第三十三話 歯は正直
第七章「光秀、初診」
第二十三話で、勘十郎はこのカルテを書きました。
「主訴、なし。所見、なし。ただし、この男は溜める」
十年です。
今日、埋めに行きます。
天正八年、九月。
坂本。
俺は、十年間書きあぐねてきたカルテを、埋めに来た。
◆
城に着くと、すべてが《《整っていた》》。
門で出迎えがあり、案内があり、通された部屋には湯が沸かしてあり、脈を取るための脇息まで用意されていた。
部屋の隅には、《《次の予定を告げる小姓》》が控えている。
――《《見事だ》》と、俺は思った。
この男は、診察を《《行事》》にしてしまった。
入って、脈を取って、腹を触って、二言三言交わして、そして「異常なし」と告げて終わる。
半刻もかからない。
そういう形に、《《あらかじめ整えてある》》。
◆
「――勘十郎さま。遠路、まことに」
明智十兵衛光秀は、いつも通り丁寧に一礼した。
五十半ば。姿勢がいい。襟がまっすぐに合わさっている。
「――明智どの」
俺は、脇息を横に押しやった。
「はい」
「――《《それがしは、三日おる》》」
◆
光秀の動きが、《《一瞬、止まった》》。
「……三日、でございますか」
「そうにござる」
「なれど、それがしは丹波の仕置きが」
「――《《やっていただいて構い申さぬ》》」
俺は、腰を下ろした。
「政務も、書状も、来客も、いつも通りになさればよろしい。……それがしは、《《傍で見ておるだけ》》にござる」
「――見て、おられる」
「はい」
俺は、笑った。
「――《《医者の性分でしてな》》」
◆
この男は、《《言葉では絶対に負けない》》。
十年、俺はそれを見てきた。何を聞いても、完璧に整った答えが返る。
だから、俺は言葉を諦めた。
――《《身体を、見る》》。
身体は、嘘をつかない。
◆
一日目。
俺は、光秀の一日を追いかけた。
朝、明け六つより前に起きていた。俺が起きたときには、もう書状を読んでいた。
朝餉は、粥と汁と漬物。――《《ほとんど、噛まずに飲み込んでいた》》。
午前は、丹波の代官との評定。
午後は、京からの使者。それから、寺への寄進の書状。
夕方、家臣の相談を三件。
――《《座っている時間の、九割が人と会っていた》》。
一人になったのは、厠に立った短い時間だけだった。
◆
そして、夜。
俺は、光秀の寝所の隣の部屋に、寝床を用意させた。
「――勘十郎さま。それは、いささか」
「――《《医者にござる》》」
俺は、そう言って押し通した。
二晩、俺はそこで寝た。
――《《いや、寝なかった》》。
◆
三日目の朝。
俺は、光秀の前に座って、こう言った。
「――《《診察を始めまする》》」
「はい」
「まず、伺いたいことがござる」
俺は、指を一本立てた。
「――《《これは、お気持ちを伺うのではござらぬ》》」
光秀の眉が、わずかに動いた。
「《《事実だけを、伺いまする》》。はい、いいえで答えられるものばかりにござる」
俺は、そう前置きした。
――《《これが、俺の作戦だった》》。
「何かお悩みは」と聞けば、この男は「ございませぬ」と答える。
だが、「昨夜、何度目が覚めましたか」なら――《《答えは、一つしかない》》。
◆
「――《《昨夜、何刻に床に入られましたか》》」
「……子の刻を回っておりましたか」
「――《《何刻に起きられましたか》》」
「寅の刻には」
俺は、書き取った。
――《《二刻半》》。五時間に満たない。
「――《《夜中に、何度目が覚めますか》》」
光秀は、少し考えた。
「……そうですな。二度か、三度」
「――《《毎晩か》》」
「……はい」
「――《《目が覚めたとき、何をしておられる》》」
彼は、答えなかった。
「――明智どの」
「……《《考えております》》」
◆
「――《《朝、起きたとき、顎が痛みませぬか》》」
光秀の顔が、《《初めて、はっきりと動いた》》。
