第三話 大うつけの脈を取る
弟が兄に差し出したのは、忠誠でも兵でもなく、「診察させてくれ」という一言でした。
病み上がりの俺のもとに、その男が現れたのは、五日後のことだった。
「勘十郎。死に損なったそうだな」
開口一番が、それである。
湯帷子を肩にひっかけ、腰には火打袋やら瓢箪やら干し柿の袋やらをじゃらじゃらと下げ、髪は茶筅に巻き立てた縄。片手で柿をかじりながら、供も連れずにずかずかと入ってくる。
世に言う、尾張の大うつけ。
俺は思わず、まじまじとその顔を見上げてしまった。
(……これが、織田信長)
肖像画で見慣れた壮年の顔より、ずっと若い。頬に少年の線が残っている。二十二歳。
だが、眼だけが違った。
こちらの内臓の裏側まで透かし見るような、鋭く、乾いた眼。
四十年、患者の眼を見てきた。あれは何の眼だろう。病の眼ではない。痛みの眼でもない。
(――退屈だ。この男は、《《退屈という病》》に罹っている)
周囲の誰も、自分と同じ速さで物を考えない。だから何もかもがのろく、つまらない。その苛立ちが、うつけの装束になり、奇矯な振る舞いになっている。
医者の勘だった。そして、この勘は当たっていると思った。
「兄上」
俺は身を起こし、頭を下げた。それから、いきなり本題に入った。
「ひとつ、お願いがございます。《《脈を、取らせていただきたい》》」
柿をかじる音が、止まった。
信長は片眉を上げ、それから、面白そうに腕をぬっと突き出した。
「取れ」
俺は左手首の橈骨動脈に、三本の指を当てた。
整。緊張良好。毎分六十台後半。若く、鍛えられた心臓だ。
ついでに下眼瞼を軽く引いて結膜を見る。貧血なし。爪床を圧迫して、色の戻りを数える。末梢循環良好。呼気の匂いを嗅ぐ。ケトン臭なし、酒臭なし。
「……なんの真似だ」
「診察にございます」
俺は指を離した。
「熱に浮かされているあいだ、医の道の夢を見申した。人の身体の仕組み、病の正体、傷の治し方。目が覚めたら、それが全て頭に残っておりました」
「ほう。……で、俺はどこか悪いか」
「今は、どこも」
俺は答えた。
「ただし兄上は、塩辛いものと、甘いものを好まれる。あと、飯を噛まずに掻き込まれよう。……歳を重ねれば、血の道が硬く、細くなり申す。そうなれば、ある日突然、卒中で倒れる」
高血圧と動脈硬化のことだ。信長は湯漬けを掻き込んで出陣するので有名だった。
「今から二十年、三十年先の話にございます。ゆえに、今から養生なさるべきだ」
「二十年先」
信長が、初めて、少し声の調子を変えた。
「勘十郎。俺は明日死ぬかもしれん。二十年先の話をする者を、初めて見た」
――そのとき、廊下でどさりと音がした。
振り向くと、信長の供をしてきた小姓が、板敷きに崩れ落ちていた。十四、五の少年である。長いあいだ、廊下に正座して控えていた者だ。
周りの者が「気を失うたぞ」「もののけか」と騒ぎ立てる。
「――どけ」
俺は蒲団を蹴って、這うようにその場へ出た。
まず頸動脈に指を当てる。触れる。徐脈気味だが、しっかりある。呼吸あり。四肢の硬直なし、痙攣なし、失禁なし。呼びかけると、すでに薄く眼を開けかけている。
「両足を上げろ。誰か、そこの板を担げ。腰より高く、足を上げるのだ」
言われるまま、家人が少年の両足を持ち上げる。
わずか十数秒で、少年の顔に血の気が戻った。
「……あ、れ……某は……」
「よい。喋るな。しばらくそのまま寝ておれ」
俺は少年の脈を数えながら、背後の兄に向かって言った。
「兄上。この者、長く正座して控えておりましたな。そして、立とうとした刹那に倒れた。違いますか」
