第三十七話 是非も無し
※戦闘、負傷、死の描写があります。
天正十年六月二日、寅の刻。
――二十七年です。
天正十年、五月二十九日。
俺は、京の本能寺に入った。
寺と言っても、堂と塔が並ぶだけの場所ではない。周囲に堀が掘られ、その内に土塁が積まれ、上に塀が回してある。門は厚い板張りで、内側から閂が渡せるようになっていた。
兄が、上洛のたびの宿所として整えさせたものである。
――《《城だ》》。
俺は、堀端を歩きながら、そう思った。
だが。
――《《人が、少なすぎた》》。
小姓衆と、身の回りの者。台所の者と、厩の者。数えて回るまでもなく、《《百に届かない》》。
境内は、広い。堂の周りに御殿があり、渡り廊下があり、庭があり、蔵が二つある。この広さを、百人足らずで守るというのは――
俺は、そこで考えるのをやめた。
考えたところで、俺には何もできない。
◆
俺は、着いた日から、いつも通りのことをやった。
――《《建物を、歩き回った》》。
二十七年、俺はどこへ行ってもこれをやってきた。城でも、陣でも、村でも、寺でも。
厠がどこにあるか。井戸がどこか。水がどう流れるか。火が出たらどう逃げるか。人が倒れたらどこへ運ぶか。
――《《医者の癖である》》。
だから、この日もそうした。
俺は、本堂の裏から始めた。渡り廊下を辿り、御殿の縁を回り、台所を抜け、厩の脇を通って、土塁の内側を一周した。
塀は、高いところで人の背の一倍半ほどある。だが、北の一角だけが違った。
石垣が崩れて、土がむき出しになっている。長雨で流れたのだろう。修繕の跡はあるが、途中で止まっていた。
俺は、そこにしゃがんで土を握った。
崩れた斜面は、人が這い上がれるほどに緩い。そして、その上の塀は、崩れに合わせて低くなっていた。
◆
「――勘十郎さま。何をなさっておいでで」
小姓の一人が、不思議そうに聞いた。
十六くらいの少年だった。まだ声が完全に低くなりきっていない。髷が小さく、月代を剃った跡が青い。
「――《《出口を、数えておる》》」
「出口、にございますか」
「そうだ」
俺は、指を折った。
「表門。裏門。東の通用口。厩の脇。……それと、《《北の塀の、崩れかけておるところ》》」
俺は、その少年を見た。
「――《《六つある》》」
「……はあ」
――《《まるで分かっていない顔だった》》。
当たり前である。この少年にとって、塀は塀であって、出口ではない。
「覚えておけ」
俺は、そう言った。
「――《《人が倒れたら、一番近い出口から運ぶ》》。それだけのことだ」
「……はい」
「名は」
「――《《千代丸》》と申します」
◆
六月一日。
その日、寺には人が入り続けた。
兄が、《《茶会を開いた》》からである。
安土から運ばせた名物の茶器を、四十近く並べた。公家衆が招かれ、堺の商人が招かれ、博多からも人が来ていた。
俺は、末席の、そのまた外にいた。
医者は、こういう座には呼ばれない。呼ばれても行かない。
だが、遠くからは見えた。
――《《機嫌が、よかった》》。
兄は、茶器を一つずつ取り出しては、来客の前に置いていた。手ずからである。
名を言い、由来を言い、そして相手の顔を見た。相手が息を呑むと、満足そうに次を出した。
あの人が、あんなふうに人へ物を見せるのを、俺は初めて見た気がした。
◆
客が帰った後、俺は兄の部屋に呼ばれた。
夏の夜である。障子は開け放してあり、庭から虫の音が上がってきていた。
灯明が二つ。片方が、時々じじと鳴った。
兄は、湯帷子一枚で脇息にもたれていた。盃が、膝の脇に置いてある。
「――勘十郎」
「はい」
「――《《脈を取れ》》」
俺は、少し驚いた。
この人が、自分から脈を取れと言ったのは、《《二十七年で初めて》》だった。
◆
俺は、その手首に指を当てた。
――《《整》》。
――《《やや硬い》》。
――《《だが、乱れはない》》。
この人の脈は、十年ほど前から硬い。血の道に力がかかりすぎている。だが、今夜は特に悪いわけではなかった。
