第三十九話 胃が痛いと言うて死ぬ
六月十三日、山崎。
そして――第一話で、あの人は同じ痛みで死にました。
天正十年、六月十三日。
――《《山崎》》。
備中から返してきた羽柴筑前守秀吉の軍が、明智日向守光秀の軍とぶつかった。
――《《半日で、決した》》。
◆
俺は、その報せを、啓迪院の奥の一室で聞いた。
東の端の、書庫の隣である。窓が一つしかなく、朝しか日が入らない。その窓を開け放してあったが、風はなかった。
梅雨の終わりである。畳も、紙も、着ているものも、何もかもが湿っていた。壁土が汗をかいて、指で触れるとひやりとする。書庫のほうから、虫を寄せぬために焚いている草の匂いが流れてきていた。
運んできたのは、与一郎である。
「――《《勘十郎さま》》」
三十七の弟子は、蒼白な顔で言った。袴の裾が泥で撥ねている。鴨川の河原を走ってきたのだろう。息が上がっていた。
「――《《明智さまが、敗れられました》》」
俺は、寝床の傍で筆を持ったまま、動きを止めた。
筆の先から、墨が一滴、紙の上に落ちた。
「――《《日向守どのは》》」
「……」
「――《《言え》》」
◆
「――《《小栗栖の竹藪にて》》」
与一郎は、俯いたまま言った。
「――《《落ち武者狩りに遭われたとのこと》》」
「……」
「――《《竹槍で、脇腹を》》」
俺は、目を閉じた。
――《《竹藪》》。
この季節である。竹の葉が繁って、昼でも薄暗い。地面には落ちた皮が積もり、雨の後で泥になっている。
そこを、供の少ない一団が抜けようとした。
――《《夜だったはずだ》》。
昼に動ける道ではない。
「――《《その場で、討たれたか》》」
「――《《いえ》》」
与一郎は、首を振った。
「――《《しばらく、生きておられたと》》」
◆
――《《俺は、それを聞いて、外科医の頭になった》》。
脇腹。竹槍。
――《《太い血の管なら、その場で死ぬ》》。
腹の奥には、背骨に沿って人の親指ほどの太さの管が走っている。あれをやられれば、数を十数える間に事切れる。
しばらく生きていたということは、そこは外れている。腸か、腎か、あるいは腹壁の筋だけか。
竹槍は、鉄の穂先と違って、《《汚い》》。土と、竹の繊維と、腐った葉を、そのまま身体の中へ押し込む。
だが、そんなことはどうでもいい。
――《《傷を押さえる者が、いたのか》》。
俺は、そのことばかりを考えていた。
――《《いなかったはずだ》》。
誰も押さえなかった。誰も洗わなかった。誰も温めなかった。額に刻を書いた者もいない。
――《《俺の手当組が、二十四年かけて広めたことを、誰一人やらなかった》》。
あの人の周りには、《《それを知っている者が、一人もいなかった》》。
◆
「――《《勘十郎さま》》」
「……なんだ」
「――《《介錯されたと伺いました》》」
与一郎は、静かに言った。
「――《《ご自身から、そう申されたと》》」
俺は、しばらく黙っていた。
窓の外で、蝉が鳴きはじめた。今年、初めて聞く声だった。一匹だけ、まだ試すように、途切れ途切れに鳴いている。
そして、こう聞いた。
「――《《歳は》》」
「……は」
「――《《五十五だ》》」
俺は、自分でそう答えた。
◆
――《《医者は、患者の歳を覚えている》》。
初診が、元亀元年四月。金ヶ崎。
あのとき、四十過ぎ。
俺は、その男を《《十二年、診た》》。
脈を取り、口の中を見て、顎の筋に触れ、背中に耳を当てた。奥歯が平らに擦り減っているのを、靉靆を鼻に乗せて確かめた。
文を、二十四通受け取った。
――そして、全部、燃やした。
二年間、月に一度である。封を切り、天気の話を読み、丹波の作柄を読み、そして最後の一行を読んだ。読んで、火にくべた。
紙が黒くなって縮んでいくのを、俺は二十四回見た。
◆
俺は、懐から一枚の紙を取り出した。
十二年間、書き足し続けてきた紙である。折り目のところが擦り切れて、透けるほど薄くなっている。何度も畳み直したせいで、角が丸くなっていた。
