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転生軍医、織田信勝 ―本能寺を消す処方箋―  作者: 東雲 諒杏
第三章 美濃の労咳(第25話〜第38話)

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第十九話 先に答えを持つな

三日、門の前に座り込んだ男がいます。


 そして今回、与一郎が初めて一人で診断を下します。

 永禄十年、秋。


 岐阜城の廊下を、猿が走ってきた。


「勘十郎さまァ! 勘十郎さま!」


 木下藤吉郎である。


 墨俣の頃より、身なりが少しましになった。だが走り方は変わらない。


「どうした。落ち着け」


「――《《連れて参りました》》!」


 彼は、廊下に膝をついて、両手を突き上げた。


「竹中半兵衛どの! ついに! 三度目でようやく!」


          ◆


 話を聞くと、なかなか壮絶だった。


 美濃を去った半兵衛は、近江の山中に隠棲していた。織田家からの誘いは、それまでにも何度か出ていたが、すべて断られている。


 そこへ、藤吉郎が行った。


「一度目は、門前払いでござった。二度目は、上がらせてはいただきましたが、茶を一服いただいて『縁がございませぬ』と」


「三度目は」


「――《《三日、門の前に座っておりました》》」


 俺は、思わず聞き返した。


「三日」


「へえ。雨も降り申した。近所の百姓が握り飯をくれましてな、あれは旨かった」


 この男は、たぶん、恥というものを持っていない。


 いや――《《恥を、道具として使わない》》のだ。


「三日目の夕方に、半兵衛どのが出てこられまして。『あなたは、何がしたいのです』と」


「なんと答えた」


 藤吉郎は、けろりとした顔で言った。


「『あんたが欲しい』と申しました」


「……それだけか」


「それだけで」


 彼は、頭を掻いた。


「ほかに言うことがござらん。所領がどうの、天下がどうのと申しても、あのお方には効き申さぬ。……おれは、ただ、あの人と一緒に仕事がしたかっただけで」


 ――なるほど。


 この男が天下を取る理由が、少しだけ分かった気がした。


          ◆


 半兵衛は、岐阜城の一室で、静かに座っていた。


 三年半ぶりである。


 俺は、部屋に入るなり、挨拶も抜きに言った。


「――脱げ」


「……勘十郎さま。まずは、ご無沙汰の挨拶を」


「後だ」


 俺は薬箱を置いて、彼の背中に回った。


 ――そして、耳を当てた。


 息を吸わせる。吐かせる。


 右の上。しゃりしゃりという音。


 ――《《ある》》。


 だが。


 俺は、場所を少し変えて、もう一度聞いた。それから打診した。こんこん。ごつ、ごつ。


 俺は、しばらく黙っていた。


「……勘十郎さま」


「――《《ほとんど、進んでおらん》》」


          ◆


「三年半だ」


 俺は、半兵衛の前に座り直した。


「あの病は、放っておけば三年半で見違えるほど広がる。左にも飛ぶ。……だが、お前さんの左は、《《まだきれいだ》》」


「――さようで」


「何をした」


 半兵衛は、少し困ったように笑った。


「あのとき、言われた五つを」


「五つ」


「食う。寝る。日に当たる。風を通す。寝所を分かつ」


 彼は、指を折った。


「山におりましたゆえ、食うものは粗末でございましたが、卵と豆と、川の魚だけは切らしませんでした。……日は、いくらでもございました。あそこは何もない山でしたので、日に当たるくらいしかすることがなく」


