第三十四話 見えぬと認めること
天正九年。
前話で出した処方は、月に一度の文でした。
必ず一行、「今月腹が立ったこと」を書くこと。
――届きはじめます。
天正九年、正月。
最初の文が、届いた。
差出人は、明智十兵衛光秀。
俺は、それを受け取ったとき、少し手が震えた。
――《《本当に、出してきた》》。
◆
開いてみて、俺は――《《笑ってしまった》》。
――《《歳旦の御祝、申し上げ候。》》
――《《丹波は今年、雪が少なく候。作柄は悪しからずと存じ候。》》
――《《寝る刻は、亥の刻を心がけており候。守れぬ日もあり候。》》
――《《食は、粥を減らし、麦を混ぜ候。》》
――《《歯のことは、心に留めており候。》》
――そして、最後の一行。
――《《今月、腹が立ちしこと。》》
――《《 ――《《雪の少なきこと。》》》》
◆
「――《《雪》》か」
俺は、その紙を眺めながら呟いた。
「勘十郎さま。……いかがなさいました」
与一郎が、覗き込んできた。
「読め」
弟子は、それを読んで、首を傾げた。
「これは……雪が少ないことに、腹を立てておられるので」
「――《《立てておらん》》」
俺は言った。
「作柄がよいと、その二行前に書いてある。……雪が少ないのは、《《いいこと》》だ」
「では、なにゆえ」
「――《《一行、埋めねばならんからだ》》」
◆
俺は、その文を火鉢にくべた。
約束である。読んで、燃やす。
「勘十郎さま。それでは、何の意味も」
「――《《意味は、ある》》」
俺は、燃える紙を見ながら言った。
「与一郎。今日、あの人は――《《『腹が立った』という言葉を、生涯で初めて紙に書いた》》のだ」
「……」
「中身が雪でもいい。次は霜かもしれん。その次は虫かもしれん」
俺は、火箸で灰を崩した。
「――《《それでも、書いておる》》」
◆
二月二十八日。
京、内裏の東。
――《《御馬揃え》》である。
兄が、天皇にお見せするために催した、大がかりな軍装の行進だった。
畿内じゅうから将が集められ、馬が飾られ、南蛮渡りの毛皮や唐織の陣羽織が並んだ。
――そして、その《《一切を差配した》》のが、明智光秀である。
◆
俺は、桟敷の隅からそれを見ていた。
――《《恐ろしいほど、うまく回っていた》》。
何百という馬と人が、寸分の狂いもなく動く。順番が乱れない。詰まらない。
誰かが指を差すたびに、その方角から次の隊が現れる。
俺は、その采配を見ながら、《《背中が冷えた》》。
――《《これは、頭の中で全部組み上げてある》》。
何百の要素を、時と場所で組み合わせ、破綻なく回す。
――《《俺が、手当所でやっていることの、百倍の規模》》だ。
◆
行事が終わった夜。
俺は、光秀に会った。
彼は、疲れきった顔で、それでも襟をまっすぐにして立っていた。
「――明智どの。見事にござった」
「――恐れ入りまする」
「兄上は、ご機嫌でござったな」
「……はい」
彼は、少しだけ微笑んだ。
「――《《お褒めにあずかりました》》」
◆
俺は、その場で脈を取った。
――硬い。相変わらず硬い。
顎に指を当てる。咬筋は、《《まだ太い》》。
「――寝ておられませぬな」
「この一月は」
「――当然にござろう」
俺は、手を離した。
「明智どの。文、拝見しており申す」
光秀の顔が、《《わずかに、赤くなった》》。
「……お恥ずかしい」
「――《《雪でござったな》》」
「……」
「それでよろしい」
俺は、言った。
「――《《続けてくだされ》》」
◆
その後、俺は兄の前に呼ばれた。
安土ではなく、京の宿所である。
信長は、四十七になっていた。
「――勘十郎。診ろ」
彼は、いつも通り、前置きなく言った。
俺は、脈を取った。
――《《硬い》》。
光秀ほどではない。だが、十年前より明らかに硬い。
俺は、瞼を見て、爪を見て、脛を押し、そして――《《歩かせた》》。
「――《《なにゆえ歩かせる》》」
「歩き方には、歳が出まする」
