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転生軍医、織田信勝 ―本能寺を消す処方箋―  作者: 東雲 諒杏
第一章 尾張診療録(第1話〜第12話)

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第三話 大うつけの脈を取る

弟が兄に差し出したのは、忠誠でも兵でもなく、「診察させてくれ」という一言でした。

 病み上がりの俺のもとに、その男が現れたのは、五日後のことだった。


「勘十郎。死に損なったそうだな」


 開口一番が、それである。


 湯帷子ゆかたびらを肩にひっかけ、腰には火打袋やら瓢箪ひょうたんやら干し柿の袋やらをじゃらじゃらと下げ、髪は茶筅ちゃせんに巻き立てた縄。片手で柿をかじりながら、供も連れずにずかずかと入ってくる。


 世に言う、尾張の大うつけ。


 俺は思わず、まじまじとその顔を見上げてしまった。


(……これが、織田信長)


 肖像画で見慣れた壮年の顔より、ずっと若い。頬に少年の線が残っている。二十二歳。


 だが、眼だけが違った。


 こちらの内臓の裏側まで透かし見るような、鋭く、乾いた眼。


 四十年、患者の眼を見てきた。あれは何の眼だろう。病の眼ではない。痛みの眼でもない。


(――退屈だ。この男は、《《退屈という病》》にかかっている)


 周囲の誰も、自分と同じ速さで物を考えない。だから何もかもがのろく、つまらない。その苛立ちが、うつけの装束になり、奇矯ききょうな振る舞いになっている。


 医者の勘だった。そして、この勘は当たっていると思った。


「兄上」


 俺は身を起こし、頭を下げた。それから、いきなり本題に入った。


「ひとつ、お願いがございます。《《脈を、取らせていただきたい》》」


 柿をかじる音が、止まった。


 信長は片眉を上げ、それから、面白そうに腕をぬっと突き出した。


「取れ」


 俺は左手首の橈骨動脈とうこつどうみゃくに、三本の指を当てた。


 整。緊張良好。毎分六十台後半。若く、鍛えられた心臓だ。


 ついでに下眼瞼かがんけんを軽く引いて結膜を見る。貧血なし。爪床そうしょうを圧迫して、色の戻りを数える。末梢循環良好。呼気の匂いを嗅ぐ。ケトン臭なし、酒臭なし。


「……なんの真似だ」


「診察にございます」


 俺は指を離した。


「熱に浮かされているあいだ、医の道の夢を見申した。人の身体の仕組み、病の正体、傷の治し方。目が覚めたら、それが全て頭に残っておりました」


「ほう。……で、俺はどこか悪いか」


「今は、どこも」


 俺は答えた。


「ただし兄上は、塩辛いものと、甘いものを好まれる。あと、飯を噛まずに掻き込まれよう。……歳を重ねれば、血の道が硬く、細くなり申す。そうなれば、ある日突然、卒中で倒れる」


 高血圧と動脈硬化のことだ。信長は湯漬けを掻き込んで出陣するので有名だった。


「今から二十年、三十年先の話にございます。ゆえに、今から養生なさるべきだ」


「二十年先」


 信長が、初めて、少し声の調子を変えた。


「勘十郎。俺は明日死ぬかもしれん。二十年先の話をする者を、初めて見た」


 ――そのとき、廊下でどさりと音がした。


 振り向くと、信長の供をしてきた小姓こしょうが、板敷きに崩れ落ちていた。十四、五の少年である。長いあいだ、廊下に正座して控えていた者だ。


 周りの者が「気を失うたぞ」「もののけか」と騒ぎ立てる。


「――どけ」


 俺は蒲団を蹴って、這うようにその場へ出た。


 まず頸動脈けいどうみゃくに指を当てる。触れる。徐脈気味だが、しっかりある。呼吸あり。四肢の硬直なし、痙攣けいれんなし、失禁なし。呼びかけると、すでに薄く眼を開けかけている。