「……なにゆえ、それを」
「――痛みますな」
「……朝方、こめかみのあたりが重いことは、ございます」
「――《《歯は》》」
「歯、でございますか」
「――《《噛むと、痛む歯はござらぬか》》」
彼は、しばらく黙った。
そして、こう言った。
「……右の奥が、時折」
◆
「――《《口を、開けていただきたい》》」
「は」
「――《《大きく》》」
光秀は、怪訝な顔をしながら、口を開けた。
俺は、その中を覗き込んだ。
――《《そして、息を呑んだ》》。
◆
奥歯が、《《平らだった》》。
人の奥歯には、山と谷がある。噛み合わせのための凹凸だ。
それが――《《磨り減って、平面になっていた》》。
しかも、上下ともにである。
前歯の先も、鑿で削いだように、まっすぐに揃っていた。
俺は、次に、その顎の付け根に指を当てた。
――《《咬筋》》。
物を噛むための筋である。
「――噛んでみてくだされ。強く」
光秀が歯を食いしばると、俺の指の下で、筋が《《ぐっと隆起した》》。
――《《太い》》。
異様に太い。
俺は、指を離した。
「――明智どの」
「はい」
「――《《夜、歯を食いしばっておられる》》」
◆
「……そのようなことは」
「――《《二晩、隣で聞いており申した》》」
光秀の顔が、《《止まった》》。
「――《《ぎり、ぎり》》と」
俺は、静かに言った。
「一晩に、何度も。……最も長いときは、《《四半刻ほど続き申した》》」
「……」
「そして、そのあいだ、貴殿は《《眠っておられる》》。ゆえに、ご自分では気づかれぬ」
俺は、その平らな奥歯を思い浮かべながら言った。
「――《《歯は、正直にござる》》」
◆
「これが、一年二年でこうなるものではござらぬ」
俺は、続けた。
「歯というものは、石より硬い。……それが、ここまで擦り減るには、《《十年はかかり申す》》」
「……」
「明智どの。貴殿は、《《十年、夜ごとに歯を食いしばっておられる》》」
◆
光秀は、何も言わなかった。
俺は、そのまま診察を続けた。
――肩。
両手で首筋から肩へかけて揉むと、《《岩のようだった》》。
筋の一本一本が縄のように硬く、指を沈めようとすると、光秀が息を詰めた。
「――痛みますな」
「……いえ」
「――《《嘘は、やめられよ》》」
俺は、はっきりと言った。
「――《《今、息を止められた》》」
◆
――脈。
俺は、その手首に指を当てた。
速さは、正常だった。
だが。
――《《硬い》》。
指の下で、血の管が縄のように張っている。押しても、簡単には潰れない。
俺は、しばらくその脈を診ていた。
――《《血の道に、強い力がかかっておる》》。
これがどれほどのものかを測る手立てを、俺は持たない。
だが、《《指は、知っている》》。
◆
――腹。
俺は、みぞおちを押した。
「――《《ここは》》」
「……」
「――《《痛みますな》》」
「……朝方に、時折」
「空腹のときと、満腹のとき、どちらが痛みまするか」
「――《《空いておるときに》》」
俺は、頷いた。
「食えば、少し楽になり申すか」
「……はい」
――《《胃の腑の、内側が荒れておる》》。
これも、慢性のものだ。
◆
俺は、そこで手を止めた。
そして、書き取ったものを読み上げた。
「――一つ。睡眠、二刻半。夜間の覚醒、二度か三度。毎晩」
「――二つ。夜間の食いしばり。歯の摩耗、十年分」
「――三つ。起床時の顎とこめかみの痛み」
「――四つ。頸と肩の、著しい筋の硬直」
「――五つ。脈が硬い。血の道に強い力がかかっておる」
「――六つ。空腹時のみぞおちの痛み。食えば軽快」
俺は、顔を上げた。
「――明智どの」
「はい」
「――《《これを、どう思われる》》」
◆
光秀は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「――《《どれも、大したことではございませぬ》》」
