第二十九話 一番よく効く矢
※四肢切断の描写があります。
手当所に千人が寝ています。
そのうち八割が、敵です。
そして翌朝、味方が首を取りに来ました。
天正三年、五月二十二日。
長篠の翌朝である。
俺の手当所には、《《千を超える人間が寝ていた》》。
そのうち八割が、《《武田の兵》》だった。
――そして、朝一番に来たのは、味方だった。
◆
「――《《その者らの首を、いただきたい》》」
筵の列の前に立ったのは、三十がらみの侍だった。
後ろに、二十人ばかり。みな具足のままで、腰に刀を差している。
「昨日、我らが討ち取った者どもにござる。……なれど首を取る前に、そちらの手当組が運んでしもうた」
彼は、丁寧な口調で言った。
だが、目は笑っていなかった。
「勘十郎さま。《《我らの手柄にござる》》」
◆
――《《そうだ》》。
俺は、その理屈を否定できない。
この時代、戦の恩賞は《《首》》で決まる。
どの敵を、誰が、いつ討ち取ったか。それを首で証明して、初めて所領が増え、禄が増え、家が続く。
昨日、この男たちは命を懸けて戦った。
そして、討ち倒した敵を――《《俺の手当組が、担架で運んでしまった》》。
「――お待ちいただきたい」
俺は、そう言うのが精一杯だった。
「なにゆえ待つのでござる」
「――《《それがしが、兄に掛け合い申す》》」
「兄君に」
侍の眉が、上がった。
「勘十郎さま。……我らは、《《殿の御恩賞》》を頂戴しに参ったのではござらぬ。《《当然の権利》》を申しております」
俺は、頭を下げた。
「――半日、待っていただきたい」
◆
そして、俺が兄の陣所へ向かおうとしたとき。
「――勘十郎さま」
背後から、静かな声がした。
振り返ると、痩せた男が立っていた。
――《《竹中半兵衛》》。
三十二になったはずだ。
最後に会ったのは二年前である。
「――半兵衛どの。おられたのか」
「筑前どのの手勢に加わっておりました」
彼は、いつも通りの穏やかな顔で言った。
だが、俺の目は、別のところを見ていた。
――《《痩せた》》。
二年前より、明らかに。
そして、《《立ったまま、時々、肩で息をしている》》。
「――《《脱げ》》」
「……勘十郎さま。今は、それどころでは」
「《《脱げ》》」
◆
俺は、その場で背中に耳を当てた。
――右の上。しゃりしゃりという音。以前より、《《広い》》。
打診。ごつ、ごつ。――以前より《《濁った範囲が広がっている》》。
そして、左。
俺は、息を止めた。
――《《左の上にも、音がある》》。
二年前は、なかった。
「……半兵衛どの」
「――《《渡りましたか》》」
彼は、こともなげに聞いた。
「――渡った」
俺は、答えた。
「左に、飛んだ」
半兵衛は、小袖を合わせながら、静かに言った。
「五つは守っておりました。……ただ、この一年、寝るのが遅うございました」
「――《《だから寝ろと書いた》》」
「読みました」
彼は、少し笑った。
「二文字だけの文は、生涯で初めていただきました」
◆
「――半兵衛どの。あと何年だと思うておられる」
「四年、と」
「――《《三年だ》》」
俺は、そう言った。
言わねばならなかった。
「左に渡った者は、そこから早い。……無理をすれば、二年」
半兵衛は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「――《《ならば、急ぎまする》》」
「そうではない」
俺は、思わず声を荒らげた。
「急ぐなと言うておる! 急げば早まる!」
「勘十郎さま」
半兵衛は、俺を見た。
その眼が、静かだった。
「――《《それがしは、寝床で三年生きるより、働いて二年生きとうございます》》」
「……」
「あなたさまが十一年前にくださったのは、《《時》》でございます。時をどう使うかは、それがしのものにございましょう」
俺は、返す言葉がなかった。
――医者として、これほど納得のいかない、そして反論できない言葉はなかった。
◆
「――して」
半兵衛は、話を変えた。
「首の一件、伺いました」
「……早いな」
「あそこで揉めておりましたゆえ、誰でも聞こえまする」
彼は、筵の列を眺めた。
「勘十郎さまは、あの武田衆を助けたいと思うておられる」
「――そうだ」
「なにゆえ」
「――《《傷に、旗は生えておらんゆえ》》」
「――それは、《《医者の理屈》》にございますな」
半兵衛は、頷いた。