俺は、指を離した。
「――兄上。お変わりござらぬ」
「――そうか」
兄は、盃を置いた。そして、庭のほうを見た。
「勘十郎」
「はい」
「――《《貴様、いくつになった》》」
「――《《四十七にござる》》」
◆
「――《《俺より、二つ下か》》」
信長は、天井を見た。
「――《《人間五十年、か》》」
俺は、その言葉に、《《心臓を掴まれた》》。
「――兄上」
「二十四年前だ」
彼は、こともなげに言った。
「丸根と鷲津が焼けた朝、俺は敦盛を舞うた。……あのとき、貴様がおったな」
「――おりました」
「あのとき、貴様は俺に何と言うた」
俺は、答えた。
あの朝のことを、俺は一日も忘れていない。庭に篝火が焚かれ、鎧の緒が湿っていて、東の空が赤かった。
「――《《五十では足りぬ、六十でも足りぬ、七十まで生きていただくと》》」
◆
「――ふん」
兄は、笑った。
「四十九だ」
「……はい」
「あと二十一年、か」
彼は、盃を取った。
「――《《長いな》》」
俺は、いつもの通り答えようとした。
――《《短うござる》》と。
二十七年、何十回とやってきたやりとりである。
だが、その言葉が、《《出てこなかった》》。
◆
「――勘十郎」
「……はい」
「――《《貴様、今日は何も言わんな》》」
俺は、うつむいた。
「――《《どうした》》」
俺は、答えられなかった。
――《《言えるはずが、なかった》》。
明日、この人は死ぬ。
二十七年、俺はそれを知っていた。そのために生きてきた。麦を食わせ、井戸を埋め、蚊帳を買い、傷を洗い、書を五巻書いた。
そして今、俺はそれを止められないまま、この部屋に座っている。
庭で、虫が鳴いていた。灯明が、また一度じじと鳴った。
「――兄上」
俺は、そう呼んだ。
「なんだ」
「――《《一つだけ、お聞かせいただきたい》》」
◆
「――《《兄上は、何がしたかったのでござるか》》」
信長は、盃を止めた。
「……なんだ、いきなり」
「二十七年、お傍におりました。……なれど、それがしは一度も、それを伺うたことがござらぬ」
俺は、顔を上げた。
「――《《天下を獲って、その先に、何をなさるおつもりでござったか》》」
◆
兄は、しばらく黙っていた。
盃を、膝の上でゆっくり回していた。
そして、こう言った。
「――《《船だ》》」
「……船」
「――《《南蛮の船を、作る》》」
彼は、盃を置いた。
「勘十郎。貴様が二十年前に連れてきた南蛮の坊主どもがおったろう。……あれに、いろいろ聞いた」
「……はい」
「あの連中は、《《半年、船に乗ってここまで来た》》と言うた。……半年だぞ」
彼は、天井を見上げた。
「――《《海の向こうに、まだ何かある》》」
◆
「――兄上」
「この国を平らげたら、船を作る。……堺と、博多と、九州の湊を全部使う」
彼は、指を折った。
「そして、《《出る》》」
「……」
「――《《俺は、この国が狭い》》」
俺は、その言葉を聞いて――
《《声が出なくなった》》。
◆
――《《それは》》。
――《《それは、俺が二十七年前に夢見たものだ》》。
本能寺の変がなければ、この国は海へ出ていたかもしれない。鎖国もなく、二百年遅れることもなく、もっと早く学び、もっと早く――《《人が死ななくなった》》はずだ。
俺は、六十三歳の医局で、そう思って死んだ。
そして今、その当人が、目の前で、《《同じことを言っている》》。
◆
「――《《勘十郎》》」
「……はい」
「――《《なぜ泣いておる》》」
「――《《泣いており申さぬ》》」
「――《《泣いておるわ》》」
兄は、少し呆れたように言った。
「まったく、貴様は昔からそうだ。……人の脈を取るときだけは、震えぬくせにな」
「――兄上」
「なんだ」
「――《《七十まで、生きてくだされ》》」
俺は、そう言った。
「――《《それがしは、そのために、この二十七年を使い申した》》」
◆
兄は、しばらく俺を見ていた。
そして、こう言った。
「――《《勘十郎》》」
「はい」