俺は、待った。
「眠りが短いのは、務めが多いゆえにございます。肩が凝るのは、書状を読みすぎるゆえ。腹が痛むのは、飯の刻限が乱れるゆえ。……歯のことは、存じませんでしたが」
彼は、丁寧に言った。
「――《《いずれも、忙しい者なら誰にでもあることにございましょう》》」
◆
「――《《その通りにござる》》」
俺は、頷いた。
光秀が、少し意外そうな顔をした。
「一つずつなら、《《どれも大したことではござらぬ》》。それがしも、そう申し上げる」
俺は、言った。
「――《《なれど》》」
俺は、書き取った紙を、光秀の前に置いた。
「――《《全部、揃っておりまする》》」
◆
「明智どの。それがしは、二十五年、人の身体を診て参った」
俺は、その紙を指した。
「この六つが《《全部揃う》》者を、それがしは何人も見申した。……そして、そういう者には、《《共通するものが一つ》》ござる」
「……」
「――《《食いしばっておる》》」
俺は、言った。
「歯だけではござらぬ。《《一日じゅう、身体のどこかを食いしばっておられる》》。肩を。腹を。顎を。……そして、それを《《ご自分では、まったく気づいておられぬ》》」
「……」
「――《《なぜ、気づかぬか》》」
俺は、続けた。
「――《《それが、その方にとって『いつも』だからにござる》》」
◆
光秀は、動かなかった。
俺は、続けた。
「明智どの。人の身体には、いざというときの構えがござる」
俺は、拳を握ってみせた。
「敵に会うたとき。崖から落ちかけたとき。……身体が一瞬で固まり、脈が上がり、腹の働きが止まる。逃げるか、戦うかのための構えにござる」
「……はい」
「これは、《《短い間なら、素晴らしい仕組み》》にござる」
俺は、拳を開いた。
「――なれど、これが《《十年続いたら、どうなるか》》」
◆
「歯は擦り減りまする。筋は固まりまする。血の道は硬くなり、胃の腑は荒れまする。眠れなくなり、眠っても浅くなる」
俺は、指を折った。
「――そして」
俺は、光秀の眼を見た。
「――《《いつか、どこかが、壊れまする》》」
◆
長い、長い沈黙があった。
やがて、光秀は言った。
「――勘十郎さま」
「はい」
「――《《それがしに、どうしろと仰せです》》」
その声は、初めて、《《平坦ではなかった》》。
「休めと。務めを減らせと。……そう仰せになりますか」
彼は、静かに言った。
「――《《それは、できませぬ》》」
◆
「明智どの。それがしは、そうは申しませぬ」
俺は、言った。
「休めと言うても、貴殿は休めませぬ。……《《休める立場に、おられぬ》》」
光秀が、顔を上げた。
「四年前、貴殿は仰せになった。『それがしは余所者にございます。隙を見せるわけには参りませぬ』と」
「……」
「――《《それは、今も変わっておりますまい》》」
俺は、続けた。
「いや。……《《先月、悪うなった》》」
◆
光秀の指が、《《膝の上で、わずかに動いた》》。
――《《見えた》》。
十年で初めてだった。
「佐久間右衛門尉どの。三十年仕えて、一枚の紙で。……林佐渡守どの。二十四年前の企てを持ち出されて」
俺は、その顔を見ていた。
「あれを見て、貴殿が思われたことは、《《一つしかござらぬ》》」
「……」
「――《《次は、自分か》》と」
◆
「――《《そのようなことは》》」
「明智どの」
俺は、遮った。
「――《《それがしも、そう思い申した》》」
◆
光秀が、俺を見た。
初めて、《《まっすぐに》》。
「……勘十郎さまが」
「はい」
「――なれど、あなたさまは殿の御弟君に」
「――《《弟でござる。だからこそ》》」
俺は言った。
「兄上に、聞き申した。『それがしも捨てられまするか』と。……そう聞くほどには、思うており申した」
「……」
