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転生軍医、織田信勝 ―本能寺を消す処方箋―  作者: 東雲 諒杏
第九章 渡した先で(第41〜46話)

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第四十二話 面倒な仕事

※落城、肉親の死を扱います。


 第五話で、勘十郎は柴田権六にこう告げました。

 「それがしなら、その日を遠くへ追いやれる。五年が、二十年になり申す」


 ――二十七年です。

天正十一年、二月。


 ――《《越前から、文が来た》》。


          ◆


 その朝、京は雪だった。


 積もるほどではない。庭の苔の上に、うっすら白いものが乗っているだけである。


 俺は、火鉢を引き寄せて、その前に座っていた。


 近頃、寒いと胸が締まる。ぐ、と来るほどではないが、握られるような感じが背中まで抜ける。だから、暖かい場所から動かない。


 ――《《それが、四十八の暮らしだった》》。


          ◆


 差出人の名を見て、俺は少し笑った。


 ――《《柴田修理亮勝家しばたしゅりのすけかついえ》》。


 六十二になったはずである。


 紙は、上等なものだった。だが、字は――《《二十七年前と同じく、下手だった》》。


 一字が大きく、行が右へ流れている。筆を寝かせて書く癖が、そのままである。


          ◆


  ――《《勘十郎さまへ。》》

  ――《《ご病気と伺い候。心の臓と聞き候。》》

  ――《《それがし、字が下手にて、長きは書けず候。》》

  ――《《ゆえに、二つだけ申し上げ候。》》


          ◆


  ――《《一つ。》》

  ――《《足は、両方ござ候。》》

  ――《《毎朝、見申し候。二十七年、一日も欠かさず見申し候。》》

  ――《《爪も、深く切らず候。》》


          ◆


 俺は、その一行を、《《長いこと見ていた》》。


 ――《《二十七年前》》。


 末森城の一室で、俺はこの男に言った。


 あのとき、この男は三十五だった。喉が渇いて仕方がない、小便が近い、と言っていた。膝の上で拳を握って、俺の言うことを聞いていた。


 ――《《毎朝、足の裏と指の間を、ご自分の眼で見よ》》。


 ――《《爪は深く切るな》》。


 ――《《足が腐るのは、いつも気づかなかった小さな傷からにござる》》。


          ◆


 ――《《この男は、それを、二十七年やった》》。


 飲水病は、消えない。


 だが、進みは緩められる。


 ――《《眼が霞み、足が痺れ、傷が腐り、そして足を落とす》》。


 俺は、あのときそう告げた。この男の顔から血が引くのを、俺は見ていた。


 ――《《そして、この男は、《《両足を持ったまま六十二になった》》》》。


          ◆


  ――《《二つ。》》

  ――《《麦飯は、今も食うており候。》》

  ――《《割合は、麦六に米四にて候。》》

  ――《《二十七年前、勘十郎さまに教わりし通りにて候。》》

  ――《《近頃、家中の若い者が真似をし始め候。》》

  ――《《「鬼柴田は麦しか食わぬ」と申され候。》》

  ――《《笑止に候。》》


          ◆


 俺は、その紙を持ったまま、《《声を上げて笑った》》。


 ――《《笑って、そして胸が痛んだ》》。


 傍で薬を刻んでいた若い弟子が、包丁を放り出して駆け寄ってきた。


「――《《先生!》》」


「――《《違う》》」


 俺は、手を振った。


「――《《笑うたのだ》》」


 弟子は、疑わしそうな顔をして、それでも脈だけ取ってから戻っていった。


 ――《《俺が育てた通りの動きだった》》。


          ◆


 文の最後は、こうだった。


  ――《《勘十郎さま。》》

  ――《《それがし、近々、羽柴筑前と事を構え候。》》

  ――《《勝てるとは、思い申さず候。》》

  ――《《なれど、引けず候。》》


          ◆


  ――《《一つだけ、御礼を申し上げたく候。》》

  ――《《二十七年前、あなたさまは、それがしに「五年が二十年になり申す」と仰せられ候。》》

  ――《《――《《二十七年、生き申し候。》》》》

  ――《《七年、余分に候。》》

  ――《《十分に候。》》


          ◆


 俺は、その紙を、火鉢の前に持っていった。


 ――そして、《《燃やさなかった》》。


 俺は、それを『手当書』の五巻目に挟んだ。


 ――《《飲水病の項》》である。


