第四十六話 声に出して
※心筋梗塞の発作、そして親族の死をめぐる激しい感情表現を含みます。
京から大坂まで、三日かかりました。
天正十五年、十一月。
――《《京から大坂まで、三日かかった》》。
◆
平時なら、《《一日半》》の道である。
だが、俺は駕籠から降りるたびに息が切れ、半刻ずつ休まねばならなかった。
十一月の街道は、寒い。
田は刈り取られて、稲株だけが並んでいる。その上に、時雨が降っては上がった。駕籠の垂れを上げると、冷たい風が入ってくる。
――《《二日目の夕方、それは来た》》。
◆
「――《《止めろ》》」
俺は、駕籠の中からそう言った。
「――《《先生!》》」
宗吉が、飛んできた。
「――《《来た》》」
俺は、そう言った。
「――《《左の胸だ。……肩へ抜けておる》》」
◆
「――《《柳を!》》」
宗吉が叫んだ。
――《《この弟子は、《《慌てなかった》》》》。
俺を駕籠から出し、街道脇の松の根方に座らせた。背中に荷を積んで上体を起こさせ、柳の皮を噛ませた。
――《《親指の爪ほど、一片》》。
――《《正確だった》》。
そして、俺の脈を取りながら、駕籠かきに「動くな」と低く言った。
――《《この男は、五年前、俺が倒れたときに、これを覚えた》》。
◆
四半刻ほどで、痛みが引いた。
――《《今度は、《《軽かった》》》》。
俺は、自分の脈を取った。
――《《飛んでいない》》。
「――《《詰まってはおらん》》」
俺は、そう言った。
「――《《細うなっただけだ》》」
◆
「――《《先生。……お戻りになりませぬか》》」
宗吉が、そう言った。
「――《《ここで戻れば、《《文と同じ》》だ》》」
俺は、答えた。
松の枝の向こうで、日が沈みかけていた。
「――《《進め》》」
◆
――《《三日目の昼、大坂に着いた》》。
――《《城が、見えた》》。
◆
――《《でかい》》。
俺は、駕籠の窓から、それを見上げた。
まず、石垣である。一つ一つの石が、人の背丈ほどあった。それが、隙間なく積み上がっている。
安土の天主も高かった。
だが、これは――《《違う》》。
安土は《《鋭かった》》。山の上に、錐のように立っていた。
大坂は――《《重かった》》。地面を押し潰すように、そこにある。
◆
――《《そして、金だった》》。
瓦が金である。金具が金である。壁の一部まで金である。
時雨の合間に日が差すと、《《城全体が光った》》。
俺は、それを見ながら、《《妙な感じがした》》。
――《《この人は、こういうものを作る人だったか》》。
◆
――《《墨俣の焚火を、思い出した》》。
二十四年前。
木曽川のほとりで、小男が焚火の向こうに座って、干し飯を齧りながらこう言った。
――《《銭も持たずに三日歩いても死なぬのが取り柄で》》。
◆
城へ入るのは、思ったより簡単だった。
名を告げると、《《すぐに通された》》。
――《《いや》》。
通された、というより。
――《《引きずり込まれた》》。
◆
「――《《勘十郎さまッ!》》」
――《《廊下を、猿が走ってきた》》。
関白豊臣秀吉、五十一歳。
金の襖と、金の障子の間を、束帯の裾を蹴散らして走ってくる。
――《《走り方が、二十四年前と同じだった》》。
◆
「――《《なにゆえ来られた! 病だと聞いておりましたぞ!》》」
彼は、そう叫んだ。
「――《《なにゆえ知らせてくださらぬ! 輿を出しました! 医者も出しました! なにゆえ京から駕籠で!》》」
「――《《関白殿下》》」
俺は、そう呼んだ。
「――《《殿下はやめてくだされ》》」
彼は、そう言った。
「――《《勘十郎さまには、《《藤吉郎》》で結構にござる》》」
◆
俺は、その顔を見た。
――《《太った》》。
顎の下に、肉がついている。二十四年前の、あの痩せた小男とは別人だった。
だが、それだけではない。
――《《顔の皺が、深い》》。
目尻から頬へ、刻んだような線が入っている。
――《《そして、眼が、《《赤い》》》》。
