表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生軍医、織田信行 ―本能寺を消す処方箋―  作者: 東雲 諒杏
第一章 尾張診療録(第1話〜第12話)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/66

第二話 甘い塩湯

塩だけでも、砂糖だけでも駄目。両方あって初めて水は身体に入る――という話です。

「……塩と、甘葛あまづら、にございますか」


 侍女――そなたの名は、と聞くと「すず、にございます」と答えた――は、明らかに困惑していた。


「病み上がりのお身体に、塩気の強いものはさわりましょう。かゆをお持ちいたしますが」


「粥もいずれ食う。だが今は、水だ」


 俺は、彼女に理解できる言葉を探した。


 ――腸管上皮のSGLT1という輸送体は、ナトリウムとブドウ糖を同時に取り込む共輸送体だ。だから食塩と糖を一緒に飲ませてやると、水の吸収効率が跳ね上がる。二十世紀後半、途上国の下痢症で数百万の子どもを救った「世紀の発見」、経口補水療法の原理である。


 ……などと言っても、通じるはずがない。


「すず。塩だけの水は、腸が水を受け取らぬ。甘いだけの水も同じだ。《《塩と甘味、両方あって初めて、水は腹から身体へ沁みる》》。これは南蛮の医の術だ」


 嘘は言っていない。前世まるごとを「南蛮」と呼ぶなら。


 すずは半信半疑のまま、しかし主命に逆らわず、湯を沸かしに立った。


 その間、俺は仰向けのまま自分の身体を診察した。


 脈拍――速い。百を超えている。手首の血管はぺしゃんこで、指で押した皮膚がゆっくりとしか戻らない。口の中は乾いて、舌が紙やすりのようだ。


(中等度の脱水だな。三日も高熱で寝ていれば当然だ)


 現代なら細胞外液を点滴すれば三十分で楽になる。だが、ここには輸液も、点滴ルートも、生理食塩水もない。


 あるのは、かまどと、湯と、塩と、甘葛だけだ。


(――それで、いい)


 妙な感慨があった。


 俺は現代医療の頂点で四十年やってきた。ロボット支援手術も、術中迅速病理も、集中治療室も使えた。


 だが医療の本質は、そのどれでもない。


 《《目の前の人間の身体で、いま何が起きているかを見抜くこと。》》


 《《そして、手元にあるもので、それを是正すること。》》


 道具が消えただけだ。医者は消えていない。


「お持ちいたしました」


 すずが運んできたわんを、俺は震える手で受け取った。


 ぬるい。塩気がわずかにあり、後から甘みが追いかけてくる。うまいとは、とても言えない。


 だが、干からびた身体に、それは驚くほど染みた。


 半刻はんときほどかけて、三杯。


 やがて、脈が落ち着いてきた。舌が湿ってきた。頭の芯にかかっていたもやが、少しずつ晴れていく。


(効いた。……当たり前だが、効いた)


 俺は、天井を見上げて息を吐いた。


 効いたということは、この身体の生理学は、俺の知っている生理学と同じだということだ。ナトリウムポンプも、圧受容体反射も、凝固カスケードも、五百年前だろうと同じ法則で動いている。


 ならば、俺の四十年は、無駄にならない。


「すず」


「はい」


「この城の者に触れを出せ。《《飲み水は必ず一度煮ること》》。井戸から汲んだままの水を飲むな。特に、腹を下している者、熱のある者、幼子。それから――」


 俺は言葉を切って、彼女の顔を見た。


 すずは、じっと俺を見返していた。その眼には、困惑ではなく、別のものがあった。


「……勘十郎さま。お言葉が、変わられました」


「そうか」


「はい。前は、もっと……」


 言いかけて、慌てて口をつぐむ。


 俺は苦笑した。前の勘十郎がどんな話し方をしていたのか、記憶にはあるが、身体に馴染まない。母に甘え、家老に持ち上げられ、兄を「うつけ」と侮っていた二十歳前の若者。その口調で喋る気には、どうしてもなれなかった。


「熱に浮かされているあいだ、長い夢を見た」


 俺は、これから何度も使うことになる嘘を、初めて口にした。


「人の身体の仕組み、病の正体、傷の治し方。医の道の夢だ。……四十年ぶんも見た気がする。目が覚めたら、それが全部、頭に残っていた」


 すずは、息をんだ。


 この時代の人間にとって、それは「神仏の託宣」に近い話だっただろう。実際、俺はその誤解を利用するつもりでいた。


 なぜなら、俺には時間がない。


 弘治元年。西暦一五五五年。


 《《稲生の戦いまで、あと一年。》》俺が兄に殺されるまで、あと三年。


 そして――《《本能寺まで、あと二十七年》》。


 カルテの一枚目に、俺は心の中で日付を書き込んだ。


 主病名は、決まっている。


(症例・日本国。主訴、戦国乱世。既往、応仁の乱以来の慢性内戦――)


(そして予後を決定づける最大の合併症が、天正十年六月二日)


 執刀医は、俺だ。


 術前カンファレンスを、たった今、始める。


腸の細胞には「ナトリウムと糖を、必ず二つセットで運び込む扉」があります。だから塩と糖を一緒に飲ませると、水の吸収が跳ね上がる。これが経口補水液(ORS)の原理です。

 点滴のない場所で、竈と塩と甘味だけで作れる。だからこそ、この処方は世界を変えました。


 次話、いよいよ「大うつけ」が登場します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