 そして、その頁の余白に、こう書き足した。余白が狭かったので、字が小さくなった。


  ――《《一、飲水病は消えぬ。なれど、二十七年、足は腐らなかった。》》

  ――《《 ――《《毎朝、自分の眼で足を見た者の話である。》》》》

  ――《《   この項を読む者は、必ず患者に伝えよ。》》

  ――《《   ――《《「あなたは、両足を持ったまま歳を取れる」と。》》》》


          ◆


 四月二十一日。


 ――《《賤ヶしずがたけ》》。


 柴田修理亮勝家の軍は、羽柴筑前守秀吉の軍に破れた。


 ――《《一日で、決した》》。


          ◆


 四月二十四日。


 ――《《北ノきたのしょう城、落つ》》。


 柴田修理亮勝家、自害。


 ――《《享年、六十二》》。


          ◆


 そして。


 ――《《お市の方も、共に》》。


          ◆


 ――《《三十七であった》》。


 ――《《俺が来たとき、九つだった》》。


 ――《《母が倒れたとき、鈴を膝に置いて、四月よつき夜通し起きていた娘である》》。


 ――《《六年前、小谷から三人の子を連れて出てきたとき、背筋がまっすぐだった》》。


          ◆


 ――《《俺の、妹である》》。


          ◆


 俺は、その報せを、啓迪院の講堂で受け取った。


 講義の途中だった。二十人ほどの若い者が、筵に座って俺の話を聞いていた。


 使者が縁側に膝をついて、報せを述べた。


 そして――《《立ち上がろうとして、めまいがして、座り直した》》。


 目の前が、一度白くなった。


「――《《先生》》」


「――《《いい》》」


 俺は、そう言った。


「――《《座って聞く》》」


          ◆


 ――《《俺は、泣かなかった》》。


 ――《《泣く前に、こう聞いた》》。


          ◆


「――《《姫さま方は》》」


 俺は、そう聞いた。


「――《《どうなった》》」


「――《《城を出されたとのことにございます》》」


 使者は、そう答えた。


「――《《三人、無事に》》」


          ◆


 ――《《それを聞いて、俺は初めて息を吐いた》》。


 ――《《二十八年、俺はそういう男である》》。


 ――《《身内が死んだと聞いて、《《まず生きている者の数を聞く》》》》。


 ――《《医者としては、正しい》》。


 ――《《兄としては、《《何かが欠けている》》》》。


          ◆


 ――《《俺は、目を閉じた》》。


 ――《《十年前と、同じだ》》。


 天正元年九月。小谷城。


 あのとき、お市の方は三人の娘を連れて城を出た。乳飲み子を抱いて、五つと四つの手を引いて。


 ――《《そして今度は》》。


 ――《《娘だけを、出した》》。


          ◆


 三姉妹が京へ入ったのは、五月に入ってからである。


 羽柴筑前守の指図で、しばらく京の寺に置かれることになったという。


 ――そして、俺のところへ、《《使いが来た》》。


「――《《茶々さまが、伏せっておられます》》」


          ◆


「――《《症は》》」


「――《《食べられませぬ》》」


 使いの女は、そう言った。四十がらみの、堅い顔をした侍女である。


「――《《それと、《《眠っておられませぬ》》》》」


「――《《熱は》》」


「――《《ございませぬ》》」


「――《《腹は》》」


「――《《下しておられませぬ》》」


「――《《妹御は》》」


「――《《お二人とも、変わりございませぬ》》」


          ◆


 ――《《俺は、その場で立ち上がった》》。


「――《《駕籠を出せ》》」


「――《《先生! お身体が》》」


「――《《駕籠だ》》」


 俺は、そう言った。


「――《《歩かん。担いでもらう。……それでよかろう》》」


          ◆


 寺は、京の西のはずれにあった。


 五月である。田の水が張られていて、駕籠の窓から見ると、道の両側が空の色をしていた。蛙が、そこらじゅうで鳴いている。


 ――《《平和な景色だった》》。


 北ノ庄が焼けてから、まだ半月である。


          ◆


 俺は、駕籠から降りて、壁に手をついて廊下を歩いた。


 ――《《情けない》》。


 四十八である。


 二十七年前、俺は末森城の廊下を走っていた。母が倒れたと聞いて、袴の裾を掴んで走った。


 ――《《今は、壁がいる》》。


 十歩に一度、立ち止まって息を整えた。


          ◆


 部屋に入って。


 ――《《俺は、足が止まった》》。