「そして、《《殿には通じませぬ》》」
◆
「勘十郎さま。あなたさまは、上総介さまに『助けてやってくれ』と申されるおつもりでございましょう」
「――そうだ」
「――《《やめられませ》》」
半兵衛は、はっきりと言った。
「あの方は、情では動かれませぬ。……いえ、動かれることもございましょうが、《《その場限り》》になり申す。今日は助かっても、明日には元に戻りまする」
「では、どうしろと」
「――《《得を、示されませ》》」
彼は、俺を見た。
「上総介さまは、《《得のあることは、必ずなさいます》》。しかも、一度なされば、それを制度になさる。……あの方の恐ろしさは、そこにございましょう」
「……」
「勘十郎さま。武田の傷者を治して返すと――《《織田は、何を得ますか》》」
◆
俺は、その場で考え込んだ。
半兵衛は、急かさなかった。
――そして、俺は気づいた。
「……《《噂》》か」
「――さようで」
半兵衛は、静かに頷いた。
「甲斐へ帰った者どもは、何を語りましょうか」
「――《《織田に捕まっても、殺されなかった》》と」
「そうでございます」
彼は、続けた。
「そして、こうも語りましょう。《《織田の陣には、傷を治す仕組みがある》》と。《《首を取られるどころか、飯を食わされて帰された》》と」
俺は、背筋が冷たくなるのを感じた。
「――《《それは、武田の兵の心を折る》》」
「――折れまする」
半兵衛は、あっさりと言った。
「次に織田とぶつかったとき、武田の足軽は考えまする。ここで死ぬのと、降るのと、どちらがましかと。……そして、《《降っても死なぬ》》と知っておれば」
「……」
「――《《城は、内から開き申す》》」
◆
俺は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「――半兵衛どの」
「はい」
「それがしは、そんなつもりで助けるのではない」
「――存じております」
「……」
「なれど勘十郎さま」
半兵衛は、少しだけ笑った。
「――《《その理屈で、七百人が生きまする》》」
◆
俺は、兄の前で、その通りに言った。
情には、一言も触れなかった。
武田の傷者七百を治して甲斐へ返せば、何が起きるか。
噂が広がること。武田の兵が「降っても死なぬ」と知ること。そして――《《次の城が、内から開くこと》》。
信長は、絵図を見たまま、最後まで聞いた。
そして、こう言った。
「――《《誰の入れ知恵だ》》」
俺は、正直に答えた。
「竹中半兵衛どのにござる」
「――ふん」
兄は、少しだけ口の端を上げた。
「あの病人は、寝ておればよいものを」
そして、彼は顔を上げた。
「勘十郎。《《やれ》》」
◆
「――ただし、条件がある」
「はい」
「首を取り損ねた者どもには、《《俺が銭を出す》》」
信長は、こともなげに言った。
「首一つにつき、討ち取ったと認められる分は、銭で払う。……手柄は手柄だ。それを取り上げては、次から誰も戦わん」
「――兄上」
「それと、もう一つ」
彼は、指を立てた。
「――《《返すのは、足軽と雑兵だけだ》》」
俺は、顔を上げた。
「侍大将は返さん。あれは人質としての値打ちがある。……そして、《《武田の重臣は、返せば戦力に戻る》》」
「……」
「勘十郎。《《全部は、助けられん》》」
兄は、俺を見た。
「――貴様が、いつも言うておることだろう」
◆
――《《その通りだった》》。
俺は、頭を下げた。
「――承知いたしました」
「不服か」
「……不服にござる」
「そうか」
兄は、絵図に目を戻した。
「――《《それでいい》》」
◆
だが。
俺が手当所に戻ったとき、《《別の問題》》が待っていた。
◆
「――勘十郎さま。妙な臭いがいたします」
与一郎が、そう言った。
「臭い」
「はい。あちらの筵のあたりで。……膿の臭いとは、違うような」
俺は、その方角へ歩いた。
――そして、五歩ほど手前で、《《足が止まった》》。
甘い。
膿の臭いは、鼻をつく。だがこれは違う。
――《《甘く、そして腐っている》》。
俺の背中に、氷が走った。
◆
男は、二十そこそこの武田の足軽だった。
右の太腿を撃たれている。
昨日、俺の弟子の一人が処置した。傷を開き、布を取り出し、死んだ肉を切り、開けたまま布を詰めた。
――手順は、正しかったはずだ。
だが。
俺は、掛け物をめくった。
――《《色が、違う》》。
傷の周りの皮膚が、《《青銅色》》に変じている。
