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転生軍医、織田信勝 ―本能寺を消す処方箋―  作者: 東雲 諒杏
第九章 渡した先で(第41〜46話)

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第四十五話 旗印を持たぬ者

天正十五年六月十九日、伴天連追放令。


 ――十八年、通詞を務めてくれた男が、国を出ます。

天正十五年、六月十九日。


 ――《《伴天連バテレン追放令》》。


          ◆


 九州を平らげた関白豊臣秀吉が、博多で出した。


 ――《《宣教師は、二十日のうちに国を出よ》》。


 ――《《ただし、南蛮の商いは、これまで通り許す》》。


          ◆


 俺は、その報せを、啓迪院の講堂で聞いた。


 ――《《五十四になっていた》》。


 立って喋ることは、もうできない。


 床几に座り、五十人ほどの若い者を前に置いて、日に一刻だけ喋る。


 ――《《それが、限界だった》》。


 梅雨の最中である。講堂の畳が湿って、足の裏に貼りついた。


          ◆


「――《《先生》》」


 宗吉が、そう言った。


 二十四になっていた。


「――《《南蛮寺は、どうなりましょう》》」


「――《《潰れるだろうな》》」


 俺は、そう答えた。


「――《《今日ではない。……だが、いずれ》》」


          ◆


「――《《駕籠を出せ》》」


 俺は、そう言った。


「――《《先生。お身体が》》」


「――《《宗吉》》」


 俺は、その顔を見た。


「――《《十八年、世話になった男がおる》》」


          ◆


 四条坊門。


 ――《《南蛮寺は、まだ立っていた》》。


 三階建ての、瓦葺きの建物である。この町では異様に高い。屋根の上に十字の飾りがあり、二階の外に鐘が吊ってある。


 だが、鐘は鳴っていなかった。


 ――《《いつから鳴らしていないのかは、聞かなかった》》。


 俺は、駕籠から降りて、宗吉に肩を借りて門をくぐった。


 ――《《十八年前、俺はここを、自分の足で歩いて入った》》。


          ◆


 中の匂いは、日本の寺とは違う。


 蜜蝋みつろうと、南蛮の香の匂いである。甘いが、白檀とは別の甘さだ。十八年通って、俺はこの匂いを覚えた。


 その匂いが、《《薄くなっていた》》。


 ――《《蝋燭を、減らしているのだ》》。


          ◆


「――《《勘十郎さま》》」


 出てきたのは、《《ロレンソ》》だった。


 六十過ぎである。


 背が丸まって、以前より小さく見えた。


 ――《《片眼が、白い》》。


 いや。


 ――《《両眼が、濁っていた》》。


 ――《《瞳の中央が、雲を張ったように白い》》。


          ◆


「――《《ロレンソどの》》」


 俺は、その顔を見て、思わずそう言った。


「――《《眼が》》」


「――《《ようこそ、おいでくださいました》》」


 彼は、微笑んだ。


「――《《足音で、分かりました》》」


「……」


「――《《それと、《《駕籠が止まる音》》で》》」


          ◆


「――《《ロレンソどの。もう一方の眼も》》」


「――《《三年ほど前から、霞んでおります》》」


 彼は、こともなげに言った。


「――《《白く濁って、少しずつ》》」


「――《《痛みは》》」


「――《《ございませぬ》》」


「――《《見え方は。……煙の向こうを見るような、でござろうか》》」


「――《《まさに、それにございます》》」


          ◆


 ――《《白内障だ》》。


 眼の中の、光を通す玉が濁る。


 痛まない。ゆっくり進む。そして――《《見えなくなる》》。


 ――《《俺の時代なら、濁った玉を取り出して、代わりのものを入れる》》。


 半刻で終わる。翌日には見える。


 ――《《ここには、ない》》。


          ◆


「――《《手立ては、ござらぬ》》」


 俺は、正直に言った。


「――《《それがしは、持っており申さぬ》》」


「――《《存じております》》」


 ロレンソは、頷いた。


「――《《あなたさまは、いつも正直でいらっしゃる》》」


 彼は、少し笑った。


「――《《十八年前、初めてお会いしたときも、そうでございました》》」