俺は、その最後に、一行を書いた。
――《《天正十年六月十三日。死亡。五十五歳。》》
――《《 死因――竹槍による腹部刺創、および失血。》》
――《《 ――《《手当てを受けた形跡なし。》》》》
◆
俺は、そこで筆を止めた。
そして、その下に、もう一行書いた。
――《《 治せなかった。》》
――《《 十二年、診続けて、治せなかった。》》
――《《 ――《《これは、俺の負けである。》》》》
◆
俺は、筆を置いた。
そして、その紙を火鉢の前に持っていった。
夏である。火鉢に炭は入っていない。だが、薬を煎じるために、いつも一つ置いてある。灰だけが、白く冷えていた。
俺は、火打ち石を探した。
――《《燃やそうとした》》。
十二年、俺はこの人の文を全部燃やしてきた。
約束だったからだ。
――だが。
俺の手は、《《止まった》》。
◆
――《《これは、文ではない》》。
俺は、そう思った。
――《《カルテだ》》。
文は、患者のものだ。あの人が書いて、俺に預けたものだ。だから燃やす。
だがカルテは、《《医者のものだ》》。
俺が書いた。俺が見て、俺が考えて、俺が間違えたものだ。
――《《医者は、負けた記録を残さねばならない》》。
俺は、その紙を折り畳んで、懐に戻した。
◆
振り返ると、《《兄が、起きていた》》。
寝床の上で、上体を起こしている。
首には、筆の軸が刺さり、晒しで縛られている。晒しは、今朝替えたばかりで、まだ白い。
――《《十一日目である》》。
肘の傷は膿まなかった。喉の腫れは、五日目に引きはじめた。髭は伸び放題で、頬がこけている。腕が、目に見えて細くなっていた。
だが、《《声は、まだ出ない》》。
◆
兄は、俺を見ていた。
そして、右手を動かした。
――《《書く仕草》》である。
右腕は、まだ完全には使えない。肘が伸びきらず、握力も戻っていない。筆を握らせると、親指の付け根が白くなる。それでも、この人は右手で書こうとする。左手で書けと言っても、聞かなかった。
俺は、紙と筆を差し出した。
◆
兄は、書いた。
字は、震えていた。
――《《し ん だ か》》
「――《《はい》》」
――《《ど こ で》》
「――《《小栗栖の、竹藪にて》》」
――《《く さ む ら か》》
「――《《はい》》」
◆
兄は、しばらく筆を止めていた。
筆の先が紙に触れたまま、墨が一点、じわりと滲んだ。
部屋の外で、弟子が井戸の釣瓶を落とす音がした。それから、水を汲み上げる縄の軋み。
そして、また書いた。
――《《あ い つ は》》
――《《き れ い ず き だ っ た》》
◆
俺は、その字を見て、《《息を呑んだ》》。
――《《そうだ》》。
あの人は、いつも襟がまっすぐだった。
金ヶ崎で、泥だらけの鎧を着ていたときですら。坂本で瘧に倒れて痩せこけていたときですら。
本能寺の三日前、接待役を解かれて平伏し、背中が動かなかったときですら。
――《《この人は、それを見ていた》》。
二十七年、この人が家臣の身なりについて何か言ったのを、俺は聞いたことがない。褒めたことも、咎めたこともない。
だが――《《見ていた》》。
◆
兄は、続けて書いた。
――《《く さ む ら で 死 ぬ の は》》
――《《い や だ っ た だ ろ う》》
◆
俺は、その紙を見つめたまま、動けなくなった。
――《《これは》》。
これは、この人が家臣の死に際について書いた、《《最初で最後の言葉》》だった。
俺は、掠れた声で言った。
「――《《兄上》》」
――《《な ん だ》》
「――《《それがしは、あの方を治せませなんだ》》」
◆
兄は、しばらく俺を見ていた。
そして、書いた。
――《《し っ て い る》》
そして、その下に。
――《《俺 も 治 せ な か っ た》》
◆
俺は、その字を、長いこと見ていた。
――《《この人は、認めた》》。
二十七年、一度も認めたことのなかったことを。