「――《《恐ろしゅうござった》》」
◆
俺は、そこで一度、息を吸った。
――《《ここからだ》》。
十年間、俺が踏み出せなかった一歩である。
半兵衛は、死ぬ前にこう言った。
――《《作ってさしあげてくださいませ。あの方は、ご自分では作れませぬ。ゆえに、外から誰かが作るしかございませぬ》》。
俺は、あの言葉の意味を、今日まで考え続けてきた。
――そして、《《やっと分かった》》。
《《先に、こちらが差し出すしかない》》。
◆
「――明智どの」
「はい」
「――《《それがしは、九年前、比叡山を焼く理屈を、兄に渡し申した》》」
◆
部屋の空気が、《《変わった》》。
光秀が、《《微動だにしなくなった》》。
「その前の年に、それがしは林佐渡守どのの腹を切り申した。腹の中に膿が溜まる病でしてな」
俺は、淡々と続けた。
「兄に、その手当てを説明いたしました。……膿は、周りをいくら叩いても治らぬ。芯を狭く深く切り、出し切るまで中を崩し、そして塞がずに開けておくのだと」
「……」
「――《《そして兄は、こう聞かれた》》」
俺は、拳を握った。
「『膿を出した後、その袋はどうする』と」
「……」
「――《《それがしは、答えられませなんだ》》」
◆
「答えは、《《切り取る》》にござる。腸ごと、その一節を。……それをせねば、また溜まる」
俺は、言った。
「それが、医者の答えにござる。……そして、《《それがしの沈黙が、答えになった》》」
俺は、光秀を見た。
「――《《九月十二日に、山が焼けたとき》》」
「……」
「――《《それがしは、坂本の陣から、それを見ており申した》》」
◆
光秀は、動かなかった。
俺は、続けた。
「翌朝、山へ上り申した。焼け残った者を診るためにござる」
「……」
「三十人おりました。二十二人を連れ帰り、八人はその場で死に申した。……そのうち一人は、《《最後まで痛いと言わなんだ》》」
俺は、掌を見た。
「――《《一番深く焼けた者は、痛みを訴えぬのです》》」
◆
俺は、顔を上げた。
「明智どの」
「……」
「――《《貴殿は、あの山を焼いた》》」
「……はい」
「――《《それがしは、焼く理屈を渡した》》」
俺は、言った。
「そして――《《それがしは今日まで、それを誰にも言うておりませぬ》》」
◆
長い沈黙があった。
どれほどだったか分からない。
やがて。
光秀が、《《口を開いた》》。
「――勘十郎さま」
「はい」
彼の声は、掠れていた。
「――《《それがしは、あの山が、毎日見えまする》》」
◆
俺は、息を止めた。
「この城の、どの部屋からも見えまする。書院からも、寝所からも、庭からも」
彼は、そう言った。
「――《《九年、毎日でございます》》」
「……」
「殿は、あの山を焼いた功として、それがしにこの地をくださいました」
光秀は、少し笑った。
――《《笑ったのだ》》。
「――《《ありがたいことにございます》》」
◆
俺は、その笑い方を見て、《《背筋が凍った》》。
――《《これだ》》。
この人は、今、《《最も苦しいことを、笑って言った》》。
九年間、毎日焼いた山を見ながら、その山を焼いた褒美として与えられた城で暮らし、そしてそれを「ありがたいこと」と呼んでいる。
――《《食いしばるはずだ》》。
◆
「――明智どの」
俺は、言った。
「――《《今、笑われましたな》》」
光秀の顔が、《《止まった》》。
「――《《笑うところでは、ござらぬ》》」
俺は、はっきりと言った。
「今のは、《《怒るところ》》にござる。あるいは、《《泣くところ》》にござる。……なれど貴殿は、笑われた」
「……」
「――《《それを、十年やっておられる》》」
俺は、その平らな奥歯を思い出しながら言った。
「――《《だから、歯が擦り減るのです》》」
◆
明智光秀は、そこで、《《うつむいた》》。
肩が、震えていた。
声は、出さなかった。