「――《《俺は、貴様に一度も礼を言うたことがないな》》」
俺は、顔を上げた。
「……兄上」
「――《《言わんぞ》》」
彼は、盃を干した。
「――《《七十になったら、言う》》」
◆
――それが、俺が最後に聞いた、平時の兄の言葉だった。
◆
六月二日、寅の刻。
まだ、暗かった。
この季節、夜明けは早い。だが、その時刻は、空がようやく東の縁だけ薄くなりはじめる頃である。
――《《俺は、音で目を覚ました》》。
最初は、雷かと思った。
だが、雷は《《続かない》》。
――《《ばん。ばばん。ばん》》。
間を置いて、また、ばん。
――《《鉄砲だ》》。
俺は、跳ね起きた。
寝間着のまま、靉靆だけを掴んだ。
◆
廊下に出ると、すでに叫び声が上がっていた。
「――《《敵襲!》》」
「――《《何者だ!》》」
寝ていた者が、次々に飛び出してくる。刀を掴む者、袴を穿こうとして転ぶ者。
俺は、東の縁側へ走った。
外は、暗い。
だが、《《明るくなりはじめていた》》。
塀の向こうに、《《無数の松明》》が見えた。
それが、動いている。塀を越えて、こちらへ流れ込んでくる。
そして、その光の中に、《《旗が見えた》》。
夜明け前の薄闇の中で、水色の地に、桔梗の紋。
――《《明智》》。
◆
俺は、その場に立ち尽くした。
――《《来た》》。
二十七年。
俺は、この日を止めるために生きてきた。
中村で井戸を埋め、浮野で筵を三つに分け、桶狭間で三百人に唄を教え、比叡山の焼け跡を歩き、金ヶ崎で四十七人を置いてきて、坂本で歯の擦り減った男の口を覗いた。
――《《止められなかった》》。
火薬の匂いが、風に乗って流れてきた。
◆
「――《《勘十郎さま!》》」
小姓の一人が、駆けてきた。
昨日、出口を数えていた俺に「はあ」と気の抜けた返事をした、あの少年だった。
――《《千代丸》》。
寝間着の上に胴だけを着けている。紐が結べていなかった。
「――《《殿が!》》」
「――《《どこだ》》」
「――《《表の広間に!》》」
俺は、走った。
◆
兄は、《《弓を引いていた》》。
湯帷子のままである。裾を絡げて、帯に挟んでいた。
縁側に立ち、庭に湧いてくる敵に向けて、次々と矢を放っていた。
四十九である。
だが、その引き方は、俺が二十年前に見たものと同じだった。
左手が動かない。右手だけが、弦を引き、離す。矢は、まっすぐ飛ぶ。
庭に、人が倒れた。
小姓たちが、その周りで槍を構えている。十人ほど。庭に湧いてくる敵は、《《その十倍以上いた》》。
《《森蘭丸》》が、兄のすぐ後ろにいた。
矢箙を抱えて、次の矢を渡している。
「――《《兄上!》》」
俺の声に、信長は振り返らなかった。
ただ、こう言った。
「――《《誰の手の者だ》》」
◆
誰かが、答えた。
「――《《桔梗にございます》》」
「――《《明智日向守の手勢にございます》》」
――《《一瞬、空気が止まった》》。
庭の喊声も、鉄砲の音も、そのときだけ遠くなった気がした。
そして。
信長は、《《弓を下ろした》》。
そして、こう言った。
「――《《是非も無し》》」
◆
――《《是非に及ばず》》。
後の世に伝わることになる、その一言である。
俺は、そのとき、その言葉を《《まったく違う意味で》》聞いていた。
――《《この人は、諦めたのではない》》。
――《《納得したのだ》》。
あの男がやったのなら、四方は完全に塞がれている。逃げ道は残されていない。周囲の辻には人が伏せられ、退路には別働隊が置かれている。準備は万全である。
――《《明智十兵衛が、抜かるはずがない》》。
二十七年、その仕事ぶりを見てきた人間の、これは《《技術的な評価》》だった。
――「船の内側を、見せぬ」
――「あの采配は、頭の中で数百の要素を組み上げている」
この人は、あの男の仕事を、誰よりも高く買っていた。
◆
弓の弦が、切れた。
乾いた音がして、上の弭が跳ねた。
兄は、それを庭へ投げ捨てた。そして、槍を取った。
縁側から、《《庭へ躍り出た》》。