佐久間を捨てたときも、林を捨てたときも、比叡山を焼いたときも、長島でも、伊賀でも。
この人は、《《一度も、間違えたと言わなかった》》。
――《《そして今、書いた》》。
◆
――《《そのときだった》》。
俺の左胸が、《《ぐ、と締まった》》。
――《《来た》》。
俺は、その場で膝をついた。手にしていた紙が、畳の上に落ちた。
◆
万力である。
左の胸を、内側から万力で締め上げられている。
――《《痛みではない》》。
いや、痛みなのだが、刺すようなものではない。《《押される》》のである。胸骨の裏側から、拳で押し広げられているような。
息を止めても、変わらない。姿勢を変えても、変わらない。
――《《それが、この痛みの正体である》》。
傷の痛みは、動けば変わる。腹の痛みは、押せば変わる。だが、これは何をしても変わらない。
その締め付けが、左の肩へ抜ける。
肩から、肘へ。
そして――《《顎へ》》。
奥歯が、痛んだ。歯の痛みだと思った者は、みなここで間違える。
冷たいものが、額から吹き出した。
――《《汗だ》》。
六月の京である。すでに汗をかいている。だが、これは違った。《《冷たい》》のである。首筋を伝う一筋が、はっきりと冷たかった。
◆
――《《違う》》。
俺は、そう思おうとした。
――《《煙だ。疲れだ。十一日、寝ておらんからだ》》。
九日前、俺は同じことを自分に言い聞かせた。町屋の軒下で、兄の喉に筆の軸を刺した直後に。
だが。
――《《今度は、《《言い聞かせられなかった》》》》。
◆
――《《俺は、この痛みを知っている》》。
二十七年前。
深夜二時の、大学病院の医局。
膵頭十二指腸切除術に十一時間立ち会い、そのまま査読論文を片づけていた。机の上には赤ペンと、飲みかけの缶と、開きっぱなしの本があった。付箋が貼ってあった。「天正十年六月二日、本能寺」の頁に。
――《《そして、同じ痛みが来た》》。
俺は、そのとき、こう診断した。
――《《ST上昇型心筋梗塞。左前下行枝の近位部》》。
自分で診断した。正確に。
そして、《《死んだ》》。
◆
「――《《勘十郎さま!》》」
与一郎が、駆け寄ってきた。
「――《《いかがなさいました!》》」
俺は、その袖を掴んだ。
――《《声を出せ》》。
――《《今、指図しなければ、俺は死ぬ》》。
二十七年前は、誰も来なかった。深夜の医局で、俺は一人だった。机に突っ伏して、朝まで見つかりもしなかった。
――《《今は、弟子がおる》》。
◆
「――《《与一郎》》」
俺は、掠れた声で言った。
「――《《俺の脈を、取れ》》」
「――は、はい!」
弟子の指が、俺の手首に当たった。
――《《この指は、震えていなかった》》。
顔は蒼白で、声は裏返っている。だが、手首に当てた三本の指は、静かに置かれていた。人差し指、中指、薬指。橈骨の内側。教えた通りの位置である。
――《《二十五年、教えてきたものが、そこにあった》》。
「――《《どうだ》》」
「――《《速うございます。……そして、《《時折、飛んでおりまする》》》》」
――《《不整だ》》。
俺は、目を閉じた。
◆
「――《《寝かせるな》》」
俺は、そう言った。
「――《《え》》」
「――《《背中を、起こせ。壁に凭れさせろ》》」
俺は、続けた。
「――《《寝かせると、心の臓に血が戻りすぎる。……それが、今は毒だ》》」
与一郎が、俺の背中に夜具を積んだ。
板壁に背中が当たった。柱が背骨に当たって痛かったが、《《息は、少し楽になった》》。
――《《兄が、寝床の上から俺を見ていた》》。
この人は、動けない。喋れない。何が起きているかも分からない。
ただ、俺の顔を見ていた。
◆
「――《《勘十郎さま。これは、何の病にございますか》》」
与一郎の声が、震えていた。
俺は、答えた。
――《《二十七年、誰にも説明したことのない病だった》》。
「――《《心の臓を養う、細い血の管がある》》」
俺は、自分の胸を指した。