十年前、金ヶ崎の木立の陰で、この人は震える右手を左手で握りつぶした。
今、この人は、それをしなかった。
――《《ただ、震えていた》》。
俺は、何も言わなかった。
言葉をかけたら、この人はまた笑うだろう。
だから、俺は黙って、《《その場にいた》》。
◆
どれほど経っただろうか。
光秀は、顔を上げた。
目は、赤くなかった。涙は流れていなかった。
――だが、《《さっきまでの顔ではなかった》》。
「――勘十郎さま」
「はい」
「――《《それがしは、どうすればよろしいのでしょうか》》」
◆
――《《来た》》。
十年待った、たった一言だった。
俺は、慎重に答えた。
「――《《書いてくだされ》》」
「書く、でございますか」
「はい」
俺は、懐から紙束を出して、その前に置いた。
「――《《誰にも見せぬ紙に、書いてくだされ》》」
◆
「明智どの。貴殿は、口では言えませぬ。……それは、それがしにも分かり申した」
俺は、言った。
「言えば、それは言葉になる。言葉になれば、誰かに聞かれる。聞かれれば、《《使われる》》。……貴殿は、それを恐れておられる」
「……」
「――《《ならば、書けばよろしい》》」
俺は、紙を指した。
「夜、目が覚めたとき。考えておるうちに眠れなくなったとき。……その考えを、そのまま書いてくだされ」
「……なれど、書いたものが人目に触れれば」
「――《《燃やせばよろしい》》」
◆
「書いて、読み返して、そして燃やす」
俺は、言った。
「――それでも、《《効きまする》》」
「……なにゆえ」
「――《《外へ出るゆえにござる》》」
俺は、自分の胸を叩いた。
「頭の中で回っておるものは、《《回り続けまする》》。同じところを、何百回も。……それを紙に移せば、《《紙の上で止まりまする》》」
俺は、続けた。
「三方ヶ原で負けた徳川三河守どのは、《《ご自分の情けない顔を絵師に描かせて》》おられた。……あれと同じにござる」
「――《《絵に》》」
「そうにござる。あの方は、それを今も持っておられると聞き申す」
俺は、少し笑った。
「――《《出しておられるのです》》」
◆
「それと、もう一つ」
俺は、指を立てた。
「――《《月に一度、それがしに文をくだされ》》」
「……文」
「はい。中身は何でもよろしい。天気でも、丹波の作柄でも、何を食うたでも構い申さぬ」
俺は、言った。
「――《《ただし、必ず一行、書いていただきたい》》」
「なんと」
「――《《今月、腹が立ったこと》》」
◆
光秀が、《《目を見開いた》》。
「――勘十郎さま。それは」
「一行でよろしい。誰に、何を、と書かずともよろしい。『腹が立った』とだけでも構い申さぬ」
俺は、頭を下げた。
「――《《それがしは、それを読んで、燃やしまする》》」
「……」
「返事は、《《養生の話しか書き申さぬ》》。よく寝ろ、よく食え、と。……それだけにござる」
俺は、顔を上げた。
「――《《それが、それがしにできる手当てにござる》》」
◆
明智光秀は、長いこと、その紙束を見ていた。
そして、それを両手で取り上げた。
「――《《承知いたしました》》」
彼は、そう言った。
――今度は、《《ありがたきこと》》ではなかった。
俺は、少しだけ、息を吐いた。
◆
坂本を発つ朝。
光秀は、門まで送りに出た。
「――勘十郎さま」
「はい」
「――《《一つ、伺ってもよろしいか》》」
「なんなりと」
彼は、しばらくためらってから、こう聞いた。
「――《《なにゆえ、それがしのような者に、そこまでなさるのです》》」
◆
俺は、その問いを、二十五年間、何度も聞かれてきた。
だが今日は、《《いつもの答え》》を使わなかった。
「――《《明智どの》》」
「はい」
「――《《兄上を、生かしていただきたい》》」
◆
光秀の顔が、《《完全に、止まった》》。
「……それは」