 俺は、少し笑った。


「寝所は」


「三年半、一人で寝ておりまする」


 半兵衛は、目を伏せた。


「――《《誰にも、移してはならぬと思いまして》》」


          ◆


「勘十郎さま」


 彼は、そこで居住まいを正した。


「実は、それでも……ひとつ、お願いがございます」


「言え」


「――《《それがしの手の者を、一人、診ていただきたい》》」


 半兵衛の声が、そこで初めて揺れた。


弥五郎やごろうと申しまして、十九になります。それがしが山におった頃から、飯を運び、薪を割り、身の回りをしてくれておった者にございます」


「……」


「その者が、《《始終、病んでおりまする》》」


 俺は、顔を上げた。


「咳をし、熱を出し、痩せております。……冬になると必ず寝込み、春に持ち直し、また秋に倒れる。それを、何度も」


 半兵衛の膝の上で、拳が白くなっていた。


「勘十郎さま」


 彼は、頭を下げた。


「――《《それがしが、移したのでございましょうか》》」


          ◆


 俺は、その若者を、隣の部屋で診た。


 与一郎も同席させた。


 弥五郎は、痩せた青年だった。背は高いが、肉がない。顔色が悪く、鼻声で、しきりに鼻をすすっている。


「――与一郎。お前が診ろ」


「え」


「俺は見ている。お前が診て、お前が見立てを言え」


 与一郎は、緊張した顔で頷いた。


 二十一になったこの弟子は、もう一通りのことができる。脈を取り、熱を見て、背中に耳を当て、打診をした。


 問診も、しっかりやっていた。いつからか。咳の性質は。痰の色は。


 そして、こう言った。


「――勘十郎さま。《《労咳》》かと存じます」


          ◆


 俺は、しばらく黙っていた。


 与一郎が、不安そうに続けた。


「長く続く咳。痩せ。度重なる熱。……半兵衛さまと同じ屋根の下におられたことも考え合わせますれば」


「――与一郎」


「はい」


「《《お前は、いつからこの男を診た》》」


「……は?」


「今、お前は『半兵衛どのと同じ屋根の下におった』と言うたな」


 与一郎の顔が、こわばった。


「お前は、この部屋に入る前から、隣の部屋で半兵衛どのの話を聞いておった。……そして、《《労咳という答えを持って、この部屋に入った》》」


「……」


「それは、診察ではない。《《答え合わせ》》だ」


 俺は言った。


「人は、先に一つの答えを持つと、それに合う証拠ばかり拾って、合わぬ証拠を捨てる。……これは、医者が最も陥る罠だ。俺も、何度も落ちた」


 与一郎は、青ざめてうつむいた。


「もう一度、《《答えを捨てて》》診ろ。ゼロからだ」


          ◆


 与一郎は、深く息をして、もう一度、最初から始めた。


 そして、五つほど問いを重ねたところで、手が止まった。


「……弥五郎どの。もう一度伺いまする。咳は、《《いつから》》でございますか」


 弥五郎は、少し考えて答えた。


「――《《物心ついた頃から》》にございます」


 与一郎の眼が、見開かれた。


「物心ついた頃」


「へえ。餓鬼の時分から、耳がいとうなって膿が出るのを、何度もやりました。鼻もいつも詰まっておりまして。……肺を病んだのは、十二、三の頃が最初で」


 弥五郎は、恥ずかしそうに続けた。


「それから、数え切れませぬ。冬になるたび胸をやられまして、そのたび『今度こそ死ぬ』と言われております」


「――腹は」


 与一郎が、身を乗り出した。


「腹も、下すか」


「よう下しまする。子供の頃からずっと。……水のような便が、何日も」


「血は」


「混じり申さぬ」


「……夜、汗をかくか」


「かき申さぬ」


「血を、吐いたことは」


「一度も」


 与一郎は、その場で背筋を伸ばした。


「勘十郎さま」


「言え」


「――《《労咳では、ございませぬ》》」


          ◆


「なにゆえ、そう思う」


「まず、《《始まりが早すぎまする》》」


 与一郎は、指を折った。


「労咳なら、うつってから起こりまする。この者は、物心つく前から病んでおる」


「うむ」


「次に、《《しるしが合いませぬ》》。労咳の三つ――夕の熱、寝汗、喀血。この者には、寝汗も喀血もござらぬ」


「よし」


「そして――《《病む場所が、多すぎまする》》」


 与一郎は、弥五郎を見た。


「耳。鼻。肺。腹。……労咳は、肺を病みまする。耳と鼻と腹を、そろって年中病むものではござらぬ」


 俺は、頷いた。


「――《《合格だ》》」


          ◆


「では、これは何にございますか」


 与一郎が聞いた。


 俺は、弥五郎に向き直った。


「弥五郎」


「へ、へえ」


「お前の身体には、生まれつき、《《守り手が足りない》》」


「……守り手、でございますか」


「人の身体には、外から入ってきた病と戦う仕組みがある。目には見えん。だが、確かにある」


 俺は、自分の胸を叩いた。


「その仕組みには、いろいろな役目の者がおる。壁になる者、追い出す者、そして――《《一度会った敵の顔を覚えて、次に来たときに待ち伏せする者》》」


 俺は、指を一本立てた。


「お前は、その《《待ち伏せする者》》が、うまく作れん」


 弥五郎が、ぽかんと口を開けた。


「ゆえに、同じ病に何度でもかかる。普通の者なら一度で済むものが、お前は毎年やる。……耳も、鼻も、肺も、腸も、同じ理由だ」


「……生まれつき、でございますか」


「そうだ」


 俺は言った。


「誰のせいでもない。お前の心がけでもない。……《《そういう身体で生まれた》》」