「――《《心の臓は、血を全身へ送っておる。……だが、《《心の臓そのものも、血をもらわねばならん》》》》」
「その血の管が、《《詰まった》》」
俺は、言った。
「詰まった先の肉は、《《血をもらえなくなる》》」
「……」
「――《《そして、死ぬ》》」
俺は、続けた。
「与一郎。手足の指を縄で縛れば、その先が死ぬな。喜三郎の足のときと同じだ。……あれと同じことが、心の臓の中で起きておる」
「――《《なれど、心の臓は》》」
「――《《そうだ》》」
俺は、頷いた。
「――《《心の臓は、《《止められん》》》》」
◆
「――《《どうすれば、よろしいのですか》》」
与一郎が、聞いた。
俺は、その問いに、《《答えを持っていた》》。
――《《一つだけ》》。
「――《《柳の皮を持て》》」
「……は」
「――《《柳の皮だ! 早くしろ!》》」
俺は、怒鳴った。怒鳴った拍子に、胸がさらに締まった。目の前が、一度暗くなった。
与一郎が、飛び出していった。廊下を走る足音が、遠ざかっていく。途中で何かにぶつかる音がして、それから戸を蹴り開ける音がした。
――《《ある》》。
ここは、《《医の学び舎》》である。
北の蔵に、薬種が納めてある。道三先生が五十年かけて集めたものだ。
俺は、そこへ何度も入ったことがある。天井まで棚が組んであり、紙袋と桐箱に、一つずつ名札が貼ってある。先生の字と、その弟子の字と、そのまた弟子の字が混じっていた。
――《《柳の皮は、下段の右手にあったはずだ》》。
◆
――《《なぜ、柳の皮か》》。
俺は、痛みの中で、必死に頭を回していた。
――《《血の管が詰まる、というのは》》。
――《《血の塊が、詰まるということだ》》。
そして、柳の皮に含まれるものは。
――《《血を、固まりにくくする》》。
俺の時代では、この病の患者が運ばれてきたら、《《最初にやること》》がそれだった。
精製した薬を、《《噛み砕いて飲ませる》》。
噛むのは、《《早く効かせるため》》である。飲み込むだけでは、溶けて吸われるまでに時がかかる。その時が、命を分ける。
◆
――《《二十七年前》》。
俺は、この時代で、柳の皮を広めた。
「熱には柳の皮を煎じて飲め」と、唄にした。手当組の三百人が、それを唄いながら庭を練り歩いた。あのとき、通りかかった家老が露骨に顔をしかめて去っていった。
――《《十三年後、それが人を殺しかけた》》。
京の商人が、飲みすぎて、耳鳴りと過呼吸を起こした。南蛮寺の土間に担ぎ込まれてきた男の、あの顔を覚えている。眼が落ち窪んで、口の端に泡がついていた。
俺は、《《量を書かなかった》》。
――そして、書き足した。
――《《薬は量が全てなり。同じものが、量だけで薬にも毒にもなる。》》
――《《今、俺は、それを自分に使う》》。
◆
「――《《ございました!》》」
与一郎が、走り込んできた。
乾いた樹皮の束を抱えている。紙袋ごと持ってきたらしい。中身が畳の上にばらばらと散った。埃が、光の中に舞い上がった。
「――《《寄越せ》》」
俺は、それを引ったくった。
そして。
――《《噛んだ》》。
◆
――《《苦い》》。
途方もなく苦い。
舌の付け根が痺れるほど苦い。喉の奥が、勝手に閉じようとする。乾いた樹皮が、口の中の水を全部吸い取っていく。
俺は、それを噛み砕いた。
噛んで、噛んで、《《唾と一緒に飲み込んだ》》。
「――《《勘十郎さま! それは!》》」
「――《《黙って見ておれ》》」
俺は、言った。
「――《《これが、この世で唯一、俺の心の臓に効く薬だ》》」
◆
「与一郎。書け」
俺は、壁に凭れたまま、そう言った。
「――《《今から言うことを、全部書け》》」
「勘十郎さま、今はお休みに」
「――《《書け》》!」
俺は、怒鳴った。
「――《《これを書き残さねば、俺は死に損だ》》」
◆
与一郎は、震える手で筆を取った。
俺は、痛みの合間に、途切れ途切れに言った。