その周囲が、異様に腫れている。
俺は、その腫れた皮膚に、そっと掌を当てて――《《押した》》。
――《《ぷつ、ぷつ、ぷつ》》。
◆
「――なんでございますか、今の音は」
与一郎の声が、震えていた。
「……皮の下に、《《気が溜まっておる》》」
俺は、掌を離した。
「押すと、それが潰れる。……雪を握ったような、そういう手応えだ」
俺は、立ち上がった。
「与一郎。よく見ておけ。四つある」
俺は、指を折った。
「一つ。《《甘く腐った臭い》》。二つ。《《皮膚が青黒く変わる》》。三つ。《《押すと、ぷつぷつと音がする》》。四つ――」
俺は、その男の顔を見た。
――《《汗だくで、青ざめて、そして脈が異様に速い》》。
だが、《《意識は、はっきりしている》》。
「四つ。《《傷の見た目に、まるで釣り合わぬほど、本人が苦しんでおる》》」
◆
――これは、俺が最も恐れていたものだった。
土の中に、空気を嫌う小さな生き物がいる。
傷の奥、血の通わなくなった肉の中は、《《その生き物にとって天国》》である。
そこで、それは爆発的に増える。
増えながら、《《気を出し、毒を出す》》。
毒は、周りの肉を殺す。殺された肉は、また血が通わなくなる。そこへ、また広がる。
――《《時間ごとに、広がっていく》》。
止まらない。
抗生剤があっても止めるのが難しい。ましてや、ここには何もない。
俺の知る限り――
――《《手立ては、一つしかない》》。
◆
「――喜三郎を呼べ」
俺は、そう言った。
「喜三郎さまを、でございますか」
「――《《切る》》」
俺は言った。
「切って、間に合うかどうかを見る。……間に合わぬなら、《《もっと上で切る》》」
◆
その日、俺は九人を切った。
右足を四人。左足を三人。腕を二人。
――そのうち三人は、太腿の付け根で切った。
膝下で足りるかを見て、切った断面の肉が《《すでに死んでいる》》のを見て、さらに上で切り直した。
俺は、切りながら、何度も自分に言い聞かせていた。
――《《惜しむな》》。
――《《ここで惜しめば、明日、命ごと取られる》》。
◆
九人のうち、六人が生きた。
三人は、その日か翌日に死んだ。
――俺が、《《遅かった》》のだ。
最初の一人に気づくまでに、半日かかった。その半日で、毒は広がっていた。
「――与一郎」
俺は、夜、板の間で言った。
「はい」
「――《《臭いを、覚えろ》》」
「……はい」
「あの甘い臭いを嗅いだら、《《その日のうちに動け》》。翌朝まで待つな。夜中でも俺を起こせ。……《《半日で、足一本ぶん進む》》」
俺は、拳を握った。
「――今日、三人殺した」
◆
そして、切られた者たちの前に立ったのは――
《《喜三郎》》だった。
木の足で、杖をついた男が、九人の筵の前を回っていた。
「――おい」
彼は、切ったばかりの若い武田兵に声をかけた。
「……」
「聞こえてんだろ。おい」
男は、答えなかった。天井を見たまま、涙を流していた。
「――見ろ」
喜三郎は、《《自分の袴をまくった》》。
木の足が、露わになった。
「――十五年前だ」
◆
「桶狭間の後よ。太腿を裂かれて、縄で縛られたまま丸一日放っておかれてな。……勘十郎さまに、膝の上で落とされた」
彼は、こつこつと木の足を叩いた。
「あんときゃ、おれも泣いた。国に婆さんと妹がいてな。足がなけりゃ槍は持てねえ、槍が持てなきゃ禄もねえって」
「……」
「――で、今どうなってると思う」
喜三郎は、にやりと笑った。
「《《三百人に物を教えてる》》」
男が、初めて彼を見た。
「木の足でな。作るのに七本かかった。七本目でようやく歩けた。……六本目で、おれは座り込んで泣いたぜ」
彼は、杖で地面を突いた。
「――《《歩けるようになる》》。時はかかるがな」
◆
「……なれど」
武田の若者が、掠れた声で言った。
「――おれは、《《敵》》にございます」
「知ってるよ」
喜三郎は、あっさり言った。
「――なにゆえ」
「――《《知るかよ》》」
彼は、頭を掻いた。
「おれは難しいことは分からん。勘十郎さまが治せって言うから治す。それだけだ」
そして、彼は木の足で一歩踏み出した。
「――だがな」
「……」
「おれの足を切ったのも、木の足を七本作ったのも、《《同じ人だ》》」
喜三郎は、言った。
「その人が、今日お前の足を切った。……なら、《《七本目まで付き合うぜ》》」
◆
六月。