「兄上は、いずれどこかで倒れられまする。人にござるゆえ」
俺は、言った。
「そのとき、家中に《《壊れた者》》がおれば、織田は崩れまする。……それがしは、それを防ぎとうござる」
俺は、頭を下げた。
「――《《ゆえに、貴殿を診まする》》」
◆
俺は、そこで顔を上げて、こう付け足した。
「――《《それと、もう一つ》》」
「……」
「――《《医者ゆえにござる》》」
光秀は、しばらく黙っていた。
そして、あの丁寧な一礼をした。
だが今度は――
礼をした後、彼は顔を上げて、こう言った。
「――《《来月、文を出しまする》》」
◆
馬を進めながら、俺は振り返った。
坂本城が、湖の上に立っている。
その向こうに、比叡山があった。
――《《九年経って、山には木が生えはじめていた》》。
◆
天正八年 九月 坂本
症例・明智十兵衛光秀。五十半ば。
三日間、生活を観察。
所見――
一、睡眠二刻半。夜間覚醒二〜三回、毎晩。覚醒時「考えている」。
二、夜間の歯ぎしり。――《《隣室にて確認。最長、四半刻継続。》》
三、臼歯の咬合面、完全に平坦化。前歯切縁も摩耗。
――《《これは十年を要する。》》
四、咬筋の著明な肥大。触知にて明らか。
五、頸肩部の筋、極度の硬直。触診で息を詰める。
六、脈が硬い。血の道に持続的な力あり。
七、空腹時心窩部痛。食事にて軽快。
――一つずつなら、いずれも大したことはない。
――《《なれど、全部揃っている。》》
処方――
一、書け。誰にも見せぬ紙に。読み返して、燃やしてよい。
二、月に一度、俺に文を寄越すこと。
――《《必ず一行、「今月腹が立ったこと」を書くこと。》》
――俺はそれを読んで、燃やす。
※本日、この人は初めて笑わずに話した。
――《《比叡山が、この城のどの部屋からも見えるとのこと。九年、毎日。》》
それを「ありがたいことにございます」と、笑って言われた。
――《《笑うところではない。》》
残り、一年九か月。
今回は、症状を訴えない患者から情報を得る、という話です。
「何かお困りのことは」と尋ねても、答えたくない人は「ありません」と答えます。ですから聞き方を変えます。事実だけを、はい・いいえで答えられる形で尋ねる。昨夜は何時に寝たか。夜中に何回目が覚めたか。朝、顎は痛まないか。
答えは一つしかありませんから、隠しようがありません。
そして何より、体は嘘をつきません。
今回の決め手にした歯の摩耗は、夜間の歯ぎしりを示す最も確実な所見の一つです。歯は人体で最も硬い組織ですが、それでも毎晩何十分も食いしばり続ければ、奥歯の凹凸は失われて平らになります。ここまで摩耗するには年単位、多くは十年規模の時間が必要です。
同時に、噛むための筋肉である咬筋が発達します。触れば分かりますし、進行すると顔の輪郭が変わるほど太くなります。
そして本人は、ほとんど気づきません。眠っている間の出来事だからです。
作中に並べた七つの所見——短時間睡眠、中途覚醒、歯ぎしり、歯の摩耗、咬筋肥大、頸肩部の硬直、硬い脈、空腹時の胃痛——は、どれも単独では「忙しい人にはよくあること」です。
ですが、これらが揃うとき、そこには持続する強い緊張状態があります。
危険を察知したときに体を戦闘態勢にする仕組みは、短時間なら極めて有効です。それが年単位で続くと、歯が削れ、筋肉が固まり、血管に負担がかかり、胃の粘膜が荒れ、睡眠が壊れます。
最後の処方について。感情を言語化して外に出すことの効果は、現在では書くことによる方法も含めて、多く研究されています。書いたものを破棄しても効果があるという報告もあります。頭の中で反芻し続けるものを、紙の上で止める——作中の説明は、そういう趣旨です。
次話、天正九年です。
お読みいただきありがとうございました。ブックマーク・☆評価が更新の励みになります。