俺は言った。
「兄上。……方向を変えるとき、《《以前より、一歩多うござる》》」
◆
「――そうか」
兄は、意外にも、素直に頷いた。
「近頃、鷹狩りで、馬から下りるときに《《ためらう》》」
「……ためらう」
「若い頃は、考えずに飛び降りておった。今は、《《一瞬、考える》》」
俺は、その言葉に胸を突かれた。
――《《この人は、自分の衰えを、正確に把握している》》。
「兄上。それは、悪いことではござらぬ」
俺は言った。
「考えるようになったということは、《《身体が正しく報せておる》》ということにござる。……報せぬまま飛び降りて、膝を壊す者のほうが、よほど危うい」
「――ふん」
兄は、鼻を鳴らした。
「勘十郎。俺は、あと何年生きる」
◆
俺は、その問いに、しばらく答えられなかった。
――《《この人は、あと一年五か月で死ぬ》》。
俺は、それを知っている。
二十六年間、知っていた。
「――《《兄上のお身体であれば》》」
俺は、慎重に言葉を選んだ。
「――《《七十までは、保ちまする》》」
「――《《二十三年か》》」
兄は、少し笑った。
「長いな」
「――《《短うござる》》」
俺は、そう言った。
「兄上。それがしは、あの日申し上げました。人間五十年では足りぬ、六十でも足りぬ、七十まで生きていただくと」
「――覚えておる」
「――《《今も、変わり申さぬ》》」
◆
三月。
俺は、《《自分の身体に、裏切られた》》。
◆
安土の手当所で、若い足軽の腕を縫っていたときである。
深い切創だった。血の管は括った。あとは、皮を縫うだけだった。
俺は、針に糸を通そうとした。
――《《通らない》》。
もう一度。
――《《通らない》》。
俺は、手を止めた。
――《《糸の先が、見えない》》。
◆
俺は、糸を遠ざけてみた。
――《《見えた》》。
近づける。
――《《ぼやける》》。
俺は、その場で、しばらく動けなかった。
――《《老眼だ》》。
当たり前である。
この身体は、四十九になった。
目の中の水晶体は、歳とともに硬くなる。硬くなれば、近くのものに焦点を合わせられなくなる。
――《《誰にでも起こる》》。
例外は、ない。
◆
「――《《与一郎》》」
俺は、そう呼んだ。
「はい」
「――《《替われ》》」
弟子が、動きを止めた。
「……勘十郎さま」
「――《《縫え》》」
俺は、針と糸を差し出した。
「――《《俺は、見ておる》》」
◆
与一郎は、三十六になっていた。
二十年、俺の傍にいた男である。
彼は、無言で針を受け取った。
そして、糸を通し――《《縫った》》。
俺は、その手元を見ていた。
――《《うまい》》。
運針が細かい。糸の締め方が均等だ。結び目が全部、同じ側に倒れている。
――《《俺より、うまい》》。
いつからだろうか。
たぶん、五年前には、もう追い抜かれていた。
俺が気づいていなかっただけだ。
◆
処置が終わった後、与一郎が言った。
「――勘十郎さま」
「なんだ」
「……お眼が」
「――《《見えん》》」
俺は、あっさり言った。
「近くが、見えん。……糸も、傷の際も、書の細かい字も」
「……」
「四十を過ぎた頃から、少しずつ来ておった。……気づいておったが、《《認めておらなんだ》》」
俺は、掌を見た。
――手は、まだ震えていない。
だが、《《目が先に来た》》。
◆
「勘十郎さま。……なれど、それは」
与一郎の声が、震えていた。
「――《《勘十郎さまは、まだ》》」
「与一郎」
俺は、遮った。
「――《《去年、俺は兄上にこう申し上げた》》」
俺は、言った。
「『人は必ず働けなくなる。歳を取るとは、予備の力が減ってゆくことだ。これは誰にでも起きる』と」
「……はい」
「――《《俺にも、起きた》》」
◆
俺は、笑った。
「与一郎。これはな、《《俺の説が正しかった》》ということだ」
「勘十郎さま」
「――《《医者としては、喜ぶべきところだ》》」
俺は、そう言った。
――強がりだった。