白目に、細い血の筋が何本も走っていた。
◆
「――《《藤吉郎どの》》」
俺は、そう呼んだ。
「――《《寝ておられませぬな》》」
彼の動きが、《《止まった》》。
「……」
「――《《何刻に寝て、何刻に起きられる》》」
◆
「――《《……子の刻を回りますな》》」
「――《《起きるのは》》」
「――《《寅の刻には》》」
「――《《毎日か》》」
「――《《毎日にござる》》」
◆
――《《俺は、その答えを、《《二度聞いたことがある》》》》。
――《《一度目は、坂本の廊下で》》。
あのとき、あの男も同じ刻限を答えた。そして俺は、その口の中を見て、平らに擦り減った奥歯を見つけた。
――《《二度目は、今だ》》。
◆
「――《《手を、出してくだされ》》」
「――《《勘十郎さま。それがしは病では》》」
「――《《出せ》》」
◆
俺は、その手首を掴んだ。
――《《脈》》。
速い。だが、《《柔らかい》》。
押せば、指の下で潰れる。
――《《光秀とは、違う》》。
俺は、少し安心した。
だが。
◆
――《《俺は、その《《手そのもの》》を見た》》。
――《《右手である》》。
◆
――《《袖の中に、入っていた》》。
俺が掴んだのは、左手だった。
右手は――《《袖の中に、入れてある》》。
――《《それも、袂を握り込むようにして》》。
◆
「――《《藤吉郎どの》》」
俺は、そう言った。
「――《《右手を、出してくだされ》》」
「……」
「――《《出せ》》」
◆
――《《彼は、出さなかった》》。
――《《二十四年前は、出した》》。
あのとき、この男は俺の視線に気づいて、さりげなく右手を袖に入れた。
そして俺が「見せてみろ」と言うと――《《ためらってから、そろそろと出した》》。
◆
――《《俺は、あのとき、こう言った》》。
――《《それだけだ》》。
――《《指が一本多い。それ以外、お前の身体にはどこにも変わったところがない》》。
――《《お前は、ただ指が一本多いだけの、丈夫な男だ》》。
◆
――《《あのとき、この男は泣いた》》。
――《《三十年、誰にもそう言われたことがない、と》》。
――《《そして、《《それから、袖に隠さなくなった》》》》。
◆
――《《墨俣の門で、この男は右手を大きく振っていた》》。
――《《母から文が来たと言って》》。
――《《六本の指を、日に晒して振っていた》》。
◆
「――《《藤吉郎どの》》」
俺は、静かに言った。
「――《《また、隠しておられるな》》」
◆
――《《部屋が、静かになった》》。
――《《この男は、答えなかった》》。
金の襖に、灯りが映っていた。
俺は、それ以上、聞かなかった。
――《《聞けなかった》》。
◆
――《《二十四年前、俺はこの男の主治医ではなかった》》。
――《《今も、違う》》。
――《《俺は、この男に「出せ」と言う立場に、もういない》》。
◆
「――《《勘十郎さま》》」
やがて、彼はそう言った。
――《《声が、少し変わっていた》》。
「――《《茶々さまに、会いに来られたのでござろう》》」
「――《《さようにござる》》」
「――《《案内いたす》》」
◆
――《《廊下は、長かった》》。
金の襖が、いくつも続く。俺は、宗吉に肩を借りて歩いた。
十歩ごとに立ち止まると、そのたびに関白も足を止めて待った。
――《《この男は、急かさなかった》》。
◆
――《《途中で、彼はこう言った》》。
「――《《あの姫は、《《笑い申さぬ》》》》」
「……」
「――《《それがしの前では、《《一度も》》》》」
◆
「――《《当たり前にござろう》》」
俺は、そう言った。
――《《言ってしまってから、しまった、と思った》》。
――《《だが、彼は、怒らなかった》》。
◆
「――《《さようにござる》》」
彼は、そう答えた。
「――《《それがしが、《《北ノ庄を焼いた》》》》」
「……」
「――《《それがしが、母君を死なせ申した》》」
◆
「――《《なれど、勘十郎さま》》」
