第一話 六十三歳、心筋梗塞にて死す
はじめまして。戦国転生ものですが、主人公は槍も振れず馬にも乗れない、ただの外科医です。
医学知識は実際の医学に基づいていますが、演出のため簡略化した箇所があります。作中の治療をご自身に試すことはなさらないでください。
心筋梗塞というやつは、教科書通りに来るときほど質が悪い。
左前胸部を万力で締め上げられるような痛み。左肩から顎へ抜けていく鈍痛。滝のような冷や汗。そして、「これはただ事ではない」という、患者がよく口にする、あの言いようのない不安感。
(ST上昇型心筋梗塞……左前下行枝の近位部、か)
四十年間、他人の身体を切り開いてきた男が、自分の死因を自分で診断してしまった。
葛城宗一郎、六十三歳。都内の大学病院に勤める臨床教授。消化器外科ひとすじ四十年、来月には定年退職の花道が待っていた。
その日は、後輩の執刀する膵頭十二指腸切除術に十一時間立ち会い、そのまま医局に戻って査読論文を片づけていた。時計は深夜二時を回っている。
無理がたたる、というのは、こういうことを言うのだろう。
「……ニトロ……いや、駄目だ。これは、もう」
薄れゆく意識のなかで、俺は机の上を見た。
開きっぱなしの本。趣味で読み散らかしていた戦国史料集。付箋だらけのページに、太い明朝体でこう刷られている。
――《《天正十年六月二日、本能寺》》。
俺の唯一の道楽は歴史だった。とりわけ織田信長。
あの男が本能寺で死ななければ、この国は百年、いや二百年早く近代化していたかもしれない。鎖国もなく、蘭学を細々と輸入する必要もなく、医学だってもっと早く――そんな与太話を、酒の席で何度語ったことか。若い医局員たちは「また教授の信長論が始まった」と笑っていた。
(あの時点で……歴史を、変えられたらな……)
医者が最期に思うことがそれかよ、と自分に笑った。
心停止から蘇生までのゴールデンタイムは、誰にも使われることがなかった。
深夜二時の医局は、静かだった。
◆
目が覚めると、天井が木だった。
煤けた太い梁。囲炉裏の匂い。遠くで鶏が鳴いている。畳ではなく、板の間に厚い蒲団。
(……ICUじゃ、ないな)
まず職業病が働いた。天井を見て場所を判断し、次に自分の身体を評価する。
軽い。腕が細い。手のひらに老人斑がない。爪が――若い。爪半月がくっきりと白い。
起き上がろうとして、視界がぐらりと揺れた。眼前が暗くなり、耳鳴りがする。
(立ちくらみだな。三日以上臥床していた身体だ。循環血液量が減っている)
冷静に分析している自分がおかしかった。俺は今、どう考えても正常な状況にいない。
「勘十郎さま! お目覚めになられましたか!」
襖を蹴倒す勢いで飛び込んできたのは、時代劇でしか見たことのない小袖姿の若い女だった。
その声を聞いた瞬間、頭の中に、他人の記憶が濁流のように流れ込んできた。
尾張国。末森城。父は織田弾正忠信秀――昨年、病で世を去った。母は土田御前。
そして、兄がひとり。
那古野の、大うつけ。織田三郎信長。
……俺は。
俺は、《《織田勘十郎信勝》》《おだかんじゅうろうのぶかつ》に転生していた。
のちの世で「信行」とも記される、織田信長の同母弟である。
(……よりにもよって、こいつかよ)
歴史オタクの俺は、この男の末路を正確に知っている。
織田信勝。家老の林秀貞・柴田勝家らに担がれ、家督をめぐって兄と対立。弘治二年、稲生の戦いで挙兵して敗北する。母のとりなしで一度は赦されるが、懲りずに再び謀反を企て、永禄元年、清洲城でおびき出されて誅殺される。
密告したのは、柴田勝家。自分の家老だ。
つまり俺は今――《《あと数年で、兄に殺される男》》の身体の中にいる。
流れ込んだ記憶によれば、勘十郎は三日三晩、高熱で寝込んでいたらしい。悪寒戦慄、稽留熱、意識混濁。腸チフスか、あるいは重症のインフルエンザか。
おそらく元の勘十郎の魂は、この熱で燃え尽きた。
そこに、心筋梗塞で死んだ六十三歳が滑り込んだ。空いた病床に、次の患者が入るように。
「勘十郎さま、お水を」
差し出された素焼きの水差しを、俺は反射的に押しとどめた。
「待て」
生水。この時代の生水は、赤痢・腸チフス・コレラの温床だ。三日間高熱を出して腸粘膜が荒れているところに、そんなものを流し込むわけにいかない。
俺は、四十年ぶんの知識の引き出しを、そっと開けた。
「湯冷ましにしてくれ。一度ぐらぐらと煮立てた湯を、冷ましたものだ。それから――塩をひとつまみと、甘葛か蜂蜜があれば、少し溶かせ」
侍女は、ぽかんと口を開けた。
無理もない。
だがこれは呪いでも祈祷でもない。《《世界で最も多くの命を救った処方のひとつ》》だ。
俺の、戦国での最初の指示だった。
主人公が最初に処方したのは、塩と甘みを溶かした、ただの湯冷ましです。
これは「経口補水療法」と呼ばれ、二十世紀後半に世界中の下痢症の子どもを救った、医学史上でも指折りの発明でした。次話でその中身をご説明します。
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