与一郎は、それを分かっていて、何も言わなかった。
◆
四月。
俺は、京の南蛮寺を訪ねた。
十二年ぶりである。
フロイスは、九州へ行っていた。
だが――《《ロレンソが、いた》》。
五十半ばになっていた。相変わらず片眼が白い。
「――《《勘十郎さま》》」
彼は、俺の顔を見るなり、微笑んだ。
「お久しゅうございます。……そして、《《眼をお悪くなされましたな》》」
俺は、驚いた。
「――なぜ、分かる」
「入ってこられるとき、《《敷居の手前で足を止められました》》」
ロレンソは、静かに言った。
「――それがしは、片眼が見えませぬゆえ。……《《見えぬ者の歩き方が、分かりまする》》」
◆
「ロレンソどの。……頼みがござる」
「はい」
「南蛮には、《《眼を助ける硝子》》があると聞き申した」
「――《《靉靆》》にございますな」
彼は、頷いた。
「三十年ほど前、ザビエル師が周防の大内どのに献上されたと聞いております。……近頃は、堺にも入っておりまする」
「――《《手に入るか》》」
「――《《手配いたしましょう》》」
◆
それは、二月かかって届いた。
水晶を磨いた、丸い二枚の玉。
真鍮の枠に嵌められ、鼻に乗せる形になっている。
俺は、それを恐る恐る顔に乗せて――
――《《手元の書に、目を落とした》》。
◆
――《《見えた》》。
文字が、《《くっきりと、見えた》》。
俺は、そのまま動けなくなった。
二十六年間、俺はこの時代で、あらゆるものを《《持たずに》》やってきた。
麻酔も、抗生剤も、輸血も、顕微鏡も。
欲しいと思っても、手に入らないものばかりだった。
――そして今、《《手に入った》》。
たった二枚の、磨いた水晶で。
「――《《勘十郎さま》》」
与一郎が、恐る恐る言った。
「……お泣きになっておられます」
「――《《違う》》」
俺は、袖で顔を擦った。
「――《《眼が、しみるのだ》》」
◆
俺は、その日から、《《靉靆》》を懐に入れて歩くようになった。
細かい処置のとき、書き物のとき、書を読むとき。
――《《これで、あと十年は縫える》》。
俺は、そう思った。
そして同時に、こうも思った。
――《《これは、俺一人のものではいけない》》。
◆
俺は、ロレンソに文を書いた。
――《《同じものを、五つ、手配していただきたい》》。
――《《歳を取った医者と、書き役に配りたい》》。
――《《それと、『手当書』に一項を加える》》。
――《《一、四十を過ぎて、近くが見えにくくなるは、病にあらず。》》
――《《 誰にでも起こる。恥ずべきことにあらず。》》
――《《 ――南蛮渡りの《《靉靆》》を用うべし。》》
――《《 見えぬまま縫えば、患者が死ぬ。》》
――《《 《《見えぬと認めることが、腕を保つ唯一の道なり。》》》》
◆
文は、月に一度、届き続けた。
――《《二月》》。
――《《今月、腹が立ちしこと。》》
――《《 ――《《御馬揃えの前夜、馬が一頭、腹を下し候。》》》》
――《《三月》》。
――《《 ――《《使者が三日遅れ候。道を間違えたる由。》》》》
――《《四月》》。
――《《 ――《《近習の一人が、それがしの碁の相手をする際、わざと負け候。》》》》
◆
俺は、四月の文を読んで、火にくべる手を止めた。
――《《変わった》》。
馬でも、使者でもない。
――《《人》》だ。
しかも、《《自分に気を遣う人間に、腹を立てている》》。
俺は、その一行を、何度も読み返した。
――《《わざと負ける》》。
この人の周りには、たぶん、そういう人間しかいない。
主君の弟である俺にすら、この人は完璧な礼で応じる。
――《《碁で本気を出してくれる人間が、一人もいない》》のだ。
◆
俺は、返事を書いた。
約束通り、《《養生のことしか書かなかった》》。
――《《文、拝受いたし候。》》
――《《寝る刻、亥の刻を守られよ。守れぬ日が三日続かば、四日目は必ず寝られよ。》》