          ◆


 俺は、その言葉に、少し驚いた。


「――《《さようでござったか》》」


「――《《はい》》」


 ロレンソは、言った。


「――《《瀉血しゃけつは間違いだと、はっきり仰せになりました》》」


「……」


「――《《そして、《《同じ病の者を二つに分けて数えたことがあるか》》と》》」


 彼は、微笑んだ。


「――《《あれを、それがしは今も覚えております》》」


          ◆


 俺は、案内された部屋を見回した。


 二階の、南向きの小部屋である。


 ――《《荷が、まとめられていた》》。


 書物が積んであり、その脇に空のひつが二つ置いてある。壁に掛けてあったはずのものは、もう外されていた。


 そして、部屋の隅に――《《琵琶が一面、立てかけてあった》》。


 俺は、それを見て、少し息を呑んだ。


 ――《《十八年、この部屋に何度も来たが、気づかなかった》》。


          ◆


「――《《ロレンソどの》》」


 俺は、そう呼んだ。


「はい」


「――《《いつ、発たれる》》」


「――《《九月には》》」


 彼は、静かに答えた。


「――《《九州へ参ります。……その先は、分かりませぬ》》」


          ◆


「――《《この建物は》》」


「――《《残せますまい》》」


 彼は、そう言った。


「――《《今すぐではございませぬ。……なれど、いずれ》》」


 俺は、その天井を見上げた。


 太い梁が、南蛮風に組んである。日本の大工の仕事ではない。


 ――《《五年前、この地下で、俺は兄を匿った》》。


 ――《《この男は、何も聞かなかった》》。


  ――《《今朝、本能寺が燃えました。そして、あなたさまが手負いを一人担いで来られました。我らは、それだけ知っておればよろしゅうございます》》。


          ◆


「――《《ロレンソどの》》」


 俺は、そう言った。


「――《《一つ、お願いがござる》》」


「――《《なんなりと》》」


「――《《《《書き残していただきたい》》》》」


          ◆


「――《《書き残す、と》》」


「――《《南蛮の、医のことにござる》》」


 俺は、身を乗り出した。


「――《《貴殿らは、十八年、この国におられた。豊後には病院があった。……そこで診てきたこと、学んだこと、《《持ってこられた書》》》》」


「……」


「――《《それが、二十日で、《《全部消える》》》》」


          ◆


「――《《ロレンソどの。それがしは、貴殿らの医を、《《正しいとは思うており申さぬ》》》》」


 俺は、正直に言った。


「――《《瀉血は、間違うており申す。四つの液の釣り合いという考えも、それがしは採り申さぬ》》」


「……」


「――《《なれど》》」


 俺は、続けた。


「――《《貴殿らが持っておるもので、《《それがしが持っておらぬもの》》が、一つござる》》」


          ◆


「――《《なんでございましょう》》」


 俺は、答えた。


「――《《《《人の身体の、絵》》にござる》》」


          ◆


 ――《《南蛮では、人の身体を開いて、その中を《《描き写す》》ことをしている》》。


 俺は、それを知っていた。


 俺の生きた時代から見れば、その始まりは四十年ほど前である。


 ――《《ある医者が、人の身体を隅々まで開いて、《《絵にした》》》》。


 骨。筋。血の道。臓腑。


 そして、その絵を《《版に彫って、刷った》》。


          ◆


 ――《《俺は、その絵を知っている》》。


 ――《《頭の中に、入っている》》。


 だが。


 ――《《俺には、描けない》》。


 ――《《俺は、絵が下手だ》》。


 二十七年前、岐阜城の裏庭で、俺は紙を三十枚無駄にして、それを思い知った。


          ◆


「――《《ロレンソどの》》」


 俺は、そう言った。


「――《《それがしは、人の身体の中を知っており申す》》」


「……」


「――《《骨が何本あるか。血の道がどう走っておるか。腸がどう畳まれておるか》》」


 俺は、自分の腹を指した。


「――《《四十年、開けて参りましたゆえ》》」


          ◆


「――《《なれど、《《それを、若い者に見せられませぬ》》》》」


 俺は、そう言った。


「――《《言葉では、伝わり申さぬ》》」