          ◆


 十四の娘が、《《座っていた》》。


 伏せってはいなかった。


 白い小袖に、墨染めの打掛。髪は下ろしたままで、後ろで括ってある。


 背筋を伸ばし、膝に手を置き、まっすぐ前を見ている。


 ――《《十年前と、同じ座り方だった》》。


 いや。


 ――《《母親と、同じ座り方だった》》。


          ◆


「――《《茶々さま》》」


 俺は、そう呼んだ。


 娘は、こちらを向いた。


 そして、《《丁寧に一礼した》》。


「――《《織田勘十郎さまと、伺いました》》」


 ――《《声が、しっかりしていた》》。


「――《《遠路、恐れ入ります》》」


          ◆


 ――《《俺の背中が、冷たくなった》》。


 ――《《これは》》。


          ◆


 俺は、その場に座った。


 息が切れていた。座ってからも、しばらく肩が上下した。


「――《《失礼つかまつる。……歳ゆえ、息が上がり申した》》」


「――《《どうぞ、お楽になさいませ》》」


 娘は、そう言った。


 そして、後ろの侍女に、水を持ってこいという合図をした。


 ――《《完璧な応対だった》》。


 十四である。


 半月前に、母と義父を失っている。


 ――《《そして、二度目の落城である》》。


          ◆


「――《《茶々さま。食が進まぬと伺い申した》》」


「――《《はい》》」


「――《《いつからにござる》》」


「――《《城を出てからでございます》》」


「――《《眠りは》》」


「――《《浅うございます》》」


「――《《夜中に、目が覚めまするか》》」


「――《《覚めます》》」


「――《《何度ほど》》」


「――《《二度か、三度》》」


 ――《《全部、《《事実だけ》》で答える》》。


 ――《《感想が、一つもない》》。


 ――《《『つらい』も『恐ろしい』も、一言も出てこない》》。


          ◆


「――《《脈を、取らせていただく》》」


 俺は、その手首に指を当てた。


 細い手首である。十四の娘の手首だ。


 ――《《速い》》。


 ――《《そして、硬い》》。


 血の管が、《《縄のように張っていた》》。


 俺は、指を離した。


 ――《《この所見を、俺は知っている》》。


 ――《《三年前、坂本の廊下で取った脈と、同じである》》。


 そして、こう言った。


「――《《口を、開けていただきたい》》」


          ◆


「――《《口、でございますか》》」


「――《《はい》》」


 娘は、少し怪訝な顔をして、それでも口を開けた。


 俺は、靉靆あいたいを鼻に乗せた。窓のほうへ顎を向けさせて、光を入れた。


 ――《《見えた》》。


 ――《《奥歯が、少し平らになっていた》》。


 山と谷の、山の頂が丸くなっている。まだ僅かである。だが、十四の歯の形ではない。


 ――《《十四で》》。


          ◆


 ――《《俺は、その瞬間、《《別の男の顔を思い出していた》》》》。


 ――《《明智十兵衛光秀》》。


 金ヶ崎の木立の陰で、震える右手を左手で握りつぶした男。


 坂本の廊下で、平らに擦り減った奥歯を見せた男。


 そして――《《比叡山を毎日見ながら、「ありがたいことにございます」と笑った男》》。


          ◆


「――《《茶々さま》》」


 俺は、そう呼んだ。


「はい」


「――《《夜、歯を食いしばっておられますな》》」


          ◆


 娘の眼が、《《初めて、動いた》》。


「……なにゆえ、それを」


「――《《奥歯が、擦り減っておりまする》》」


「……」


「――《《朝、顎が痛みませぬか》》」


 娘は、答えなかった。


 膝の上の手が、わずかに動いた。


 ――《《それが、答えだった》》。


          ◆


 俺は、その場で、しばらく黙っていた。


 庭で、うぐいすが鳴いた。もう時期外れの、下手な鳴き方だった。


 ――《《何を言えばいい》》。


 十年前、俺はこの子の母に、四つの処方を出した。


 ――《《明日が読めるようにしてやること》》。


 ――《《同じ人が世話をすること》》。


 ――《《遊ばせること》》。


 ――《《母が、この子の前でだけ平気な顔をすること》》。


 ――《《そして、見えぬところで崩れること》》。


          ◆


 ――《《その母が、死んだ》》。


 ――《《四つとも、《《使えない》》》》。


          ◆


「――《《茶々さま》》」


 俺は、そう言った。


「はい」