――《《碁は、よろしゅうござる。頭を使うて、身体を使わぬ遊びは、寝つきに良し。》》
――《《ただし、勝ちすぎるは毒にござる。》》
――《《 ――《《それがしが、そのうち相手をいたす。》》》》
――《《 ――《《本気で打ち申す。手加減いたさぬ。》》》》
◆
――《《六月》》。
――《《 ――《《今月、腹が立ちしこと、これなく候。》》》》
俺は、その一行を見て、《《眉をひそめた》》。
――《《ない、と書いてきた》》。
これが、いいことなのか、悪いことなのか。
俺には、判じかねた。
◆
――《《九月》》。
伊賀が、焼かれた。
二度目である。四万を超える兵で伊賀へ入り、そして――《《山ごと》》。
俺は、その報せを、また数字として受け取った。
行かなかった。
――《《行けなかった》》。
俺は、いつの間にか、行かなくなっていた。
比叡山のときは、翌朝に山へ上った。
長島のときは、行かせてもらえなかった。
伊賀は――《《自分から、行かなかった》》。
俺は、その夜、そのことについて長いこと考えた。
◆
十月には、因幡の鳥取城が落ちた。
――《《渇え殺し》》である。
三木と同じやり方で、羽柴筑前守が城を干した。
城の中で人が人を食ったという話が、伝わってきた。
俺は、釜と粥の唄を、また送った。
――《《それだけしか、できなかった》》。
◆
――《《十一月》》。
明智光秀からの文が、届いた。
いつも通りの、丁寧な字。
いつも通りの、天気と作柄と養生の報告。
そして、最後の一行。
俺は、それを読んで――
《《紙を、取り落とした》》。
◆
――《《今月、腹が立ちしこと。》》
――《《 ――《《伊賀にて、僧俗を問わず殺せとの御下知あり。》》》》
――《《 ――《《それがし、これを《《正しき戦とは思われず候》》。》》》》
◆
俺は、その紙を持ったまま、動けなくなった。
――《《来た》》。
十一か月かけて、雪から、馬から、使者から、碁の相手から――
――《《ここまで、来た》》。
俺の処方は、《《効いた》》。
この人は、書けるようになった。
言えなかったことを、紙の上に出せるようになった。
――《《医者として、これは成功である》》。
◆
だが。
俺は、その紙を持ったまま、《《火鉢の前で固まっていた》》。
――《《これは、何だ》》。
主君の下知を「正しくない」と書いた文書である。
もしこれが人目に触れれば。
もし誰かが、これを兄に届けたら。
――《《この人は、その日のうちに終わる》》。
佐久間信盛は、《《働かなかった》》というだけで、三十年を消された。
これは、それどころではない。
◆
そして、もう一つ。
俺は、《《それを燃やそうとしていた》》。
――《《約束だからだ》》。
読んで、燃やす。そう言った。そう約束した。
だが。
俺は、《《織田信長の弟》》である。
家中の重臣が、主君の命に対して「正しくない」と書いた。
――《《これは、報せねばならぬ類のもの、ではないのか》》。
◆
俺は、火鉢の前に座り込んだ。
――《《これを燃やせば》》。
俺は、兄に隠し事をすることになる。
二十六年、俺は兄に嘘をついたことがない。
言えぬことは「言えぬ」と言った。兄は、それを許した。
――《《言えぬまま持っておれ》》と、あの人は言った。
だが、これは違う。
これは、《《言えぬこと》》ではない。
――《《言わねばならぬこと》》かもしれない。
◆
俺は、長いこと、その紙を見ていた。
――《《医者として》》。
俺は、患者の言葉を守らねばならない。
患者が医者に話したことは、医者の中で死ぬ。それが破られたら、誰も医者に本当のことを言わなくなる。
俺は、二十六年、それを守ってきた。
柴田権六の飲水病を、俺は誰にも言わなかった。
竹中半兵衛が主命に背いて子を匿ったことを、俺は兄に告げなかった。
――《《今度も、同じではないのか》》。
◆
――《《いや》》。
俺は、首を振った。
――《《違う》》。
あれは、《《人を生かすための秘密》》だった。