「――《《殿!》》」
小姓たちが続く。
俺は、その場で動けなかった。
――《《俺は、槍が持てない》》。
五十の医者である。二十七年、一度も人を斬ったことがない。骨は数え切れぬほど継いだが、折ったことはない。
俺が今、庭へ出れば――《《一手で死ぬ》》。
そして、《《死んだ医者は、誰も治せない》》。
◆
――《《だから、俺は、医者のことをした》》。
「――《《おい!》》」
俺は、廊下にいた小姓たちに怒鳴った。
「――《《手負いを、こっちへ運べ!》》」
「なれど、殿が!」
「――《《運べ!》》」
俺は、廊下の突き当たりの部屋に飛び込み、屏風を蹴倒して、そこを空けた。
十畳ほどの控えの間である。北向きで、廊下から入る。
――《《北の塀に、一番近い部屋だった》》。
「――《《湯を沸かせ! 布を持て!》》」
――《《手が動いていた》》。
二十七年、俺の手はこれをやってきた。考えるより先に、動いた。
浮野でも、桶狭間でも、姉川でも、長篠でも、同じことをやった。
◆
そして、四半刻。
運び込まれた者は、《《十四人》》。
俺は、その全部を診た。
槍傷が七人。刀傷が四人。鉄砲傷が三人。
鉄砲傷の一人は、《《その場で息を引き取った》》。胸に入っていた。
俺は、残りの傷を押さえ、縛り、そして額に炭で刻を書いた。
――《《これも、二十七年やってきたことだ》》。
外では、まだ喊声が続いていた。
庭のほうから、時折、悲鳴が上がる。だんだん、こちらに近づいてきていた。
そして、《《煙の匂いがしはじめた》》。
◆
――そして、《《その中に、兄がいた》》。
◆
「――《《殿が!》》」
森蘭丸が、肩を貸して運び込んできた。
――《《右の肘から、血が出ていた》》。
湯帷子の袖が、肘から下まで真っ赤になっている。
「――《《座らせろ! そこだ!》》」
俺は、屏風の残骸を蹴りのけて場所を作った。
そして、その腕を掴んだ。
――《《見えない》》。
部屋は暗い。灯りは持ち込んだ手燭が一つきりで、それも誰かが動くたびに揺れた。
俺は、震える手で懐から靉靆を出し、鼻に乗せた。
――《《見えた》》。
◆
肘の外側。槍が、上から下へ抉るように入っている。
深い。骨まで達している。骨の白が、血の底に見えた。
だが。
――《《血が、噴いていない》》。
滲み出てはいる。だが、脈に合わせて跳ねるような出方ではない。
――《《太い血の管は、切れていない》》。
「――《《兄上。腕を上げてくだされ》》」
「――《《離せ》》」
「――《《上げてくだされ》》!」
俺は、その腕を持ち上げた。
指が動く。手首が返る。
――《《神経も、切れていない》》。
「――《《助かり申す》》」
俺は、そう言った。
「――《《この傷では、死に申さぬ!》》」
◆
――だが、兄は、俺を見なかった。
彼は、庭を見ていた。
火が、上がっていた。
誰かが寺に火をかけていた。味方か、敵かは分からない。だが、御殿の東の端が、《《すでに燃えていた》》。
乾いた夏である。屋根の檜皮が、面白いように燃えた。火は、渡り廊下を伝って、こちらへ来ていた。
そして、その火の向こうから、《《まだ敵が湧いてきていた》》。
「――《《蘭丸》》」
兄は、静かに言った。
「――《《奥へ行く》》」
◆
――《《俺は、その言葉の意味を、知っていた》》。
奥へ行く。
戸を閉める。
そして――
「――《《兄上》》!」
俺は、その腕を掴んだ。
◆
「――《《離せ、勘十郎》》」
「――《《離しませぬ》》」
「――《《離せ》》」
「――《《離しませぬ!》》」
俺は、叫んでいた。
「――《《この傷は、死ぬ傷ではござらぬ! それがしが治し申す!》》」
「――《《勘十郎》》」
兄は、初めて俺を見た。
煤で汚れた顔だった。額に血が一筋ついている。自分の血ではない。
そして、こう言った。
「――《《首を、取られる》》」
◆
俺の動きが、《《止まった》》。
「――《《ここで生きて捕らわれれば、俺の首は日向守の手に渡る》》」