彼は、そこで足を止めた。
金の襖の前である。
「――《《それがしは、あの姫を、《《欲しゅうござる》》》》」
◆
――《《俺は、その言葉に、《《返す言葉を持たなかった》》》》。
――《《医者として、そこに立ち入る資格がない》》。
――《《人として、《《嫌悪した》》》》。
――《《そして、《《それを顔に出さぬだけの分別が、五十四の俺にはあった》》》》。
◆
――《《茶々さまは、奥の間にいた》》。
――《《十八になっていた》》。
部屋は、豪奢だった。天井まで金箔が押してあり、床の間に唐渡りらしい壺が置いてある。
――《《だが、その中で、この人だけが、色を着ていなかった》》。
鼠色の小袖に、白い帯である。
◆
俺が入ると、彼女は――《《立ち上がった》》。
そして、そのまま《《動かなかった》》。
「――《《茶々さま》》」
俺は、そう呼んだ。
「――《《遅うなり申した》》」
◆
――《《彼女は、答えなかった》》。
――《《ただ、俺を見ていた》》。
俺は、宗吉に肩を借りて、その場に座った。
――《《息が、切れていた》》。
畳に手をついて、しばらく肩が上下した。
◆
「――《《宗吉》》」
「はい」
「――《《下がれ》》」
「――《《先生。なれど、お身体が》》」
「――《《下がれ》》」
◆
――《《弟子が去った後、部屋には二人だけになった》》。
――《《襖が閉まる音がした》》。
――《《俺は、そこで、こう言った》》。
「――《《茶々さま》》」
「……」
「――《《文に、書きました》》」
俺は、頭を下げた。
「――《《《《声に出して、それがしを罵ってくだされ》》と》》」
◆
「――《《それがしは、聞くだけにいたしまする》》」
俺は、続けた。
「――《《言い返し申さぬ。慰めも申さぬ》》」
「……」
「――《《ただ、聞きまする》》」
◆
――《《長い、長い沈黙があった》》。
――《《俺は、待った》》。
庭で、鹿威しが鳴った。しばらくして、また鳴った。
――《《四半刻、待った》》。
――《《そのあいだ、俺は一言も喋らなかった》》。
――《《ここで喋れば、この人は、また閉じる》》。
◆
やがて。
――《《十八の娘が、口を開いた》》。
◆
「――《《遅うございます》》」
◆
「――《《遅うございます、勘十郎さま》》」
彼女は、そう言った。
――《《声が、震えていた》》。
「――《《去年の夏、わたくしは京へ参りました》》」
「……」
「――《《啓迪院の、門の前まで参りました》》」
◆
「――《《門の前で、《《引き返しました》》》》」
彼女は、そう言った。
「――《《お加減が悪いと伺いましたゆえ》》」
「……」
「――《《そして――《《伺えばよかったと、《《一年半、思うておりました》》》》》》」
◆
――《《俺は、何も言わなかった》》。
――《《言い返さない》》。
――《《慰めない》》。
――《《それが、約束だった》》。
◆
「――《《勘十郎さま》》」
彼女は、続けた。
「――《《わたくしは、来春、あの方の側へ上がります》》」
「……」
「――《《父を殺し、祖父を殺し、義父を殺し、母を死なせた方の側へ》》」
◆
「――《《誰も、なにゆえと聞きませぬ》》」
彼女は、そう言った。
「――《《『よき縁にございます』と申します》》」
「……」
「――《《『御家のためにございます』と申します》》」
◆
「――《《妹たちも、そう申します》》」
彼女は、言った。
「――《《初は、『姉上、おめでとうございます』と》》」
◆
――《《そこで、彼女の声が、《《割れた》》》》。
◆
「――《《おめでとう、とは》》」
◆
「――《《なにが》》」
彼女は、そう言った。
「――《《なにが、《《おめでとう》》なのでございますか》》」
◆
――《《それから、彼女は、《《一刻、喋り続けた》》》》。
――《《いや、《《叫び続けた》》》》。
――《《途中で、襖の外に人の気配がした》》。
――《《だが、誰も開けなかった》》。