「――《《一つ、申し上げてもよろしいか》》」


「――《《どうぞ》》」


「――《《それがしは、《《同じものを持った男を、十二年診申した》》》》」


          ◆


 娘は、俺を見た。


「――《《同じもの、とは》》」


「――《《歯にござる》》」


 俺は、そう言った。


「――《《その男も、奥歯が平らでござった》》。夜ごとに食いしばっておったゆえに」


「……」


「――《《そして、その男は、誰の前でも、《《穏やかでござった》》》》」


 俺は、続けた。


「――《《腹を立てず、取り乱さず、いつも礼儀正しゅうござった》》」


「――《《襟が、いつもまっすぐでござった》》」


          ◆


「――《《それがしは、その男に、処方を出し申した》》」


 俺は、言った。


「――《《書け、と。誰にも見せぬ紙に、腹の立ったことを書けと》》」


「……」


「――《《二年、続き申した》》」


 俺は、そこで一度、言葉を切った。


「――《《そして、《《効かなくなり申した》》》》」


          ◆


「――《《なにゆえ、でございますか》》」


 ――《《娘が、初めて、《《自分から聞いた》》》》。


 俺は、その顔を見た。


「――《《それがしが、《《一方通行にしたゆえ》》にござる》》」


          ◆


「――《《それがしは、その男に『書け』と言うておきながら、《《自分のことは何一つ書かなんだ》》》》」


 俺は、そう言った。


「――《《返事は、養生の話ばかりでござった》》。よく寝ろ、よく食え、と」


「……」


「――《《その男は、二年間、《《一人で書いておった》》のです》》」


 俺は、頭を下げた。


「――《《それは、手当てではござらなんだ》》」


          ◆


 娘は、しばらく黙っていた。


 そして、こう聞いた。


「――《《その方は、どうなられました》》」


 俺は、答えた。


 ――《《嘘は、つかない》》。


「――《《死に申した》》」


          ◆


「――《《それがしが、治せませなんだ》》」


 俺は、そう言った。


「――《《十二年、診続けて、治せませなんだ》》」


 俺は、顔を上げた。


「――《《ゆえに》》」


「……」


「――《《今度は、《《最初から申し上げまする》》》》」


          ◆


「――《《茶々さま》》」


 俺は、そう呼んだ。


「はい」


「――《《お怒りでござろう》》」


          ◆


 ――《《娘の顔が、止まった》》。


「――《《母上を、置いてこられた》》」


 俺は、言った。


「――《《いや、違いますな。……母上が、《《置いていかれた》》》》」


「……」


「――《《一緒に死のうと申されましたか》》」


          ◆


 娘は、答えなかった。


 俺は、続けた。


「――《《そして、断られましたな》》」


「……」


「――《《娘たちを連れて行けと言うたのは、十年前は母上でござった》》」


 俺は、言った。


「――《《今度は、母上が残られた》》」


          ◆


 ――《《娘の膝の上で、拳が、白くなっていた》》。


 打掛の生地が、指の間で皺になっている。


「――《《茶々さま》》」


 俺は、静かに言った。


「――《《怒って、よろしゅうござる》》」


          ◆


「――《《母上に、怒ってよろしゅうござる》》」


 俺は、そう言った。


「――《《なにゆえ置いていったのだと。なにゆえ一緒に来なんだのだと》》」


「……」


「――《《それは、《《当たり前の怒り》》にござる》》」


 俺は、続けた。


「――《《親を亡くした子は、みな怒りまする》》。悲しむ前に、怒りまする」


 俺は、言った。


「――《《それは、親を愛しておったという証にござる》》」


          ◆


 ――《《娘は、動かなかった》》。


 だが。


 ――《《俺は、その拳が震えているのを見ていた》》。


「――《《茶々さま》》」


「……」


 俺は、後ろの侍女に目をやった。


 ――《《下がれ》》。


 侍女は、一礼して襖の外へ出た。足音が、廊下を遠ざかっていった。


「――《《ここには、誰もおりませぬ》》」


 俺は、そう言った。


「――《《それがしは、四十八の病人にござる。坂も登れませぬ。……そして、《《人の秘密を三十年守ってきた男》》にござる》》」


          ◆


「――《《ここで何を仰せになっても、《《どこにも行き申さぬ》》》》」


          ◆