「……」


「――《《『腎の臓は、背中側にござる』と申しても、《《どこにどう収まっておるか》》は、分かり申さぬ》》」


 俺は、続けた。


「――《《開けた者だけが、分かる》》」


          ◆


「――《《この国では、人を開くことができ申さぬ》》」


 俺は、言った。


「――《《けがれとされておりまする。それを覆すには、《《百年かかりまする》》》》」


「……」


「――《《なれど、《《絵があれば》》》》」


 俺は、顔を上げた。


「――《《絵があれば、《《開かずとも教えられまする》》》》」


          ◆


 ロレンソは、しばらく黙っていた。


 そして、こう言った。


「――《《ございます》》」


「――《《なに》》」


「――《《絵は、ございます》》」


          ◆


「――《《豊後に、アルメイダ師が持ち込まれたものが》》」


 彼は、そう言った。


「――《《それを、写したものが、この寺にもございます》》」


 俺は、その手を掴んだ。


 ――《《骨と皮の手だった》》。


「――《《見せていただきたい》》」


          ◆


 若い修道士が、それを持ってきた。


 櫃の底に仕舞ってあったらしい。埃を払ってから、俺の前に置いた。


 ――《《それは、《《版で刷られた紙》》だった》》。


 紙が厚い。日本の紙ではない。


 俺は、靉靆あいたいを鼻に乗せて、それを見た。


 ――《《そして、《《息が止まった》》》》。


          ◆


 ――《《男の身体が、皮を剥がれて立っていた》》。


 立っている。台の上に横たわっているのではない。


 ――《《野を背にして、生きているように立っている》》。


 そして、筋の一本一本が、《《束になって描き分けられている》》。肩から腕へ、腕から指へ、どの筋がどこへ繋がっているかが、一目で追える。


 俺は、頁を繰った。


 次の紙では、その筋が取り除かれ、《《骨だけになっていた》》。骨は、机に肘をついて頬に手を当てている。何かを考えているような姿だった。


 次では、腹が開かれ、腸が引き出されて、《《その裏側が見えるように描かれていた》》。


          ◆


 ――《《正確だった》》。


 ――《《驚くほど、正確だった》》。


 俺は、四十年、腹を開けてきた。


 腸の間膜がどこから出て、どこへ扇のように広がるか。腎の臓が背中側の脂の中にどう埋まっているか。


 この絵は、《《俺が見てきたものと、同じだった》》。


          ◆


「――《《これは》》」


 俺は、掠れた声で言った。


「――《《これは、《《誰が描いた》》》》」


「――《《ヴェサリウス、と申す方の書の写しにございます》》」


 ロレンソは、そう答えた。


「――《《四十年ほど前のものと聞いております》》」


          ◆


 俺は、その紙を持ったまま、《《震えていた》》。


 ――《《持っている》》。


 俺は、この絵を知っている。


 ――《《だが、《《現物に触れたのは、この時代で初めてだった》》》》。


 三十二年、俺はこれを「頭の中にあるが、出せないもの」として抱えてきた。


          ◆


「――《《ロレンソどの》》」


 俺は、頭を下げた。


「――《《これを、写させていただきたい》》」


「――《《どうぞ》》」


 彼は、あっさりと言った。


「――《《持っていってくださいませ》》」


          ◆


「――《《いや。それはならぬ》》」


 俺は、首を振った。


「――《《これは、貴殿らのものにござる》》」


「――《《勘十郎さま》》」


 ロレンソは、そう言った。


「――《《それがしは、九州へ参ります》》」


 彼は、続けた。


「――《《そして、たぶん、《《戻れませぬ》》》》」


          ◆


「――《《持っていっても、《《船に載せられませぬ》》》》」


 彼は、微笑んだ。


「――《《それに》》」


「……」


「――《《それがしは、《《もう見えませぬ》》》》」


          ◆


 ――《《俺は、その言葉に、何も返せなかった》》。


 ――《《この男は、この絵を、もう見られない》》。


          ◆


「――《《ならば》》」


 俺は、そう言った。


「――《《交換にいたしましょう》》」