――《《関白が、止めさせたのだと思う》》。
◆
母のこと。
北ノ庄で、母が笑って娘たちを送り出したこと。
――《《その笑い方が、小谷のときとまったく同じだったこと》》。
勝家のこと。
――《《義父が、最後に自分の頭を撫でたこと》》。
――《《その手が、鉄の匂いがしたこと》》。
◆
――《《そして、あの男のこと》》。
◆
「――《《あの方は、《《優しゅうございます》》》》」
彼女は、そう言った。
「――《《それが、《《一番、腹立たしゅうございます》》》》」
◆
「――《《憎ませてくださればよいのに》》」
彼女は、そう叫んだ。
「――《《なぜ、優しくなさるのですか》》」
◆
「――《《わたくしは、あの方を憎みたいのです》》」
「……」
「――《《憎んでおれば、《《まだ、母上の娘でいられます》》》》」
◆
――《《俺は、その言葉を聞いて、《《拳を握った》》》》。
――《《だが、何も言わなかった》》。
――《《言えば、それは慰めになる》》。
――《《この人が今、必要としているのは、《《慰めではない》》》》。
◆
彼女は、最後に、こう言った。
――《《もう、叫ぶ声も出なくなっていた》》。
「――《《勘十郎さま》》」
「……」
「――《《わたくしは、《《二度、置いていかれました》》》》」
◆
「――《《五つのときと、十四のときにございます》》」
彼女は、そう言った。
「――《《二度とも、《《わたくしだけが、生きました》》》》」
「……」
「――《《なにゆえ、わたくしは、生きているのでございますか》》」
◆
――《《来た》》。
――《《俺は、この問いを、知っている》》。
――《《三十年、何十回と聞いてきた》》。
浮野でも、桶狭間でも、長篠でも、比叡山でも。
◆
――《《そして、《《答えを持ったことが、一度もない》》》》。
◆
「――《《分かり申さぬ》》」
俺は、そう答えた。
◆
――《《彼女が、顔を上げた》》。
「……」
「――《《それがしにも、分かり申さぬ》》」
俺は、そう言った。
「――《《ゆえに、《《嘘を申しませぬ》》》》」
◆
「――《《茶々さま。それがしは、《《四十七人を置いて参りました》》》》」
俺は、そう言った。
「――《《十七年前にござる。金ヶ崎という戦で、傷者を寺に置いて、逃げ申した》》」
「……」
「――《《そのうち三十人は、《《運びさえすれば助かる者》》でござった》》」
◆
「――《《そして、五年前》》」
俺は、続けた。
「――《《本能寺で、十四人を部屋に残し申した》》」
「……」
「――《《一人しか、運べませなんだ》》」
◆
「――《《その一人は、《《兄でござった》》》》」
俺は、そう言った。
――《《言ってしまった》》。
――《《五年、誰にも言わなかったことである》》。
――《《だが、この人には、《《言ってよかった》》》》。
――《《この人は、これを誰にも言わない》》。
――《《言えば、自分が知る者になることを、この人はもう知っている》》。
◆
「――《《茶々さま》》」
俺は、そう言った。
「――《《それがしは、《《なにゆえ自分が生きておるのか》》を、三十年考えており申す》》」
「……」
「――《《答えは、出ており申さぬ》》」
◆
「――《《ゆえに、《《一緒に考えまする》》》》」
俺は、そう言った。
「――《《それしか、できませぬ》》」
◆
――《《茶々さまは、そこで、《《泣いた》》》》。
――《《四年前と同じように、畳に伏せて、子供のように泣いた》》。
金箔の天井の下で、鼠色の小袖の背が跳ねていた。
――《《俺は、そこにいた》》。
――《《ただ、そこにいた》》。
◆
――《《それが、俺が三十年で覚えた、たった一つの手当てだった》》。
◆
夜半。
俺は、城の一室で、休ませてもらっていた。
背中に夜具を積んで、上体を起こしたまま横になっている。
――《《明日、京へ帰る》》。
――《《正直、《《帰れるか分からなかった》》》》。
◆
そこへ、《《足音》》が来た。