一息に一つ、それが限界だった。言い終えるたびに、壁に頭を預けて息を整えた。
「――《《一、心の臓の血の管の詰まりのこと》》」
「……はい」
「――《《左の胸が、締めつけられるように痛む》》。……刺すような痛みではない。《《押される》》ような、《《掴まれる》》ような痛みだ」
「……」
「――《《その痛みが、左の肩へ、腕へ、そして顎へ抜ける》》」
俺は、続けた。
「――《《冷や汗をかく。吐き気がする。息が苦しい》》」
「――《《汗は、《《冷たい》》。……そこを、聞け》》」
「――《《それと、《《姿勢を変えても、押しても、痛みが変わらぬ》》。……傷の痛みは、動けば変わる。これは、変わらん》》」
◆
「――《《大事なのは、ここからだ》》」
俺は、息を切らしながら言った。
「――《《この痛みは、胸に出るとは限らん》》」
「……え」
「――《《顎だけが痛む者がおる。左腕だけが痛む者がおる。……《《みぞおちが痛むだけ》》の者もおる》》」
俺は、言った。
「――《《『胃が痛い』と言うて死ぬ者が、《《山ほどおる》》》》」
◆
「――《《特に、《《年寄りと、女と、飲水病の者》》は、痛みが軽い》》」
俺は、続けた。
「――《《飲水病の者は、痛みを感じる仕組みそのものが鈍うなっておる》》」
――《《柴田権六の足を思い出していた》》。
あの男は、鉄釘を踏んでも気づかなかった。指の間が腐りかけているのを、俺が見つけるまで知らなかった。
「――《《ゆえに、見逃される》》」
俺は、拳を握った。
「――《《書け。《《『胃が痛い』と言うて、冷や汗をかき、顔が土気色の者を見たら、疑え》》と》》」
◆
「――《《手当ては、三つだ》》」
俺は、言った。
「――《《一つ。寝かせるな。上体を起こせ》》」
「――《《二つ。動かすな。歩かせるな。厠へも行かせるな。……《《運ぶときも、担架で運べ》》》》」
「――《《三つ。《《柳の皮を、噛ませろ》》》》」
俺は、そこで言葉を切った。息が続かなかった。
「――《《煎じるな。時がかかる。……《《噛ませろ》》。苦いが、噛ませろ》》」
◆
「――《《量は》》」
与一郎が、聞いた。
――《《いい弟子だ》》。
俺は、少し笑いそうになった。
――《《この男は、十三年前、俺が「量を書かなかった」ことで人を殺しかけたのを、隣で見ている》》。
「――《《親指の爪ほどの皮を一片。……それだけだ》》」
俺は、言った。
「――《《多くやるな。多くやれば、耳が鳴り、息が荒くなり、死ぬ》》」
「――はい」
「――《《そして、《《毎日、続けさせろ》》》》」
◆
「――《《それで、治るのでございますか》》」
与一郎が、聞いた。
俺は、正直に答えた。
「――《《治らん》》」
「……」
「――《《死んだ肉は、戻らん》》。詰まった先の心の臓の肉は、もう死んでおる」
俺は、続けた。
「――《《だが、《《これ以上詰まらせぬこと》》は、できる》》」
◆
俺は、そこで、《《ふと気づいた》》。
――《《これは、あの日と、同じことを言っている》》。
三か月前。甲斐の盆地で、俺は与一郎に言った。
――《《この病は、俺の代では終わらん》》。
――《《だから、お前に渡す》》。
あのとき、俺は掌に小さな巻貝を乗せていた。水際の草の根元にいた、七、八分の貝である。
――そして、こうも言った。
――《《終わらせ方が分からぬ病より、終わらせ方は分かっておるが時のかかる病のほうが、まだいい》》。
◆
――《《俺のこれは、どちらだ》》。
俺は、痛みの中で考えた。
――《《終わらせ方は、分かっている》》。
俺の時代なら、細い管を血の道に通して、詰まりのところで押し広げる。半日で歩ける。翌日には粥を食う。
――《《だが、それは四百年先だ》》。
俺には、間に合わない。
――《《俺の代では、終わらん》》。
◆
俺は、目を開けた。
――《《それでも、書いた》》。
――《《書いておけば、いつか誰かが、この続きを書く》》。
「――《《与一郎》》」