彼は、静かに言った。
「――《《そして、京の辻に晒される》》」
「……」
「――《《それだけは、ならん》》」
◆
――《《ああ》》。
俺は、そこで理解した。
この人が恐れているのは、《《死》》ではない。
二十七年、この人は死を恐れたことがない。桶狭間で五騎で駆けていったときも、金ヶ崎で朽木越えをしたときも、天王寺で自ら槍を取ったときも。
この人が恐れているのは――
――《《首を、取られること》》だ。
首が晒されれば、織田は終わる。
家臣は散り、天下は割れ、そして――《《船は、作られない》》。
◆
俺は、《《その一点に、賭けた》》。
「――《《兄上》》」
俺は、その腕を掴んだまま言った。
「――《《首を取られねば、よろしいのですな》》」
兄が、俺を見た。
「――《《なに》》」
「――《《首さえ、取られねば》》」
俺は、必死に言った。
「――《《生きておっても、よろしいのですな》》」
◆
「――《《無理だ》》」
兄は、言った。
「四方は塞がれておる。日向守だ。……《《抜かりがあるはずがない》》」
「――《《ござる》》」
俺は、言い切った。
「――《《一つだけ、抜けがござる》》」
「――《《言え》》」
俺は、燃えはじめた屋根を指した。
火の粉が、風に乗って庭を横切っていく。
「――《《火にござる》》」
◆
「――《《兄上。それがしは、比叡山の焼け跡を歩き申した》》」
俺は、早口で言った。
「九年前にござる。翌朝、山へ上って、三十人を診申した」
「……」
「――《《焼けた人を、何十人と見申した》》」
俺は、続けた。
――《《あの日のことを、俺は忘れたことがない》》。
地面から湯気が上がり、焦げた柱がところどころに突き立っていた。そして、空気が甘かった。
「そして、知っており申す。……《《焼けきった人は、誰か分からぬ》》」
◆
「顔は残り申さぬ。歯も割れまする。……身体は縮んで、子供ほどになりまする」
俺は、言った。
「そして、《《骨は、白くなって崩れまする》》。指で触れれば、崩れ申す。……誰の骨かなど、《《神仏でも分かり申さぬ》》」
「……」
「――《《この火なら、そうなり申す》》」
俺は、燃える寺を指した。
もう、御殿の半分が炎に包まれていた。
「――《《日向守は、兄上の首を、《《見つけられませぬ》》》》」
◆
――《《長い一瞬だった》》。
火が、天井を舐めていた。梁の一本が、内側から赤くなりはじめている。
外では、まだ喊声が続いていた。
やがて、兄は、こう聞いた。
「――《《どこから出る》》」
◆
――《《俺は、答えを持っていた》》。
「――《《北の塀にござる》》」
俺は、言った。
「――《《三日前に、数え申した》》」
「……」
「表門、裏門、東の通用口、厩の脇。……この四つは、必ず押さえられておりまする」
俺は、続けた。
「五つ目は、南の水路にござる。ここも、たぶん見張っておりましょう」
俺は、北を指した。
「――《《六つ目は、北の塀の、崩れかけたところにござる》》」
「……」
「――《《出口とは、誰も思うており申さぬ》》」
◆
兄は、しばらく俺を見ていた。
そして。
――《《槍を、捨てた》》。
板の間に、鈍い音がした。
「――《《蘭丸》》」
「――《《はっ》》」
「――《《俺は、奥へ行った》》。よいな」
森蘭丸は、《《一瞬で理解した》》。
この少年は、この期に及んで、《《まったく取り乱していなかった》》。
髷が半分ほどけて、頬に血が流れている。それでも、姿勢が崩れていない。
「――《《承知いたしましてございます》》」
「――《《生きて逃げよとは、言わん》》」
兄は、そう言った。
「――《《言うても、貴様は聞かぬだろう》》」
蘭丸は、深く一礼した。
そして、こう言った。
「――《《殿。奥の間の戸は、それがしが押さえまする》》」
◆
――《《俺は、その少年の顔を、一生忘れない》》。
十八である。
彼は、俺を見て、こう言った。
「――《《勘十郎さま》》」
「……」
「――《《お頼み申し上げまする》》」