――《《茶々さまだった》》。
――《《目が、腫れていた》》。
◆
「――《《勘十郎さま》》」
「はい」
「――《《一つ、伺ってもよろしいでしょうか》》」
「――《《なんなりと》》」
◆
「――《《わたくしは、《《子を産むかもしれませぬ》》》》」
◆
――《《俺は、その言葉に、姿勢を正した》》。
――《《医者の問いだ》》。
――《《ならば、《《医者として答えねばならない》》》》。
◆
「――《《伺いまする》》」
「――《《怖うございます》》」
彼女は、そう言った。
「――《《母上は、四人産まれました。……無事でございました》》」
「……」
「――《《なれど、わたくしは》》」
◆
「――《《茶々さま》》」
俺は、そう言った。
「――《《産で女が死ぬ因は、大きく二つにござる》》」
俺は、指を折った。
「――《《一つ。産んだ後に、血が止まらぬこと》》」
「――《《二つ。産んで三、四日して、熱が出ること》》」
◆
「――《《一つ目は、《《赤子に乳を吸わせれば、たいてい止まりまする》》》》」
俺は、言った。
「――《《それと、臍の下を、掌で掴んで揉むこと。硬い塊になるまで》》」
「……」
「――《《痛がりまするが、やらせてくだされ》》」
◆
「――《《二つ目は、《《取り上げる者の手》》にござる》》」
俺は、そう言った。
「――《《産屋に入る前に、手を洗わせてくだされ》》」
「……」
「――《《灰か、糠で、爪の間を掻き出して。……そして、たっぷりの湯で流させてくだされ》》」
◆
「――《《それと、《《臍の緒を切る刃物を、必ず煮させてくだされ》》》》」
俺は、続けた。
「――《《これを怠ると、生まれて七日ほどで、赤子の口が開かなくなり申す》》」
「……」
「――《《これは、祟りではござらぬ。……《《刃物から入りまする》》》》」
◆
「――《《茶々さま》》」
俺は、そう言った。
「――《《これを、《《産婆に言うてくだされ》》》》」
「……」
「――《《大坂の産婆が、それを知らぬはずはござらぬ。……なれど、《《関白の側室の産屋》》では、《《作法》》が優先されまする》》」
◆
「――《《手を洗うのは、《《作法ではござらぬ》》》》」
俺は、はっきりと言った。
「――《《ゆえに、《《貴女が、言わねばなり申さぬ》》》》」
◆
――《《茶々さまは、しばらく黙っていた》》。
そして、こう聞いた。
「――《《勘十郎さまは、来てくださいますか》》」
◆
――《《俺は、その問いに、《《正直に答えた》》》》。
「――《《たぶん、行けませぬ》》」
「……」
「――《《今日ここへ来るのに、三日かかり申した。……途中で、一度、来ました》》」
俺は、自分の胸を押さえた。
「――《《次に来たら、《《たぶん、それで終わりにござる》》》》」
◆
「――《《なれど》》」
俺は、続けた。
「――《《弟子を寄越しまする》》」
俺は、言った。
「――《《宗吉と申しまする。二十四になり申す。……それがしより、《《縫うのがうまい》》》》」
◆
「――《《そして、《《産婆も寄越しまする》》》》」
俺は、そう言った。
「――《《尾張のとめという婆さまの、孫弟子にあたる者どもにござる》》」
「……」
「――《《その者どもは、《《唄を知っております》》》》」
◆
「――《《唄》》」
「――《《さようにござる》》」
俺は、そう言った。
「――《《手を洗え、刃物を煮ろ、拭いて温めろ、乳を吸わせろ、そして――《《肩がつかえたら、引くな。膝を胸へ引きつけろ》》》》」
「……」
「――《《それを、唄にしてござる》》」
◆
「――《《字が読めずとも、唄なら覚えられまする》》」
俺は、少し笑った。
「――《《三十年前、《《それがしの義姉が》》考えたことにござる》》」
◆
――《《茶々さまは、そこで、《《初めて微笑んだ》》》》。
「――《《勘十郎さま》》」
「はい」
「――《《あなたさまは、ご自分では、《《何もなさらないのですね》》》》」
◆