「はい」
「――《《最後に、一行書け》》」
俺は、そう言った。
「――《《この病の根を絶つ手立ては、俺は持っておらぬ》》」
「……」
「――《《なれど、必ずある》》」
俺は、言った。
「――《《詰まった管を、通せばよいのだ》》」
「――《《通す、と》》」
「――《《そうだ》》」
俺は、頷いた。
「――《《どうやるかは、知らん。……だが、《《それができれば、この病は終わる》》》》」
俺は、続けた。
「――《《百年か、二百年か、五百年か。……誰かが、必ずやる》》」
◆
――《《そこまで言って、俺は意識を失った》》。
◆
◆
――《《目が覚めたとき、天井が木だった》》。
俺は、しばらく、それを見ていた。
――《《煤けた梁》》。
節のところが黒く、木目が波になって走っている。その一本を、俺は目で辿った。
――《《どこかで、鶏が鳴いている》》。
――《《二十七年前と、同じだった》》。
◆
――《《ああ》》。
俺は、ぼんやりと思った。
――《《また、目が覚めたのか》》。
――《《今度は、誰の身体だ》》。
◆
「――《《勘十郎さま》》」
声がした。
俺は、そちらへ顔を向けた。首を回すだけで、息が切れた。
――《《与一郎だった》》。
三十七の、痩せた男。目が真っ赤に腫れている。無精髭が伸びていた。着物が、四日前と同じものだった。
――《《ああ》》。
俺は、そこで気づいた。
――《《俺は、俺のままだ》》。
◆
「――《《何日、経った》》」
俺は、そう聞いた。
声が、かすれていた。
「――《《四日にございます》》」
与一郎は、そう答えた。
「――《《四日、眠っておられました》》」
「――《《脈は》》」
「――《《整っております》》。三日目から、飛ばなくなりました」
俺は、目を閉じた。
――《《生きている》》。
◆
「――《《柳は》》」
「――《《毎日、噛んでいただきました》》」
与一郎は、言った。
「――《《眠っておられるあいだは、砕いて、水に溶いて、口の端から少しずつ》》」
俺は、少し笑った。
「――《《飲ませたか》》」
「――《《むせられませなんだ。……顎を上げて、少量ずつ入れました》》」
――《《正しい》》。
二十五年前、俺が母の枕元で女たちに教えたことだった。
顎を上げれば、喉が真っ直ぐになる。真っ直ぐな喉には、少量なら落ちる。
あのとき、俺は母を治せなかった。半年寝たきりのまま、母は死んだ。
――《《だが、その教えが、俺を生かした》》。
◆
俺は、そこで、《《人の気配》》に気づいた。
寝床の傍に、もう一人いる。
俺は、そちらへ顔を向けた。
◆
――《《兄だった》》。
首に筆の軸を差し、晒しを巻き、痩せて、髭が伸びた男が。
――《《寝床の脇に、座っていた》》。
膝を崩さず、背筋を伸ばして。四十九の男が、四日、そうしていた。
膝の脇に、紙と炭が置いてある。何枚か、字が書かれたまま重ねてあった。俺が眠っているあいだに、この人が何を書いたのかは、分からない。
俺は、その顔を見て、掠れた声で言った。
「――《《兄上。ここは、病人のいる部屋にござる》》」
――《《し っ て い る》》
兄は、そう書いた。
「――《《移りまする》》」
――《《う つ ら ん》》
――《《俺 も 病 人 だ》》
◆
俺は、思わず笑ってしまった。
――《《笑って、そして胸が痛んだ》》。
「――《《いつから、そこに》》」
俺が聞くと、与一郎が横から答えた。
「――《《四日、そこにおられます》》」
「……」
「――《《お食事も、そこで》》」
「――《《夜も、そこで》》」
◆
俺は、兄を見た。
この人は、二十七年、《《人の枕元に座ったことがない》》。
母が倒れたときですら、半刻で立ち去った。
あのとき俺は、それを薄情だとは思わなかった。この人は、《《動かないものの前に座っていられない》》のだ。何もできない場所に、この人はいられない。
――《《それが、四日》》。
「――《《兄上》》」