俺は、答えられなかった。
彼は、それ以上何も言わず、《《奥へ走っていった》》。
その背中を、俺は見ていた。
――《《この少年の父は、志賀で死んだ》》。
――《《兄は、この二年後、長久手で死ぬ》》。
――《《森の家は、三人だ》》。
だが、そのときの俺は、そこまで考えなかった。
◆
――そして、俺は、《《最後の選択》》をした。
◆
部屋には、《《十四人の手負い》》が転がっていた。
俺が運び込ませた者たちである。
止血をした者。まだしていない者。意識のない者。
――《《俺が、この四半刻で診た者たちだ》》。
全員の額に、俺が炭で刻を書いた。
そして、俺には。
――《《一人しか、運べない》》。
◆
「――《《勘十郎さま》》」
誰かが、俺を呼んだ。
あの、十六の小姓だった。
――《《千代丸》》。
腹を刺されて、壁にもたれていた。
俺は、その傷を見た。
――《《助からない》》。
腹の真ん中を、深く。腸が見えている。二十七年、俺はこの傷を何百と見てきた。
このまま置いても死ぬ。運んでも死ぬ。
「――《《出口を、数えておられましたな》》」
少年は、そう言った。
――《《笑っていた》》。
脂汗を浮かべ、唇が白くなっているのに、笑っていた。
「――《《北の塀にございましょう》》」
◆
俺は、その場に膝をついた。
燃える寺の光が、板の間に射し込んで、少年の顔を赤く照らしていた。
「――《《すまん》》」
俺は、そう言った。
嘘は、つかなかった。
「後で迎えに来る」とは、言わなかった。
――《《十二年前、金ヶ崎で、俺は四十七人にそう告げた》》。
「――《《お前を、置いていく》》」
◆
少年は、頷いた。
「――《《殿を、お願い申し上げまする》》」
俺は、その手を、《《一度だけ握った》》。
――そして、離した。
◆
俺は、兄の左腕を肩に担いだ。
「――《《行きまする》》」
「――《《勘十郎》》」
「――《《喋らないでくだされ》》」
俺は、そう言った。
――《《声が、震えていた》》。
◆
煙が、廊下に満ちていた。
俺は、水桶に手拭いを浸し、兄の顔に巻きつけた。自分にも巻いた。
「――《《腰を落として、低く! 煙は上に溜まりまする!》》」
俺たちは、這うようにして進んだ。
――《《暑い》》。
息が、熱い。喉の奥が、焼けるように痛んだ。
――《《これがいかん》》。
俺は、比叡山で知った。
熱い煙を吸うと、喉が焼ける。焼けた喉は、数刻後に腫れて、《《塞がる》》。
――《《急がねばならない》》。
廊下の板が、足の下で熱かった。
◆
北の塀は、《《崩れかけていた》》。
三日前に見たときのままである。
人の背丈ほどの高さに、石垣が崩れて土がむき出しになっている。
俺は、そこへ兄を押し上げた。
四十七の身体である。腕が震えた。膝が笑った。
――《《上がった》》。
そして、俺も這い上がった。爪の間に土が入り、掌が擦れて血が出た。
◆
塀の外は、《《細い路地》》だった。
両側が町屋の板塀で、人一人がやっと通れるほどしかない。
――《《誰もいなかった》》。
明智の兵は、四つの門と、南の水路を固めていた。
この崩れた塀は――《《誰も、出口だと思っていなかった》》。
◆
俺は、兄を担いだまま、路地を走った。
いや、走れてはいない。よろけながら、板塀に肩をぶつけながら、進んだ。
背後で、寺が燃えていた。
――《《赤い》》。
夜明け前の空が、赤かった。
俺は、一度だけ振り返った。
――そして、二度と振り返らなかった。
◆
半刻ほど進んで、俺は町屋の軒下に兄を下ろした。
もう、東が白んでいた。
――《《そして、そこで初めて、ちゃんと診た》》。
肘の傷。深いが、太い管は切れていない。土と煤が入っている。後で洗わねばならない。
脈。速い。だが、しっかりある。
顔色。――煤で黒い。だが、《《唇が紫ではない》》。
俺は、その口を開けさせた。
――《《煤が、ついていた》》。
舌の上にも、口蓋にも、黒い粒が散っている。
俺は、息を呑んだ。