「――《《交換、でございますか》》」


「――《《さようにござる》》」


 俺は、宗吉に合図した。


 弟子が、《《六巻の書》》を差し出した。


 ――《《駕籠に積んできてあった》》。


 ――《《俺は、来る前から、これを渡すつもりだった》》。


          ◆


「――《《『手当書』にござる》》」


 俺は、そう言った。


「――《《六巻ござる。……六巻目は、徳川三河守どのが書かれたものにござる》》」


「……」


「――《《これを、貴殿に差し上げる》》」


          ◆


「――《《勘十郎さま。……なれど、それがしは》》」


「――《《読めぬ、と申されるか》》」


 俺は、そう言った。


「――《《読めずとも構い申さぬ》》」


 俺は、続けた。


「――《《貴殿の仲間に、読める者がおられよう》》」


          ◆


「――《《そして、《《持ち帰っていただきたい》》》》」


 俺は、そう言った。


「――《《南蛮へ》》」


          ◆


 ロレンソは、しばらく黙っていた。


 そして、こう聞いた。


「――《《なにゆえでございますか》》」


「――《《ロレンソどの》》」


 俺は、答えた。


「――《《その書には、《《貴殿らの国にないものが、書いてござる》》》》」


          ◆


「――《《傷を焼くな、括れ》》」


 俺は、指を折った。


「――《《これは、貴殿らの国のパレという医者が申したことにござる。……それがしは、それを真似ただけにござる》》」


「……」


「――《《なれど、《《煮た布と、洗うた手》》は、違い申す》》」


 俺は、続けた。


「――《《それがしは、二十九年、《《傷に触れる前に手を洗え》》と言い続けて参った》》」


          ◆


「――《《そして、《《産屋に入る前にも、洗え》》と》》」


 俺は、そう言った。


「――《《ロレンソどの。貴殿らの国では、産で死ぬ女は、どれほどおられる》》」


「――《《……多うございます》》」


 彼は、そう答えた。


「――《《それがしの母も、それで亡くなりました》》」


          ◆


 ――《《俺は、その一言に、《《言葉を切った》》》》。


 ――《《十八年、この男の身の上を、俺は一度も聞かなかった》》。


「――《《その多くは、産んで三、四日して熱を出しまする》》」


 俺は、そう続けた。


「――《《あれは、《《我らの手から入る》》のです》》」


          ◆


 ――《《ロレンソが、《《顔を上げた》》》》。


「――《《手から》》」


「――《《さようにござる》》」


 俺は、そう言った。


「――《《産んだ後の女の腹の中は、《《まるごと一つの大きな傷》》にござる。子が離れた跡が、ぱっくりと開いておる》》」


「……」


「――《《そこへ、洗わぬ手で触れれば――どうなるか》》」


          ◆


「――《《この一つを、貴殿の国へ持ち帰ってくだされ》》」


 俺は、頭を下げた。


「――《《それだけで、《《何万も死なずに済みまする》》》》」


          ◆


 ロレンソは、その書を、《《両手で押し戴いた》》。


 六巻は、重い。腕が震えていた。


 そして、こう言った。


「――《《勘十郎さま》》」


「はい」


「――《《一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか》》」


「――《《なんなりと》》」


          ◆


「――《《なにゆえ、《《我らの国》》に、渡してくださるのですか》》」


          ◆


 ――《《俺は、その問いに、《《笑った》》》》。


 ――《《十八年前と、同じ問いだった》》。


 あのとき、俺はこう答えた。


 ――《《病は、旗印を見ぬ》》。


          ◆


「――《《ロレンソどの》》」


 俺は、そう言った。


「――《《二十六年前、それがしは兄に反対されました》》」


「……」


「――《《『あの男はいずれ敵になる。なぜ書を渡す』と》》」


 俺は、続けた。


「――《《そして今年、その《《敵》》が、それがしに書を返して参りました》》」


          ◆


「――《《《《厚くなって》》おり申した》》」


 俺は、そう言った。


「――《《それがしの知らぬことが、書いてござった》》」


「……」