――《《な ん だ》》
「――《《それがしは、たぶん、しばらく働けませぬ》》」
俺は、そう言った。
「――《《歩けるようになるまで、ひと月はかかりまする》》」
俺は、正直に言った。
「――《《そして、心の臓の肉は、《《一部、死んでおりまする》》》》」
「……」
「――《《元には、戻り申さぬ》》。……これから、坂を登れば息が切れまする。走れば、また来まする」
俺は、続けた。
「――《《そして、《《いつか、また詰まりまする》》》》」
◆
俺は、頭を下げた。枕から、わずかに顎を引いただけである。それしかできなかった。
「――《《兄上。それがしは、《《働きで計れば、もう使えませぬ》》》》」
――《《二年前、俺が兄に言ったことだ》》。
安土の、金と朱で塗り込められた最上階で。佐久間と林が捨てられた月に。
――《《人は必ず働けなくなる。予備の力が減ってゆく。これは誰にでも起きる》》。
――《《そして、俺にも起きた》》。
◆
兄は、しばらく俺を見ていた。
そして、《《筆を取った》》。
――《《長い時間、書いていた》》。
二十七年、この人がこれほど長く筆を動かすのを、俺は見たことがなかった。途中で墨を継ぎ、また書き、そしてまた継いだ。
右腕が思うように動かないので、途中で何度か手を止め、左手で右の肘を支え直していた。
やがて、兄は、その紙を俺の胸の上に置いた。
◆
俺は、靉靆を鼻に乗せて、それを読んだ。
――《《与一郎が、枕元に置いておいてくれていた》》。
――《《二 十 七 年 前》》
――《《貴 様 は 家 督 は 要 ら ぬ と 言 っ た》》
――《《代 わ り に 俺 の 身 体 を 預 か る と 言 っ た》》
――《《俺 は 承 知 し た》》
――《《今 度 は 俺 が 預 か る》》
◆
俺は、その字を見て、《《動けなくなった》》。
字は、震えていた。
右腕が、まだ使えないからだ。
――《《それでも、右手で書いていた》》。
◆
俺は、その紙を握りしめた。
そして、こう言った。
「――《《兄上》》」
――《《な ん だ》》
「――《《それがしは、医者にござる》》」
俺は、言った。
「――《《人に預けるのは、《《性に合いませぬ》》》》」
◆
兄は、俺を見た。
そして、書いた。
――《《だ ま れ》》
――《《命 令 だ》》
◆
俺は、笑った。
笑って――《《泣いた》》。
窓の外で、蝉が鳴いていた。今度は、一匹ではなかった。
◆
六月二十七日。
清洲城で、織田家の後継を決める評定が開かれた。
――《《清洲会議》》である。
羽柴筑前守秀吉が、三法師さまを推した。柴田修理亮勝家が、三七信孝さまを推した。
――そして、三法師さまに決した。
◆
俺は、その報せを、寝床で聞いた。
起き上がれるようになったのは、その三日前である。
厠まで歩くのに、《《壁に手をつく》》。十歩に一度、立ち止まって息を整える。三十歩の距離を行くのに、四半刻かかる。
――《《それが、今の俺だ》》。
◆
「――《《兄上》》」
俺は、隣に座る男に言った。
「――《《声は、まだにござるな》》」
兄は、頷いた。
――《《穴は、少しずつ縮んでいる》》。
筆の軸を、俺は三日前に《《細いものに替えた》》。学び舎の弟子に竹を削らせて、少しずつ細くしていく。太いものを一気に抜けば、穴が塞がる前に息の道が乱れる。
あと十日ほどで、抜ける。
抜けば――《《この人は、また喋れる》》。
◆
俺は、その顔を見た。
――《《この国は、この人が死んだと思っている》》。
葬儀の話まで出ていると聞いた。羽柴筑前守が、大々的にやるつもりらしい。
――《《そして、この人は、まだ喋れない》》。
「――《《兄上》》」
俺は、そう呼んだ。
「――《《どういたしまする》》」
兄は、筆を取った。
そして、書いた。
◆
――《《ま ず 治 せ》》
――《《話 は そ れ か ら だ》》
◆
俺は、その字を見て、深く息を吐いた。