武田の兵、五百八十六人が、甲斐へ帰された。
みな、歩けるようになった者である。
国境まで、織田の兵が送っていった。
――そして、俺は、その列を見送っていた。
列の最後尾に、足を切った若者が一人いた。
喜三郎が作らせた、粗末な木の足をついていた。
彼は、国境で立ち止まり、こちらを振り返った。
そして――《《深く、頭を下げた》》。
◆
俺の隣に、いつの間にか兄が立っていた。
「――勘十郎」
「はい」
「あれが、甲斐で何を喋ると思う」
「――《《織田は、殺さぬと》》」
「そうだ」
信長は、その列を見ながら言った。
「そして、来年か再来年に、武田の城を囲んだとき。……城の中の足軽が、《《それを思い出す》》」
俺は、黙っていた。
「勘十郎」
「はい」
「――《《貴様は、俺の一番よく効く矢だ》》」
◆
俺は、しばらく答えなかった。
そして、こう言った。
「――兄上。それがしは、矢ではござらぬ」
「知っておる」
「……」
「――《《だから、よく効く》》」
兄は、そう言って、去っていった。
――四度目である。
今川の足。安藤の孫。膿瘍の理屈。そして、今日。
俺は、この兄に《《四度、武器を渡した》》。
そして、そのたびに、俺は「そんなつもりはなかった」と言ってきた。
――《《いつまで、言い続けるつもりだ》》。
俺は、遠ざかる列を見ながら、そう思った。
◆
その夜、俺は『手当書』を開いた。
新しい項を、二つ書いた。
一つ目。
――《《一、甘く腐りたる臭いのこと。》》
――《《 傷の周りの皮、青黒く変じ、押せば「ぷつぷつ」と音を発するとき。》》
――《《 これは、最も速い病なり。半日にて足一本ぶん進む。》》
――《《 ――《《見つけたるその日のうちに、切るべし。》》》》
――《《 断面の肉に血の滲まざれば、さらに上にて切り直せ。》》
――《《 惜しむべからず。惜しめば、翌日、命ごと取らるる。》》
――《《 ※与一郎に臭いを覚えさせたり。書では伝わらぬ。》》
二つ目。
――《《一、切られたる者に、最も効く薬のこと。》》
――《《 医者の言葉にあらず。》》
――《《 ――《《先に切られ、そして歩いておる者》》の言葉なり。》》
――《《 ゆえに、手当所には必ず、そういう者を一人置くべし。》》
◆
天正三年 五月〜六月 長篠
傷病者一〇七四。うち武田方八六八。
※首級をめぐる紛議。――《《当方の兵の権利であり、否定できず。》》
兄上、銭にて代替を裁可。
――半兵衛どのの助言による。《《情ではなく、得を示せ》》。
……その理屈で、七百人が生きた。
※ガスを生ずる壊疽、九例。切断施行。生存六、死亡三。
――三名は、俺の発見が半日遅れたためである。
症例・竹中半兵衛、三十二歳。
――《《左に渡れり。》》以後は速い。
余命、三年と告げたり。無理をすれば二年。
「寝床で三年生きるより、働いて二年生きとうございます」
――医者として、これほど反論できぬ言葉はない。
――「貴様は、俺の一番よく効く矢だ」
「それがしは、矢ではござらぬ」
「――だから、よく効く」
残り、七年。
今回の医学的な主題は、ガス壊疽です。
土壌中に存在する、酸素のない環境を好む細菌が原因になります。銃創のように深く、異物を含み、血流の途絶えた組織がある創は、この菌にとって理想的な環境です。
特徴は四つあります。甘く腐敗した独特の臭い。皮膚が青銅色から黒褐色に変色すること。皮下にガスが溜まるため、押すと「握雪感」あるいは「捻髪音」と呼ばれるプツプツという感触があること。そして、傷の見た目に釣り合わないほど強い痛みと全身状態の悪化です。
最も恐ろしいのは進行の速さです。時間単位で広がり、放置すれば一日で命に関わります。抗菌薬のある現代でも、治療の柱は外科的な切除です。
そして「惜しむな」という原則。切除の断端から血が滲まなければ、そこはすでに死んでいます。もっと上で切り直すしかありません。躊躇すれば、翌日には命を失います。
もう一つ、今回は結核の進行についても触れました。
片側の肺にとどまっていた病変が反対側へ及ぶことを、対側への波及といいます。ここから先は経過が加速します。作中で勘十郎が余命を四年から三年へ、無理をすれば二年へと下方修正したのは、そのためです。
次話、天正三年の後半へ進みます。
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