。
「――《《話せ》》」
◆
「――《《生まれた子が、《《泣きませなんだ》》》》」
宗吉は、そう言った。
「――《《産婆どのが、《《逆さに吊るして尻を叩こうと》》なさいました》》」
「……」
「――《《それがしは、《《止めました》》》》」
◆
――《《俺の胸が、《《熱くなった》》》》。
――《《止めたのだ》》。
――《《関白の子の産屋で、二十五の医者が、年嵩の産婆の手を止めた》》。
「――《《それで》》」
「――《《乾いた布で、《《力を入れて拭きました》》》》」
宗吉は、続けた。
「――《《背中と、頭と、手足を。……先生が書かれた通りに》》」
「……」
「――《《泣きませなんだ》》」
◆
「――《《それで》》」
「――《《口と鼻の中を、指に巻いた布で拭いました》》」
彼は、言った。
「――《《そして、《《顎を、少し上げました》》》》」
「……」
「――《《喉が、まっすぐになるように》》」
◆
「――《《それでも、泣きませなんだ》》」
宗吉は、そう言った。
「――《《産婆どのが、『もう駄目でございます』と》》」
「……」
「――《《それがしは、《《胸を叩き続けました》》》》」
◆
「――《《どれほど》》」
「――《《四半刻にございます》》」
◆
――《《俺は、その言葉に、《《目を閉じた》》》》。
――《《『手当書』にこう書いてある》》。
――《《諦めるな。四半刻は諦めるな》》。
――《《俺は、それを二十五年前に書いた》》。
――《《そして、《《四半刻続けたことは、俺自身、数えるほどしかない》》》》。
◆
「――《《四半刻の終わりに》》」
宗吉は、そう言った。
――《《声が、震えていた》》。
「――《《《《泣きました》》》》」
◆
――《《俺は、その報せを聞いて、《《寝床の上で泣いた》》》》。
◆
「――《《宗吉》》」
「はい」
「――《《よくやった》》」
「――《《いえ。……それがしは、書に書いてある通りにやっただけにございます》》」
「――《《違う》》」
俺は、そう言った。
◆
「――《《書に『四半刻は諦めるな』と書いてあっても、《《四半刻続けられる者は、めったにおらん》》》》」
俺は、そう言った。
「――《《手が疲れる。汗が出る。……そして、《《周りが黙る》》》》」
俺は、続けた。
「――《《周りが『もう駄目だ』と言う中で、《《手を止めない》》のは》》」
「……」
「――《《書ではない。《《人だ》》》》」
◆
「――《《それと、宗吉》》」
「はい」
「――《《手は、洗うたか》》」
「――《《洗いました》》」
彼は、即答した。
「――《《爪の間を、掻き出して。……そして、《《臍の緒の刃物も、煮ました》》》》」
◆
「――《《産婆どのが、なんと言うた》》」
「――《《『そこまでせずとも』と》》」
宗吉は、そう言った。
「――《《なれど、《《茶々さまが、《《洗え》》と仰せになりました》》》》」
◆
――《《俺は、その言葉に、《《拳を握った》》》》。
――《《言うたのだ》》。
――《《あの人が、《《関白の側室の産屋で、産婆に手を洗えと言った》》》》。
――《《一年半前、俺は「貴女が、言わねばなり申さぬ」と告げた》》。
――《《そして、《《言った》》》》。
◆
「――《《宗吉》》」
「はい」
「――《《それが、《《一番の手柄だ》》》》」
◆
――《《同じ月、堺から文が来た》》。
◆
――《《勘十郎。》》
――《《骨を、組んだ。》》
◆
俺は、その一行を見て、《《紙を落としそうになった》》。
◆
――《《七年かかった。》》
――《《図を四十七枚描き、壊れた船を五度直し、そして、《《一から組んだ》》。》》
――《《長さ、十八間。》》
――《《まだ、板は張っておらぬ。》》
――《《骨だけだ。》》
――《《だが、《《立っておる》》。》》
――《《魚の骨のような形をして、湊の脇に、立っておる。》》
◆
――《《船大工どもが、毎朝、それを見に来る。》》
――《《何もせずに、見ておる。》》
――《《俺も、見ておる。》》
◆
――《《今月、腹の立ちしこと。》》
――《《 ――《《ない。》》》》
――《《 ――《《これも、嘘ではない。》》》》
◆
俺は、その文を、《《三度読んだ》》。
――《《七年》》。
あの人は、七年かけて、骨を組んだ。
――《《五十六である》》。
――《《俺の、二つ上である》》。
◆
――《《俺は、返事を書いた》》。
――《《手が震えて、字が乱れた》》。
――《《宗吉に代筆させることもできた》》。
――《《だが、《《自分で書いた》》》》。
――《《一日に三行しか書けなかった》》。
――《《四日かかった》》。
◆
――《《兄上。》》
――《《おめでとうござる。》》
――《《七年、よくぞ続けられ申した。》》
――《《船大工どもが毎朝見に来るというのは、《《よい徴》》にござる。》》
――《《人は、《《自分の作ったもの》》を見に来まする。》》
――《《――《《それは、あの者どもの船になったということにござる。》》》》
◆
――《《兄上。一つだけ、申し上げまする。》》
――《《――《《板を張り終えたら、《《それがしに知らせてくだされ》》。》》》》