「――《《兄上。咳をしてくだされ》》」
兄は、咳をした。
――《《黒い痰が、出た》》。
「――《《声を、出してくだされ》》」
「――《《……勘十郎》》」
――《《嗄れていた》》。
◆
――《《煙を、吸っている》》。
俺の背中に、氷が走った。
九年前、比叡山で、俺は同じ所見の若い僧を診た。
鼻毛が焦げ、煤を含む痰が出て、声が嗄れていた。
――《《あのとき、俺は喉を切った》》。
そして四刻後、その僧の喉は、外から見て分かるほど腫れた。
切っていなければ、死んでいた。
◆
「――《《兄上》》」
俺は、その顔を掴んだ。
「なんだ」
「――《《これから、喉が腫れまする》》」
「……」
「――《《数刻のうちに、息ができなくなり申す》》」
俺は、はっきりと言った。
「――《《そうなる前に、《《喉を切らねばなり申さぬ》》》》」
◆
――《《そして、俺の手元には》》。
俺は、懐を探った。
――《《靉靆》》。
――《《小刀が、一本》》。煮ていない。
――《《晒しが、一枚》》。
――《《それだけだった》》。
湯もない。焼酎もない。煮た糸も、竹の管も、何もない。
俺の背後には、燃える寺と、四千の明智勢がいる。
◆
「――《《勘十郎》》」
兄が、嗄れた声で言った。
「なんだ」
「――《《できるか》》」
俺は、その小刀を握りしめた。
――《《四十七の手》》である。
――《《近くが見えぬ眼》》である。
――《《煮ていない刃》》である。
――《《明かりは、燃える寺の火だけ》》である。
俺は、答えた。
「――《《やり申す》》」
◆
天正十年 六月二日 寅の刻 京・本能寺
明智日向守光秀、謀反。
――《《止められなかった。》》
兄上、右肘に槍創。深達性。ただし主要血管・神経の損傷なし。
――《《この傷では死なぬ。》》
兄上、自害を選ばんとす。理由――《《首を取られること》》。
――《《ゆえに、「首は残らぬ」と申し上げた。》》
――《《九年前、比叡山の焼け跡を歩いた者にしか言えぬことであった。》》
北の塀の崩れより脱出。
――《《三日前に、出口を六つ数えていた。》》
――《《医者の癖である。》》
部屋に、手負い十四人を残した。
――《《一人しか、運べなかった。》》
――《《「お前を、置いていく」と、自分の口で言った。》》
――《《金ヶ崎から、十二年である。》》
現在――兄上に、煤を含む喀痰、嗄声あり。
――《《気道熱傷。数刻で閉塞する。》》
手元にあるもの――小刀一、晒し一、靉靆一。
――《《湯なし。酒なし。管なし。》》
――《《これより、切る。》》
本能寺の変については、多くのことが分かっていません。
確実なのは、明智光秀が謀反を起こし、本能寺が焼け、そして——信長の遺体が、ついに発見されなかったことです。
光秀は徹底的に捜索させましたが、見つかりませんでした。このことが、数百年にわたる様々な説を生む土壌になっています。
本作は、そこに一つの解釈を置きました。
医学的な部分について補足します。
まず、焼死体の識別について。高温で長時間焼かれた遺体は、著しく損壊します。軟部組織は失われ、骨は脆くなって崩れ、体は熱によって収縮します。現代であれば歯の記録や骨のDNAで識別できますが、それらの手段がない時代においては、個人の特定は事実上不可能でした。
勘十郎がこれを知っているのは、第二十五話で比叡山の焼け跡を歩いたからです。
次に、気道熱傷です。第二十五話でも扱いましたが、熱い煙を吸い込むと、気道の粘膜が損傷し、時間をかけて腫れていきます。受傷直後は会話も歩行もできていた人が、数時間後に窒息します。
徴候は、鼻毛の焦げ、煤を含んだ痰、そして嗄れ声です。
そして最も重要なのが、腫れてしまってからでは気道確保の処置そのものが不可能になるということ。だから、症状が完成する前に切らなければなりません。
勘十郎の手元にあるのは、小刀と晒しと眼鏡だけです。
次話、続きます。
お読みいただきありがとうございました。