――《《俺は、その言葉に、《《声を上げて笑った》》》》。
――《《笑って、胸が痛んで、そして咳き込んだ》》。
「――《《さようにござる》》」
俺は、胸を押さえながら答えた。
「――《《それがしは、もう、《《何もできませぬ》》》》」
◆
「――《《ゆえに、《《できる者を、寄越しまする》》》》」
◆
翌朝。
――《《見送りに、藤吉郎どのが出てきた》》。
城の門である。時雨が上がって、石垣が濡れて光っていた。
◆
「――《《勘十郎さま》》」
「はい」
「――《《輿を出しまする》》」
「――《《駕籠で結構にござる》》」
「――《《輿を出すと申しております》》」
彼は、そう言った。
「――《《関白の輿にござる。……道中、誰も止め申さぬ》》」
◆
「――《《それと、《《医者を三人つけまする》》》》」
彼は、続けた。
「――《《断られても、勝手につけまする》》」
◆
「――《《藤吉郎どの》》」
俺は、そう呼んだ。
「はい」
「――《《一つ、申し上げてもよろしいか》》」
「――《《なんなりと》》」
◆
「――《《寝てくだされ》》」
◆
「……」
「――《《子の刻に寝て、寅の刻に起きるのを、毎日やっておられる》》」
俺は、そう言った。
「――《《二刻半にござる》》」
「……」
「――《《それを続ければ、《《人は、五年で変わり申す》》》》」
◆
「――《《眠らぬ者は、《《怒りっぽくなり申す》》》》」
俺は、続けた。
「――《《そして、《《人の言うことが、耳に入らなくなり申す》》》》」
「……」
「――《《さらに――《《己の間違いに、気づけなくなり申す》》》》」
◆
「――《《藤吉郎どの》》」
俺は、そう言った。
「――《《これは、《《怠けの話ではござらぬ》》》》」
「……」
「――《《《《身体の話》》にござる》》」
◆
――《《彼は、しばらく黙っていた》》。
濡れた石垣を、見ていた。
そして、こう言った。
「――《《勘十郎さま》》」
「はい」
「――《《それがしは、《《寝るのが怖いのでござる》》》》」
◆
――《《俺は、その言葉に、《《顔を上げた》》》》。
「――《《寝ておると、《《夢を見まする》》》》」
彼は、そう言った。
「――《《三木の城で、人が人を食うておった夢を》》」
「……」
「――《《鳥取で、草を食うておった者どもの夢を》》」
◆
「――《《それと――《《北ノ庄の夢を》》》》」
◆
――《《俺は、そこで、《《この男を診た》》》》。
――《《関白ではなく、《《患者として》》》》。
◆
「――《《藤吉郎どの》》」
俺は、そう言った。
「――《《その夢のことを、《《誰かに話しておられるか》》》》」
「――《《まさか》》」
彼は、そう答えた。
「――《《関白が、そのようなことを》》」
◆
「――《《話してくだされ》》」
俺は、そう言った。
「――《《誰でもよい。……北政所さまでも、坊主でも、それがしでも》》」
「……」
「――《《声に出して、話してくだされ》》」
◆
「――《《書くのでは、足り申さぬ》》」
俺は、続けた。
「――《《それがしは、それで一人、死なせ申した》》」
「……」
「――《《書いた字は、《《音がせぬ》》のです》》」
◆
――《《豊臣秀吉は、しばらく黙っていた》》。
そして、こう言った。
「――《《勘十郎さま》》」
「はい」
「――《《明智さまのことにござるか》》」
◆
――《《俺は、答えなかった》》。
――《《この男は、それを、《《答えと受け取った》》》》。
◆
「――《《……あの方は、《《よい将》》でござった》》」
彼は、そう言った。
「――《《それがしは、あの方を討ち申した》》」
「……」
「――《《なれど、《《憎んではおりませなんだ》》》》」
◆
――《《彼は、そこで、《《右手を袖から出した》》》》。
◆
――《《六本、あった》》。
親指の脇に、もう一本。爪もあり、節もある。ただ、他の指より細く、短い。
――《《二十四年前と、同じだった》》。