「――《《ロレンソどの。書は、《《渡した先で厚くなって、戻ってくる》》》》」


          ◆


「――《《ゆえに、渡すのです》》」


 俺は、頭を下げた。


「――《《いつか、《《南蛮で厚くなって、この国へ戻ってくるやもしれませぬ》》》》」


          ◆


 ロレンソは、その書を抱えたまま、《《泣いていた》》。


 濁った眼から、涙が流れていた。


 ――《《白い眼から涙が出るのを、俺は初めて見た》》。


「――《《勘十郎さま》》」


「はい」


「――《《それがしは、《《日本人でございます》》》》」


          ◆


「――《《肥前の生まれで、琵琶を弾いて食うておりました》》」


 彼は、そう言った。


 俺は、部屋の隅の琵琶を見た。


「――《《片眼は、生まれつき見えませぬ》》」


「……」


「――《《眼の見えぬ者は、琵琶を弾くしか、食う道がございませなんだ》》」


 彼は、続けた。


「――《《ザビエル師に会うたのが、三十五年前でございます》》」


          ◆


「――《《それから三十五年、それがしは、《《どちらの国の者でもございませんでした》》》》」


 彼は、言った。


「――《《日本の者からは南蛮の手先と言われ、南蛮の者からは日本人と言われ》》」


「……」


「――《《そして今、《《国を出ろ》》と言われております》》」


          ◆


 ――《《俺は、その言葉を聞いて、《《手を伸ばした》》》》。


 その手を、握った。


「――《《ロレンソどの》》」


「……」


「――《《貴殿は、《《医の者》》にござる》》」


          ◆


「――《《それがしは、十八年、貴殿と話して参った》》」


 俺は、そう言った。


「――《《貴殿は、通詞つうじとして、南蛮の医の言葉を、《《一度も取り違えなんだ》》》》」


「……」


「――《《『膿』と『腫れ』を分けて訳された。『熱』と『ほてり』を分けて訳された》》」


 俺は、続けた。


「――《《それがしは、それを、《《医の才》》と呼び申す》》」


          ◆


「――《《ロレンソどの。医の者に、国はござらぬ》》」


 俺は、そう言った。


「――《《病は、旗印を見ぬ》》」


 俺は、続けた。


「――《《ならば、医者も、旗印を持たずともよろしい》》」


          ◆


 九月。


 ――《《ロレンソは、九州へ発った》》。


 俺は、見送りに行けなかった。


 ――《《その日、俺は起き上がれなかった》》。


 前の晩から足がむくんで、朝には脛が光っていた。


 代わりに、宗吉が行った。


          ◆


 宗吉は、日暮れに戻ってきて、こう言った。


「――《《先生。ロレンソさまが、伝言を》》」


「――《《言え》》」


「――《《『唄は、覚えました』と》》」


          ◆


「――《《唄》》」


「――《《はい》》」


 宗吉は、頷いた。


「――《《『ひとつ、押さえよ、離すな覗くな』と。……あのお方、《《節まで正確に》》唄われました》》」


「――《《それも、《《三番まで》》》》」


          ◆


 ――《《俺は、その報せを聞いて、《《寝床の上で笑った》》》》。


 ――《《笑って、胸が痛んで、そして泣いた》》。


          ◆


 ――《《琵琶法師だったのだ》》。


 ――《《あの男は、《《唄を覚えるのが、仕事だった》》》》。


 ――《《三十五年、聞いた言葉を正確に運ぶことで生きてきた男である》》。


 ――《《節を外すはずが、なかった》》。


          ◆


 十月。


 ――《《堺から、文が来た》》。


          ◆


  ――《《勘十郎。》》

  ――《《伴天連が、出て行った。》》

  ――《《船大工が、青くなっておる。》》

  ――《《「これで、教わる相手がおらぬ」と申しておる。》》


  ――《《俺は、こう言うた。》》

  ――《《――《《「もう、教わっておる」》》。》》


          ◆


  ――《《図が、四十七枚ある。》》

  ――《《壊れた船を、三度直した。》》

  ――《《骨組みの組み方は、《《手が覚えておる》》。》》

  ――《《――《《伴天連は、遅すぎた。》》》》


          ◆


 ――《《俺は、その一行を読んで、《《拳を握った》》》》。