――《《この人は、変わっていない》》。
だが。
――《《変わったところも、ある》》。
二十七年前、末森城で、この人は「明日死ぬかもしれん」と言った。
――《《今は、「話はそれからだ」と言う》》。
◆
天正十年 六月
六月十三日、山崎。明智日向守光秀、敗死。五十五歳。
死因――竹槍による腹部刺創、および失血。
――《《手当てを受けた形跡なし。》》
――《《十二年、診続けて、治せなかった。これは、俺の負けである。》》
――《《カルテは、燃やさぬ。文は患者のもの、カルテは医者のものゆえ。》》
※兄上の言――《《「あいつは、きれいずきだった」》》
《《「草叢で死ぬのは、いやだっただろう」》》
《《「俺も治せなかった」》》
症例・織田勘十郎(俺)、五十歳。
左胸部の絞扼痛。左肩・左腕・下顎への放散。冷汗、悪心。脈、不整。
――《《姿勢を変えても、押しても、痛みが変わらぬ。》》
――《《心の臓を養う血の管の閉塞と診断。》》
――《《二十七年前に、これで一度死んでいる。》》
処置――
一、寝かせず、上体を起こす
二、動かさぬ。厠へも歩かせぬ。運ぶときも担架
三、《《柳の皮を、噛ませる》》(煎じるな。噛ませよ)
量――親指の爪ほど一片。以後、毎日。
――《《多くやれば、耳が鳴り、息が荒くなり、死ぬ。》》
※この痛みは、胸に出るとは限らぬ。
顎だけ、左腕だけ、《《みぞおちだけ》》のこともある。
――《《「胃が痛い」と言うて死ぬ者が、山ほどおる。》》
――年寄り・女・飲水病の者は、痛みが軽い。ゆえに見逃される。
――《《汗は、冷たい。そこを聞け。》》
※根治の術は、俺は持たぬ。
――《《なれど、必ずある。詰まった管を、通せばよいのだ。》》
――《《どうやるかは知らぬ。百年か、二百年か、五百年か。》》
――《《誰かが、必ずやる。》》
四日、意識なし。三日目より脈、整う。
――《《生きている。》》
――《《心の臓の肉は、一部死んだ。元には戻らぬ。》》
――《《兄上が、四日、枕元に座っておられた。》》
二十七年、この人が人の枕元に座ったのを見たことがない。
六月二十七日、清洲会議。三法師さまに決す。
――《《兄上、いまだ発声不能。》》
――《《この国は、この人が死んだと思っている。》》
――《《「まず治せ。話はそれからだ」》》
今回は、心筋梗塞です。
第一話で主人公が死んだ病であり、二十七年後、同じ体に起こります。
心臓は全身に血液を送るポンプですが、心臓自身もまた血液を必要とします。それを供給しているのが冠動脈で、この血管が詰まると、その先の心筋が壊死します。
症状として最もよく知られているのが、左胸を締めつけられるような痛みと、左肩から腕、顎への放散痛です。冷や汗、吐き気、呼吸困難を伴います。
ですが、今回作中で最も強調したのはそこではありません。
この病は、必ずしも胸に痛みが出るとは限らない、という点です。
顎だけが痛む方がいます。左腕だけが痛む方がいます。そして——みぞおちの痛みだけを訴える方が、少なくありません。
「胃が痛い」と言って受診し、あるいは受診せず、亡くなる方が実際にいます。
特に高齢の方、女性、そして糖尿病のある方は、典型的な痛みが出にくいことが知られています。糖尿病では神経の障害により痛みの感覚そのものが鈍くなるためで、無痛性心筋梗塞と呼ばれます。
冷や汗をかき、顔色が悪く、みぞおちが痛いという方を見たときに、胃の病気だと決めつけないこと——これは現在も繰り返し注意される点です。
治療について。作中で主人公が噛んだ柳の樹皮には、血小板の働きを抑える成分が含まれています。現在、急性心筋梗塞の初期対応で最初に行われることの一つが、この系統の薬を噛み砕いて服用することです。噛むのは、吸収を早めるためです。
第四話で主人公が広め、第二十一話で人を殺しかけた薬が、ここで自分の命を繋ぎます。
次話、続きます。
お読みいただきありがとうございました。