「両足を上げろ。誰か、そこの板を担げ。腰より高く、足を上げるのだ」


 言われるまま、家人が少年の両足を持ち上げる。


 わずか十数秒で、少年の顔に血の気が戻った。


「……あ、れ……それがしは……」


「よい。喋るな。しばらくそのまま寝ておれ」


 俺は少年の脈を数えながら、背後の兄に向かって言った。


「兄上。この者、長く正座して控えておりましたな。そして、立とうとした刹那せつなに倒れた。違いますか」


「そうだ」


 答えたのは、隣にいた別の小姓だった。「立ち上がろうとして、ふらりと」


「ならば、《《もののけではござらぬ》》」


 俺は、はっきりと言った。


「人の身は、立ち上がると、血が足のほうへ落ちてゆく。一升の水を入れた竹筒を立てるのと同じにござる。すると心の臓に戻る血が減り、頭へ送る血も減る」


「……ふむ」


「常であれば、首と胸の内側に《《血の勢いを測る番人》》がおって、これを察知いたす。番人は即座に触れを出し、全身の細い血の管を絞り、心の臓を速く打たせ、血を頭へ押し上げる。ゆえに、我らは立っても倒れぬ」


 頸動脈洞と大動脈弓の圧受容体、そして交感神経を介した血管収縮と心拍数増加。――圧受容体反射である。


「だがこの者は若く、長く同じ姿勢で控えておった。足の血が溜まりきり、番人の触れが間に合わなんだ。ゆえに一瞬、頭が渇いて、倒れた。……足を上げれば、溜まった血が戻る。ご覧の通りにござる」


 少年は、もう自力で身体を起こそうとしていた。


「起きるな。今日は水を多めに飲め。それと塩を舐めよ。次から、長く控えるときは、時折こっそりと爪先を動かし、脹脛ふくらはぎを締めよ。脹脛は《《第二の心の臓》》だ。そこを動かせば、血は自ずと戻る」


 少年は、涙ぐんだ顔で何度も頭を下げた。


 俺が振り返ると、信長は――笑っていなかった。


 腕を組み、あの乾いた眼で、じっと俺を見下ろしている。


「勘十郎」


「はい」


「貴様、それをどこで習った」


 来たか、と思った。


 ここが分岐点だ。俺は、覚悟を決めて、姿勢を正した。


「夢にて、と申し上げました。信じられぬのは道理にござる。ゆえに、あかしを立てまする」


「証」


「これより、それがしは人を治し続けまする。兵を、民を、家中の者を。……そして、兄上を」


 俺は畳に手をついた。


「兄上は、いずれ天下をお獲りになる」


 部屋の空気が、凍った。


 うつけと呼ばれる若者に向かって、その弟が、真顔で「天下を獲る」と言った。この場にいた者は全員、俺の頭がまだ熱でおかしいのだと思っただろう。


「そのとき兄上の身体は、兄上ひとりのものではなくなる。転べば国が転び、倒れれば国が倒れる。……ゆえに」


 俺は、顔を上げた。


「《《家督は、要りませぬ》》」


 誰かが、息を呑んだ。


「それがしは、兄上の弟であり、医者である。それ以外の何者にもなり申さぬ。母上にも、家老どもにも、そう申し上げる。……代わりに、ひとつだけ、いただきたいものがございます」


「言え」


「《《兄上の身体を、それがしに預けていただきたい》》。死ぬまで、それがしが診まする」


 長い沈黙があった。


 信長は、食いさしの干し柿を口に放り込み、種をぺっと庭へ吐き出した。


 そして、あの、有名な笑い方をした。喉の奥で鳴らすような、短い笑い。


「熱で頭がだったか」


「……」


「――いや」


 立ち上がりざま、彼は言った。


「《《面白い茹だり方だ》》」


 襖の向こうへ消える寸前、信長は振り向かずに言い残した。


「勘十郎。次に誰ぞ死にかけたら、貴様のその『夢』とやら、俺の前で見せてみよ」


 その機会は、思ったより早く来た。


長く正座していた人が立ち上がった瞬間に倒れる――起立性失神です。

 立つと血液は重力で脚に溜まり、心臓に戻る血が減ります。普通は首と胸にある「圧センサー(圧受容体)」が即座に感知して、血管を締め、心拍を上げて血圧を保つ。この反射が一瞬間に合わないと、脳の血流が落ちて意識が飛びます。

 対処は単純で、寝かせて脚を上げること。それだけで十数秒で戻ります。作中で勘十郎がやったのは、それだけのことでした。


 次話は戦国の外科手術です。焼き鏝が出てきます。

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