これは。
これは、《《人を殺す種》》かもしれない。
◆
俺は、目を閉じた。
そして、思い出した。
――《《作ってさしあげてくださいませ》》。
――《《あの方は、ご自分では作れませぬ。ゆえに、外から誰かが作るしかございませぬ》》。
半兵衛は、死ぬ前にそう言った。
――俺は、作った。
十一か月かけて、ようやく作った。
そして今、その《《最初の一滴》》が、俺の手の中にある。
――《《ここで、この道を塞いだら》》。
俺は、目を開けた。
――《《膿は、どこへ行く》》。
◆
俺は、その紙を、火にくべた。
紙は、あっけなく燃えた。
伊賀の字が、下知の字が、「正しき戦とは思われず候」の字が、順に黒くなって、崩れた。
俺は、それを最後まで見ていた。
◆
灰になった後。
俺は、しばらく、その灰を見つめていた。
――《《俺は今、何をした》》。
医者として、正しいことをした。
弟として――
――《《分からない》》。
「――勘十郎さま」
与一郎が、襖の向こうから声をかけた。
「明智さまの文にございましたか」
「――《《ああ》》」
「今月は、何と」
俺は、しばらく黙った。
そして、こう答えた。
「――《《碁の相手が、わざと負けるそうだ》》」
◆
――《《嘘を、ついた》》。
二十六年で、初めてだった。
◆
天正九年
二月、京都御馬揃え。明智十兵衛、これを差配。――《《見事であった。》》
※あの采配は、頭の中で数百の要素を組み上げている。
症例・織田上総介信長、四十七歳。
脈やや硬し。方向転換に一歩多し。馬より下りるを一瞬ためらう由。
――《《本人が、正確に把握している。》》悪いことではない。
症例・織田勘十郎(俺)、四十九歳。
――《《近見障害。針に糸が通らず。》》
処置――与一郎に交代。
※あの男の運針は、俺より上手い。たぶん五年前から。
南蛮渡りの《《靉靆》》を入手。――《《見えた。》》
『手当書』に加筆。《《見えぬと認めることが、腕を保つ唯一の道である。》》
症例・明智十兵衛光秀。
文、十一通。
正月=雪。二月=馬。三月=使者。四月=《《碁でわざと負ける近習》》。
六月=「これなく候」。
――そして十一月。
――《《下知そのものについて、書いてきた。》》
――《《処方は、効いている。》》
――《《そして俺は今日、二十六年で初めて、兄上に嘘をついた。》》
残り、七か月。
今回は、勘十郎自身の老化を書きました。
四十歳前後から、近くのものにピントを合わせにくくなります。老視です。目の中でレンズの役割をする水晶体が硬くなり、厚みを変えて焦点を調節する力が落ちるためで、病気ではなく、全員に起こる変化です。
外科医にとっては、これが手技の限界を決めることがあります。糸が見えなければ縫えません。
作中で勘十郎が手に入れた眼鏡は、当時「靉靆」と呼ばれていました。日本への伝来には諸説ありますが、フランシスコ・ザビエルが周防の大内義隆に献上したという記録が知られています。天正九年であれば、堺を通じて入手することは十分に考えられます。
そして『手当書』に加えられた一行——「見えぬと認めることが、腕を保つ唯一の道なり」。
自分の能力の低下を認めることは、どんな職種でも難しいものです。ですが医療においては、認めない人が最も危険です。
もう一つ、今回は文の変化を追いました。
最初の「腹が立ったこと」は、雪でした。次が馬、その次が使者。四月に初めて人が出てきます。しかもそれは、自分に気を遣ってわざと碁で負ける近習に対する苛立ちでした。
抑え込むことに慣れた人が、感情を言葉にできるようになるまでには、時間がかかります。最初は当たり障りのない対象から始まり、少しずつ核心に近づいていく——書くという行為の効果は、そういう形で現れます。
次話、天正十年が始まります。
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