 ――《《間に合った》》。


 四年前、俺は「買うのではなく、直させろ」と書いた。


 ――《《あれが、間に合った》》。


          ◆


  ――《《今月、腹の立ちしこと。》》

  ――《《 ――《《伴天連どもが、船の作り方を教えぬまま出て行ったこと。》》》》

  ――《《 ――《《だが、これは筋違いの怒りである。》》》》

  ――《《 ――《《あれらは、《《追い出された》》のだ。》》》》


          ◆


 俺は、その一行を読んで、《《長いこと動けなかった》》。


 ――《《この人が、《《自分の怒りを、筋違いだと書いた》》》》。


 ――《《四年、書き続けた結果である》》。


 ――《《二十七年、この人は、自分の怒りを一度も検分しなかった》》。


          ◆


 同じ月。


 ――《《茶々さまから、文が来た》》。


 ――《《十八になっておられた》》。


          ◆


  ――《《勘十郎さまへ。》》

  ――《《ご無沙汰しております。》》

  ――《《わたくしは、来春、《《大坂へ移ることになりました》》。》》


  ――《《関白殿下の、御側に上がります。》》


          ◆


 俺は、その一行を読んで、《《紙を落とした》》。


          ◆


 ――《《知っている》》。


 俺は、この先を知っている。


 この人は、関白の子を産む。


 二人産んで、一人を早くに亡くす。


 そして――


 ――《《二十八年後、大坂の城で、《《もう一度、城が焼けるのを見る》》》》。


 ――《《今度は、外へ出されない》》。


          ◆


 ――《《俺は、十四年前、こう書いた》》。


  ――《《この子が、二度目の城を見ずに済む世を、俺は作りたい。》》


          ◆


 ――《《二度目の城は、四年前に見せてしまった》》。


 ――《《北ノ庄である》》。


 ――《《そして、三度目が来る》》。


          ◆


 俺は、文の続きを読んだ。


 ――《《指が、震えていた》》。


          ◆


  ――《《今月、腹の立ちましたこと。》》

  ――《《 ――《《ございました。》》》》


  ――《《 ――《《勘十郎さまが、《《来られなかったこと》》。》》》》


          ◆


  ――《《去年の夏、わたくしは京へ参りました。》》

  ――《《啓迪院へ伺うつもりでございました。》》

  ――《《なれど、お加減が悪いと伺い、遠慮いたしました。》》


  ――《《勘十郎さまは、こう仰せになりました。》》

  ――《《――《《「次にお会いしたとき、声に出して、それがしを罵ってくだされ」》》と。》》


          ◆


  ――《《――《《会えぬではありませぬか。》》》》


          ◆


 ――《《俺は、その一行を見て、《《声を上げて泣いた》》》》。


 ――《《去年の夏》》。


 ――《《門の前まで、来ていたのだ》》。


 ――《《そして、俺は、それを知らずにいた》》。


          ◆


「――《《宗吉》》」


 俺は、そう呼んだ。


「はい」


「――《《駕籠を出せ》》」


「――《《先生!》》」


「――《《大坂だ》》」


          ◆


「――《《なりませぬ!》》」


 宗吉は、そう叫んだ。


 ――《《この男が、俺に向かって叫んだのは、初めてだった》》。


「――《《先生、京から大坂は十里以上ございます! お身体が!》》」


「――《《宗吉》》」


 俺は、その顔を見た。


「――《《俺は、《《八年前に、一人死なせた》》》》」


          ◆


「――《《書けと言うて、読んで、燃やして、そして《《会いに行かなかった》》》》」


 俺は、そう言った。


「――《《文だけで済ませた》》」


「……」


「――《《それが、俺のしくじりだ》》」


          ◆


「――《《宗吉。俺は、《《同じことを、もう一度やろうとしておる》》》》」


 俺は、言った。


「――《《文だけで済ませようとしておる》》」


 俺は、その手を掴んだ。


 ――《《掴む力が、もう残っていなかった》》。


 ――《《だから、掴んだままにした》》。


「――《《駕籠を、出せ》》」


          ◆


  天正十五年 六月〜十月

  