「そうだ」
答えたのは、隣にいた別の小姓だった。「立ち上がろうとして、ふらりと」
「ならば、《《もののけではござらぬ》》」
俺は、はっきりと言った。
「人の身は、立ち上がると、血が足のほうへ落ちてゆく。一升の水を入れた竹筒を立てるのと同じにござる。すると心の臓に戻る血が減り、頭へ送る血も減る」
「……ふむ」
「常であれば、首と胸の内側に《《血の勢いを測る番人》》がおって、これを察知いたす。番人は即座に触れを出し、全身の細い血の管を絞り、心の臓を速く打たせ、血を頭へ押し上げる。ゆえに、我らは立っても倒れぬ」
頸動脈洞と大動脈弓の圧受容体、そして交感神経を介した血管収縮と心拍数増加。――圧受容体反射である。
「だがこの者は若く、長く同じ姿勢で控えておった。足の血が溜まりきり、番人の触れが間に合わなんだ。ゆえに一瞬、頭が渇いて、倒れた。……足を上げれば、溜まった血が戻る。ご覧の通りにござる」
少年は、もう自力で身体を起こそうとしていた。
「起きるな。今日は水を多めに飲め。それと塩を舐めよ。次から、長く控えるときは、時折こっそりと爪先を動かし、脹脛を締めよ。脹脛は《《第二の心の臓》》だ。そこを動かせば、血は自ずと戻る」
少年は、涙ぐんだ顔で何度も頭を下げた。
俺が振り返ると、信長は――笑っていなかった。
腕を組み、あの乾いた眼で、じっと俺を見下ろしている。
「勘十郎」
「はい」
「貴様、それをどこで習った」
来たか、と思った。
ここが分岐点だ。俺は、覚悟を決めて、姿勢を正した。
「夢にて、と申し上げました。信じられぬのは道理にござる。ゆえに、証を立てまする」
「証」
「これより、それがしは人を治し続けまする。兵を、民を、家中の者を。……そして、兄上を」
俺は畳に手をついた。
「兄上は、いずれ天下をお獲りになる」
部屋の空気が、凍った。
うつけと呼ばれる若者に向かって、その弟が、真顔で「天下を獲る」と言った。この場にいた者は全員、俺の頭がまだ熱でおかしいのだと思っただろう。
「そのとき兄上の身体は、兄上ひとりのものではなくなる。転べば国が転び、倒れれば国が倒れる。……ゆえに」
俺は、顔を上げた。
「《《家督は、要りませぬ》》」
誰かが、息を呑んだ。
「それがしは、兄上の弟であり、医者である。それ以外の何者にもなり申さぬ。母上にも、家老どもにも、そう申し上げる。……代わりに、ひとつだけ、いただきたいものがございます」
「言え」
「《《兄上の身体を、それがしに預けていただきたい》》。死ぬまで、それがしが診まする」
長い沈黙があった。
信長は、食いさしの干し柿を口に放り込み、種をぺっと庭へ吐き出した。
そして、あの、有名な笑い方をした。喉の奥で鳴らすような、短い笑い。
「熱で頭が茹だったか」
「……」
「――いや」
立ち上がりざま、彼は言った。
「《《面白い茹だり方だ》》」
襖の向こうへ消える寸前、信長は振り向かずに言い残した。
「勘十郎。次に誰ぞ死にかけたら、貴様のその『夢』とやら、俺の前で見せてみよ」
その機会は、思ったより早く来た。
長く正座していた人が立ち上がった瞬間に倒れる――起立性失神です。
立つと血液は重力で脚に溜まり、心臓に戻る血が減ります。普通は首と胸にある「圧センサー(圧受容体)」が即座に感知して、血管を締め、心拍を上げて血圧を保つ。この反射が一瞬間に合わないと、脳の血流が落ちて意識が飛びます。
対処は単純で、寝かせて脚を上げること。それだけで十数秒で戻ります。作中で勘十郎がやったのは、それだけのことでした。
次話は戦国の外科手術です。焼き鏝が出てきます。