 ――《《長い、長い沈黙があった》》。


 庭で、鳥が鳴いていた。


 やがて。


 ――《《十四の娘が、口を開いた》》。


          ◆


「――《《母上は》》」


 声が、掠れていた。


「――《《わたくしを、《《置いていかれました》》》》」


          ◆


 ――《《それが、始まりだった》》。


 娘は、そこから、《《一刻、喋り続けた》》。


 城の中のこと。天守に火が回るのが下から見えたこと。


 母が笑って娘たちを送り出したこと。着物の襟を直して、髪を撫でつけて、そして「行きなさい」と言ったこと。


 義父が、去り際に頭を撫でたこと。手が大きくて、重かったこと。


 ――《《そして、その母の笑い方が、十年前と《《まったく同じ》》だったこと》》。


          ◆


「――《《母上は、《《十年前も、あの顔をなさいました》》》》」


 娘は、そう言った。


「――《《小谷を出るときにございます》》」


「……」


「――《《わたくしは、五つでございました》》」


 彼女は、続けた。


「――《《なれど、覚えております》》」


          ◆


「――《《母上は、あのとき、《《平気な顔をしておられました》》》》」


 娘は、言った。


「――《《そして、《《夜中に、一人で泣いておられました》》》》」


          ◆


 ――《《俺は、その言葉を聞いて、《《息が止まった》》》》。


 ――《《見ていたのか》》。


 ――《《五つの子が》》。


          ◆


「――《《茶々さま》》」


「はい」


「――《《それは、それがしが、母上に申し上げたことにござる》》」


 俺は、そう言った。


 ――《《言わねばならなかった》》。


「――《《十年前、それがしは母上にこう申し上げました》》」


「……」


「――《《娘御の前でだけ、平気な顔をなされよ、と》》」


          ◆


「――《《そして、《《見えぬところで崩れてくだされ》》と》》」


 俺は、頭を下げた。


「――《《母上は、それを、《《十年守られた》》》》」


          ◆


 娘は、俺を見ていた。


 やがて、こう言った。


「――《《なにゆえ、そのようなことを》》」


「――《《子は、大人の顔を見て、世が安全かどうかを決めまする》》」


 俺は、答えた。


「――《《大人が震えておれば、子は『まだ危ない』と思い、大人が笑うておれば、『もう終わった』と思いまする》》」


「……」


「――《《ゆえに、母上に、《《演じていただき申した》》》》」


          ◆


「――《《残酷なことを申し上げました》》」


 俺は、そう言った。


「――《《そして、十年経って、こうなり申した》》」


 俺は、顔を上げた。


「――《《茶々さま。それがしの処方は、《《半分、間違うておりました》》》》」


          ◆


「――《《母上に、崩れる場所は必要でござった》》」


 俺は、言った。


「――《《それは、正しゅうござった》》」


「……」


「――《《なれど、それがしは、《《母上一人にそれをやらせ申した》》》》」


 俺は、続けた。


「――《《母上には、崩れる相手がおりませなんだ》》」


          ◆


「――《《一人で泣くのは、《《崩れることではござらぬ》》》》」


 俺は、そう言った。


「――《《ただ、《《溜めておるだけ》》にござる》》」


          ◆


 ――《《俺は、その場で、頭を下げた》》。


 畳に、額をつけた。


「――《《茶々さま》》」


「……」


「――《《それがしは、二人、同じ間違いで死なせ申した》》」


 俺は、そう言った。


「――《《一人は、明智十兵衛どの》》」


「……」


「――《《もう一人は》》」


          ◆


 ――《《そこで、《《言葉に詰まった》》》》。


 ――《《この娘にとっては、母である》》。


 ――《《俺にとっては、妹である》》。


 ――《《同じ人を、二つの名で呼ばねばならなかった》》。


          ◆


「――《《――母上にござる》》」


 俺は、そう言った。


「――《《それがしの、《《妹にござる》》》》」


          ◆


 ――《《娘が、顔を上げた》》。


「――《《八つのときから、知っておりました》》」


 俺は、続けた。


「――《《嫁ぐ日に、門まで送り申した》》」


「……」


「――《《そして、《《一度も、診なんだ》》》》」


 俺は、頭を下げた。


「――《《母上が倒れた四月も、小谷を出られた日も、北ノ庄へ行かれた日も》》」