  六月十九日、伴天連追放令。

  

  症例・ロレンソ了斎、六十過ぎ。

    ――《《両眼、白濁。痛みなし。緩徐に進行。「煙の向こうを見るよう」》》

    ――《《手立てなし。それがしは持っておらぬ。》》

  

  ※南蛮寺にて、《《人の身体の絵》》を得る。

    ――《《版にて刷られたもの。四十年ほど前の南蛮の書の写し。》》

    ――《《驚くほど正確である。俺が四十年見てきたものと、同じであった。》》

    ――《《この国では人を開けぬ。覆すには百年かかる。》》

    ――《《――《《なれど、絵があれば、開かずとも教えられる。》》》》

  

  ※『手当書』六巻、ロレンソどのに託す。

    ――《《南蛮へ持ち帰っていただく。》》

    ――《《「産屋に入る前に手を洗え」――この一つで、何万も死なずに済む。》》

    ――《《書は、渡した先で厚くなって、戻ってくる。ゆえに、渡す。》》

    ――《《あの男の母も、産で死んだとのこと。十八年、聞かなかった。》》

  

  九月、ロレンソどの、九州へ。――《《見送りに行けなかった。》》

    ――《《伝言――「唄は、覚えました」》》

    ――《《節まで正確、三番まで。……琵琶法師だったのだ。》》

  

  十月、堺より。

    ――《《「伴天連は、遅すぎた。骨組みの組み方は、手が覚えておる」》》

    ――《《兄上、自らの怒りを「筋違いである」と書いてこられた。》》

      ――《《四年、書き続けた結果である。》》

  

  十月、茶々さまより。

    ――《《来春、大坂へ移られる由。》》

    ――《《「今月、腹の立ちましたこと――勘十郎さまが、来られなかったこと」》》

    ――《《「会えぬではありませぬか」》》

    ――《《去年の夏、門の前まで来ておられた。俺は、知らなかった。》》

  

  ――《《俺は、八年前、文だけで済ませて、一人死なせた。》》

  ――《《同じことを、もう一度やろうとしている。》》

  

  ――《《大坂へ行く。》》

今回、ロレンソが患っているのは白内障です。


 目の中でレンズの役割をする水晶体が濁っていく病気で、加齢とともに誰にでも起こります。痛みはなく、ゆっくりと進行し、視界が霞んでいきます。「煙の向こうを見るよう」という表現は、実際に患者さんがよく使われるものです。


 現代では、濁った水晶体を取り除いて人工のレンズを入れる手術が確立しており、日帰りで受けられます。ですが、この時代の日本には、その方法がありません。


 そして今回のもう一つの主題が、解剖図です。


 一五四三年、アンドレアス・ヴェサリウスが『人体の構造について』を出版しました。実際の解剖に基づいて描かれた図版は、それまで千年以上信じられてきた古代の記述の誤りを次々と正すものでした。


 日本で本格的な人体解剖が行われ、その記録が出版されるのは、はるか後のことになります。杉田玄白らの『解体新書』が一七七四年ですから、この物語の時代からおよそ二百年後です。


 勘十郎は人体の構造を知っています。ですが、それを弟子に見せる手段を持っていません。言葉では伝わらないのです。図があれば、解剖を行わなくても教えられる——彼が欲しかったのは、知識ではなく教材でした。


 史実について補足します。


 ロレンソ了斎は実在の人物です。肥前の生まれで、琵琶法師として身を立てていたところをフランシスコ・ザビエルに出会い、日本人として最初期のイエズス会士となりました。片目が不自由だったと伝えられます。


 説教者として極めて優れており、多くの日本人の入信に関わりました。伴天連追放令の後は九州へ移り、一五九二年に長崎で亡くなっています。


 次話、続きます。


 お読みいただきありがとうございました。

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