――《《浮かべる日に、《《それがしは、参れませぬ》》。》》
――《《堺までは、五日かかりまする。》》
――《《それがしは、今、平らな廊下を二十歩、歩けませぬ。》》
――《《ゆえに、《《文で、知らせてくだされ》》。》》
――《《――《《それで、十分にござる。》》》》
◆
俺は、そこまで書いて、筆を置いた。
――《《『それで、十分にござる』》》。
――《《嘘である》》。
俺は、その一行を、消さなかった。
――《《そして、その下に、こう書いた》》。
◆
――《《今月、それがしの腹の立ちしこと。》》
――《《 ――《《ござる。》》》》
――《《 ――《《《《船を、見に行けぬこと》》。》》》》
◆
――《《三十四年前、それがしは兄上に申し上げました。》》
――《《「兄上は、いずれ天下をお獲りになる。それがしは、それをこの眼で見たい」と。》》
――《《――《《見られませぬ。》》》》
◆
――《《腹が立ち申す。》》
――《《誰にでもなく、腹が立ち申す。》》
――《《――《《これは、筋違いの怒りにござる。》》》》
――《《なれど、書けと言うたのはそれがしにござるゆえ、書きまする。》》
◆
――《《文を出した後、俺は窓の外を見た》》。
――《《桜は、とうに散っていた》》。
――《《葉が、濃くなっている》》。
◆
天正十六年〜十七年 京・啓迪院
症例・織田勘十郎(俺)、五十三歳。
――《《心の臓の弱り。》》
徴――
一、労作時の息切れ。平地二十歩にて。
二、《《起坐呼吸》》。寝れば四半刻で苦しく、起きれば楽になる。
――《《姿勢で変わるのが、心の臓の病である。》》
――《《肺の病では、寝ても起きても苦しい。》》
三、寝入って一、二刻で息苦しく飛び起きる。
――昼に足へ溜まった水が、横になると胸へ戻るゆえ。
四、下腿の浮腫。押せば凹み、戻らぬ。
――《《弟子十人に、順に押させた。書いても伝わらぬゆえ。》》
処置――
一、塩を絶つ。(――《《一番つらい。》》)
二、上体を起こして寝る。――《《これは治療である。楽をしているのではない。》》
三、《《瀉血》》。碗に半分。二日に一度。
――《《血は黒い。回って戻ってきた血ゆえ。》》
――《《抜いた後、必ず脈を取れ。速くなり力が落ちたら、抜きすぎである。》》
※三十年、「瀉血は間違い」と言い続けた。――《《言い過ぎであった。》》
――《《正しいか間違いかではない。誰に、いつ、どれだけ、である。》》
――《《『手当書』を改めた。》》
――《《三十年の自分を否定できて、嬉しかった。》》
※症が軽くなることと、病が治ることは違う。
――《《これを取り違えると、医者は嘘をつく。》》
――《《そして、一番先に騙されるのは、医者自身である。》》
五月、大坂にて出産。母子ともに生存。
――《《新生児、啼泣せず。逆さ吊りを止め、拭いて刺激し、気道を開き、胸を叩くこと四半刻。》》
――《《泣いた。》》
――《《書に「四半刻は諦めるな」と書いても、続けられる者はめったにおらぬ。》》
――《《書ではない。人である。》》
――《《茶々さま、産婆に「洗え」と命じられた由。》》
――《《一年半前、「貴女が言わねばなり申さぬ」と告げた。》》
――《《それが、一番の手柄である。》》
五月、堺より。――《《骨を、組んだ。》》
長さ十八間。板はまだ。骨だけで、立っている。
船大工どもが、毎朝、見に来るとのこと。
――《《それは、あの者どもの船になったということである。》》
――《《浮かべる日に、俺は行けぬ。》》
――《《「文で知らせてくだされ。それで十分にござる」と書いた。》》
――《《――嘘である。》》
――《《三十四年前、「この眼で見たい」と申し上げた。》》
――《《――見られぬ。》》
今回は心不全です。勘十郎が自分の身体を教材にします。
心臓のポンプ機能が落ちると、血液を送り出しきれなくなり、体に水分が溜まります。
特徴的なのが、姿勢による症状の変化です。
横になると苦しくなり、起き上がると楽になる——起坐呼吸といいます。日中、立っている間に脚に溜まっていた水分が、横になることで一斉に胸へ戻ってくるためです。弱った心臓は、それを処理しきれません。
また、眠ってから一〜二時間ほどして、息苦しさで飛び起きることがあります。発作性夜間呼吸困難と呼ばれ、同じ機序で起こります。
ここが診断上、非常に重要な点です。肺の病気では、姿勢を変えても大きく変わりません。姿勢で変わるなら心臓を疑う——現在も有効な鑑別の目安です。
そして今回の中心は、勘十郎が三十年間否定してきた瀉血を、自分に対して行うことです。
これは、単なる皮肉ではありません。
瀉血は、外傷で出血している人に行えば命に関わります。発熱や炎症に対して行っても効果はありません。ですが、体液が過剰に溜まった心不全に対しては、循環する血液量を減らすことで心臓の負担を軽くする効果があります。
実際、現代でも薬剤が使えない特殊な状況では、これに類する手技が検討されることがあります。
「正しいか間違いかではない。誰に、いつ、どれだけか」——医療において、これはほとんどの治療に当てはまる原則です。
次話、続きます。
お読みいただきありがとうございました。