「……」


「――《《それがしは、《《いつも、別の患者を診ておりました》》》》」


          ◆


 ――《《娘は、そこで、泣いた》》。


 声を上げて泣いた。


 十四の娘が、畳に伏せて、子供のように泣いた。


 髪が畳に広がって、肩が跳ねていた。


 ――《《俺は、何も言わなかった》》。


 ただ、《《そこにいた》》。


 ――《《二十七年、俺が覚えた、たった一つの手当てだった》》。


          ◆


 その夜、俺は寺に泊まった。


 ――《《帰る力が、なかった》》。


 庫裏くりの隣の小部屋を借りた。板の間に夜具を敷いて、背中に荷を積んで寝た。


 夜半、廊下に足音がした。


 ――《《茶々さまだった》》。


          ◆


「――《《眠れませぬ》》」


 彼女は、襖の向こうからそう言った。


「――《《さようでござろう》》」


 俺は、身を起こした。


「――《《座られよ》》」


 娘は、襖を開けて、敷居の内側に座った。


 行灯を一つ点けた。目が腫れていた。


          ◆


 俺は、その脈を取った。


 ――《《まだ、速い》》。


 ――《《だが、少し柔らかくなっていた》》。


「――《《茶々さま》》」


「はい」


「――《《これから、長うござる》》」


 俺は、そう言った。


          ◆


「――《《今日、泣いたから治る、というものではござらぬ》》」


 俺は、言った。


「――《《何度も戻りまする。何年もかかりまする》》」


「……」


「――《《そして、《《たぶん、完全には消え申さぬ》》》》」


 俺は、続けた。


「――《《なれど、《《薄くはなり申す》》》》」


          ◆


「――《《処方を、申し上げまする》》」


 俺は、指を折った。


「――《《一つ。眠れぬときは、《《無理に寝ようとなさるな》》。起きて、灯りをつけて、何かをなされよ》》」


「――《《二つ。歯にござる。……夜、布を丸めたものを、《《奥歯のあいだに挟んで寝られよ》》。歯が擦り減るのを、少しは防げまする》》」


「――《《三つ。……これが、一番大事にござる》》」


          ◆


「――《《月に一度、それがしに文を寄越してくだされ》》」


          ◆


 ――《《娘の眼が、動いた》》。


「――《《それは、その方に出された処方では》》」


「――《《さようにござる》》」


 俺は、頷いた。


「――《《なれど、《《今度は、違い申す》》》》」


 俺は、言った。


「――《《それがしも、書きまする》》」


          ◆


「――《《それがしの、腹の立ったこと。悲しかったこと。……そして、《《しくじったこと》》を、書きまする》》」


 俺は、頭を下げた。


「――《《一方通行には、いたしませぬ》》」


          ◆


 ――《《娘は、しばらく黙っていた》》。


 行灯の火が、一度小さくなって、また戻った。


 そして、こう聞いた。


「――《《勘十郎さま》》」


「はい」


「――《《あなたさまは、いつまで生きておられます》》」


          ◆


 ――《《俺は、その問いに、笑ってしまった》》。


 ――《《医者に、そう聞く患者は珍しい》》。


 いや。


 ――《《この子は、《《置いていかれるのを恐れている》》のだ》》。


 ――《《二度、置いていかれた子である》》。


          ◆


「――《《分かり申さぬ》》」


 俺は、正直に答えた。


「――《《心の臓が、一度詰まり申した。……次がいつ来るか、それがしにも分かり申さぬ》》」


「……」


「――《《明日かもしれず、十年後かもしれませぬ》》」


          ◆


「――《《なれど》》」


 俺は、そう続けた。


「――《《それがしが死んでも、《《文を読む者はおりまする》》》》」


「……」


「――《《それがしには、弟子がおりまする》》」


 俺は、言った。


「――《《今は十七人。来年には、たぶん三十人になり申す》》」


 俺は、顔を上げた。


「――《《その者どもに、《《引き継がせまする》》》》」


          ◆


「――《《茶々さま。それがしは、《《一人では、もう何もできませぬ》》》》」


 俺は、そう言った。


「――《《坂も登れず、縫うこともできず、夜通し立つこともできませぬ》》」


「……」


「――《《ゆえに、《《人を作っております》》》》」


 俺は、少し笑った。


「――《《それがしが死んでも、《《続く》》ようにでござる》》」