◆
「――《《勘十郎さま》》」
「……」
「――《《それがしは、《《これを、切ろうかと思うたことがござる》》》》」
彼は、そう言った。
「――《《関白になったときにござる》》」
◆
「――《《なにゆえ、切らなんだ》》」
俺は、そう聞いた。
彼は、こう答えた。
「――《《二十四年前に、《《それだけだ》》と言われましたゆえ》》」
◆
俺は、その手を握った。
――《《六本の指を、掌で包んだ》》。
「――《《藤吉郎どの》》」
「はい」
「――《《隠すのは、《《勝手にござる》》》》」
俺は、そう言った。
「――《《なれど、《《隠さねばならぬと思うのは、病にござる》》》》」
◆
天正十五年 十一月 大坂
京より大坂、三日を要す。――《《二日目、発作。軽症。冠の血の道が細うなっただけ。》》
――《《宗吉、慌てず。柳、爪ほど一片。正確であった。》》
症例・豊臣秀吉、五十一歳。
睡眠二刻半、毎日。眼球結膜の充血。顔面の皺の深さ。
脈――速いが柔らかい。――《《明智十兵衛とは違う。》》
――《《ただし、《《右手を袖に隠していた》》。》》
――二十四年前、この男は隠すのをやめた。
――《《また、隠すようになっていた。》》
※本人の言――《《「寝るのが怖い。夢を見る」》》
三木。鳥取。北ノ庄。
――《《声に出して話せと申し上げた。書くのでは足りぬ。》》
※別れ際、自ら右手を出された。
「関白になったとき、切ろうかと思うた」
「二十四年前に、それだけだと言われましたゆえ」
――《《隠すのは勝手である。》》
――《《なれど、隠さねばならぬと思うのは、病である。》》
症例・茶々さま、十八歳。
――《《声に出して、罵らせた。一刻。》》
――《《四半刻、待った。そのあいだ、こちらは一言も喋らぬこと。》》
――《《言い返さず。慰めず。ただ聞いた。》》
「憎ませてくださればよいのに。憎んでおれば、まだ母上の娘でいられます」
「なにゆえ、わたくしは生きているのでございますか」
――《《「分かり申さぬ」と答えた。》》
――《《三十年考えて、答えは出ておらぬ。ゆえに、一緒に考えると答えた。》》
※産の備え――
一、産後の出血には吸啜と子宮底の圧迫
二、《《産屋に入る者に、手を洗わせよ》》
三、《《臍の緒の刃物を煮させよ》》
――《《関白の側室の産屋では、作法が優先される。》》
――《《ゆえに、《《本人が言わねばならぬ》》。》》
※宗吉と、とめどのの孫弟子を派遣する。
――《《その者どもは、唄を知っている。》》
――《《「あなたさまは、ご自分では、何もなさらないのですね」》》
――《《さようである。ゆえに、できる者を寄越す。》》
今回の中心は、「ただ聞く」という行為です。
強い感情を抱えた人に対して、周囲はしばしば助言をしたくなります。慰めたくなります。解決したくなります。
ですが、それが必要でない場面があります。
言い返さない。慰めない。ただ聞く。この三つを守るのは、思っているよりずっと難しいことです。特に相手が苦しんでいるとき、何か言いたくなるのが人情だからです。
「なぜ私は生きているのか」という問いについても触れました。
災害や事故、あるいは戦争で、自分だけが助かった人が抱くことのある感覚です。生存者の罪悪感と呼ばれます。
この問いに、正しい答えはありません。ですから、答えるべきでもありません。作中で勘十郎が言った「分かり申さぬ。ゆえに、一緒に考えまする」というのは、そういう趣旨です。
もう一つ、睡眠について。
慢性的な睡眠不足は、単に眠いというだけでは済みません。感情の制御が難しくなり、怒りっぽくなります。他人の言葉が入りにくくなります。そして自分の判断の誤りに気づきにくくなります。
これらは意志の問題でも性格の問題でもなく、脳の機能の問題です。作中で勘十郎が「怠けの話ではござらぬ。身体の話にござる」と言ったのは、そのためです。
次話、続きます。
お読みいただきありがとうございました。