          ◆


 娘は、しばらく俺を見ていた。


 そして。


 ――《《初めて、《《少しだけ笑った》》》》。


「――《《勘十郎さま》》」


「はい」


「――《《医者というのは、《《面倒な仕事》》でございますね》》」


          ◆


 俺は、《《声を上げて笑った》》。


 ――《《そして、また胸が痛んだ》》。


「――《《さようにござる》》」


 俺は、胸を押さえながら答えた。


「――《《まことに、面倒にござる》》」


          ◆


 ――《《翌朝、俺は駕籠で帰った》》。


 田の水に、朝の光が乗っていた。行きと同じ道である。蛙が、まだ鳴いていた。


 ――《《この子が、二度目の城を見ずに済む世を、俺は作りたい》》。


 十年前、俺はカルテにそう書いた。


 ――《《二度目は、半月前に見せてしまった》》。


 俺は、駕籠の窓を閉めた。


          ◆


  天正十一年 二月〜五月

  

  二月、柴田修理亮どのより文。

    ――《《「足は、両方ござ候。毎朝、二十七年、一日も欠かさず見申し候」》》

    ――《《「麦飯は、麦六に米四にて候。二十七年前に教わりし通りにて候」》》

    ――《《「五年が二十年になると仰せられ候。――二十七年、生き申し候。》》

       《《 七年、余分に候。十分に候」》》

  

    ――《《文は、燃やさぬ。『手当書』五巻・飲水病の項に挟んだ。》》

    ――《《余白に加筆:「あなたは、両足を持ったまま歳を取れる」と、必ず伝えよ。》》

  

  四月二十四日、北ノ庄落城。柴田修理亮勝家、自害。六十二歳。

    ――《《お市の方、同じく。》》

  

  症例・茶々、十四歳。

    食欲不振/入眠困難(中途覚醒二〜三回)/脈、速く硬し。

    ――《《臼歯咬合面、平坦化の始まり。十四歳である。》》

    ――《《明智十兵衛と、同じ所見。》》

    ――《《事実のみを答え、感想を一言も述べぬ。》》

  

    ※十年前の処方は、母上の死により全て使用不能。

      ――《《そして、その処方は、半分間違っていた。》》

      ――《《「見えぬところで崩れよ」と申し上げた。それは正しい。》》

      ――《《なれど、《《崩れる相手》》を用意しなかった。》》

      ――《《一人で泣くのは、崩れることではない。溜めているだけである。》》

  

    処方――

     一、眠れぬときは無理に寝るな

     二、夜、丸めた布を臼歯間に挟んで寝よ

     三、《《月に一度、文を寄越すこと。――そして、俺も書く。》》

        ――《《一方通行にはせぬ。》》

  

    ※「あなたさまは、いつまで生きておられます」と問われた。

      ――《《答えられなかった。》》

      ――《《ゆえに、引き継げる者を作っていると答えた。》》

  

  ――《《「医者というのは、面倒な仕事でございますね」》》

  ――《《まことに、面倒である。》》

今回は、二十七年後の答え合わせです。


 糖尿病は、現在も完治する病ではありません。ですが、進行を遅らせることはできます。


 合併症の中でも、足の問題は特に深刻です。神経の障害で感覚が鈍くなると、靴擦れや小さな傷に気づかなくなります。同時に血流も悪くなっているため、その傷が治らず、悪化し、最終的に切断に至ることがあります。


 ですから糖尿病の診療では、毎日自分の足を見ることが徹底して指導されます。足の裏、指の間、爪の周り。深爪をしないこと。


 地味で、面倒で、そして——これを続けた人は、足を失いません。


 作中の柴田勝家は、二十七年間それを続けました。


 もう一つ、今回は前回の処方の誤りを扱いました。


 第二十七話で、勘十郎はお市の方に「娘の前でだけ平気な顔をし、見えないところで崩れなさい」と処方しました。


 これは、半分は正しい助言です。子どもは大人の表情を見て世界の安全度を判断しますから、大人が落ち着いていることには意味があります。


 ですが、決定的に足りないものがありました。


 崩れる相手です。


 一人で泣くことは、感情を外に出すこととは違います。それは、ただ内側で反芻しているだけになりかねません。


 感情を扱う上で重要なのは、それを受け取る誰かが存在することです。書くという方法にも同じことが言えて、読む人がいるかどうかで意味が変わってきます。


 次話、続きます。


 お読みいただきありがとうございました。

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