          ◆


 弥五郎は、しばらく動かなかった。


 そして、両手で顔を覆った。


「……おれは」


「なんだ」


「おれは、《《怠け者だ》》と言われ続けました」


 声が、震えていた。


「なにゆえお前ばかり寝込む、精神こころが弱いからだ、飯を食わぬからだ、朝が遅いからだと。……おれ自身も、そう思うておりました」


「馬鹿馬鹿しい」


 俺は、はっきりと言った。


「気合いで作れるものではない。……お前は、その足りぬ身体で、十九まで生き延びた。それは《《怠け者にできることではない》》」


 ――弥五郎は、そこで声を上げて泣いた。


          ◆


 俺は、隣の部屋の襖を開けた。


 半兵衛が、廊下に膝をついて待っていた。顔が白い。


「――半兵衛どの」


「はい」


「あんたのせいではない」


 彼の肩が、大きく揺れた。


「あの者の病は、《《生まれつきのものだ》》。あんたが山に来る前から、あの男は病んでおった」


「……」


「移してもおらん。移されてもおらん。……あんたは、三年半、一人で寝ておったんだろう」


 半兵衛は、床に手をついたまま、動かなかった。


 しばらくして、その背中が、震えはじめた。


 ――この男が声を出して泣くのを、俺は初めて見た。


          ◆


 落ち着いた後、半兵衛は言った。


「勘十郎さま。……あの者は、治りまするか」


 俺は、正直に答えた。


「――治らん」


「……」


「足りぬものを、外から足してやる手立てを、それがしは持っておらん。……あれば、あの男は普通の人間として生きられる。だが、ない」


 俺は、続けた。


「これは、俺の《《二度目の敗北》》だ」


「二度目」


「一度目は、あんただ」


 半兵衛が、顔を上げた。


「――だが、《《遅くはできる》》」


          ◆


 俺が弥五郎に授けたのは、四つだった。


「一つ。《《熱が出たら、すぐに来い》》」


 俺は、指を立てた。


「様子を見るな。一日待つな。お前の場合、《《様子を見ている間に肺が壊れる》》。半日で来い。夜中でも叩き起こせ」


「二つ。冬は、無理をするな。冷えるな。人の多い場所に長くおるな。……特に、誰かが咳をしておる部屋には入るな」


「三つ。食え。痩せると、ますます守り手が減る。……卵を食え。魚を食え。豆を食え」


「四つ――」


 俺は、少し考えてから言った。


「《《槍働きは、諦めろ》》」


 弥五郎の顔が、歪んだ。


「そ、それは」


「陣中で、雨に打たれ、泥の中で寝れば、お前は三月で死ぬ」


 俺は、容赦なく言った。


「――だが」


「……」


「《《字は書けるか》》」


「……多少は」


「よし。書け」


 俺は言った。


「半兵衛どのの傍で、書け。あの人の言うことを、全部書き留めろ。あの人は――」


 俺は、そこで一度、言葉を切った。


「あの人は、頭の中に、途方もないものを持っておる。だがあの人も、いつまでも生きるわけではない」


 半兵衛が、静かに俺を見た。


「弥五郎。お前は、槍では死なぬ代わりに、《《紙の上で戦え》》。……そのほうが、たぶん、長く残る」


          ◆


 その夜。


 俺と半兵衛は、岐阜城の縁側で、並んで月を見ていた。


 二人とも、酒は飲まなかった。


「――勘十郎さま」


「なんだ」


「三年半前、あなたさまに『あと十五年』と言われました」


「言うたな」


「あれから三年半で、それがしは何をしたか、数えてみました」


 半兵衛は、淡々と言った。


「城を一つ、返しました。書を四十冊読みました。兵法の覚書を三巻書きました。……そして、猿のような男に、三日座り込まれ申した」


 俺は、吹き出した。


「――残り、十一年半でございます」


 彼は、月を見上げた。


「勘十郎さま。それがしは、《《残りで何ができるか》》を、いつも考えております。それは、あなたさまがくださったものです」


「……」


「もし、あのとき『分からぬ』と誤魔化されておれば、それがしは、たぶん今も山におりました」


 俺は、返す言葉を探した。


 結局、こう言った。


「――半兵衛どの」


「はい」


「俺も、《《残りを数えておる》》」


 彼が、こちらを向いた。


「あと十五年だ」


 俺は、月に向かって言った。


「その日までに、やらねばならんことが一つある。……それが済んだら、俺はたぶん、ただの町医者になる」


「――その一つとは」


 俺は、答えなかった。


 半兵衛も、それ以上は聞かなかった。


 ただ、こう言った。


「――手伝いまする」


          ◆


 永禄十一年、九月。


 織田上総介信長は、足利義昭を奉じて、京へ上った。


 俺は、その軍列の後方にいた。


 手当組は、もはや三百人ではない。八百人になっていた。喜三郎が指南役として鍛えた者たちである。木の足で、若い連中を怒鳴りつけていた。


 行軍計画には、俺の書いた条項が組み込まれていた。


 ――一日の行程は、《《厠を掘る時を含めて》》定めること。

 ――宿営地は、必ず上流に厠を作らぬこと。

 ――水を煮る釜を、隊ごとに携行すること。

 ――《《一隊に一人、手当組の者を配すること》》。


 二万五千。


 八年前、俺が「大きな病巣」と呼んだのと同じ規模の軍が、今度は俺の側にあった。


 そして――


 この軍は、《《腹を下さなかった》》。


          ◆


 京は、九年前に来たときより、さらに荒れていた。


 だが俺は、荒れた都を見ながら、まったく別のことを考えていた。


(――道三先生は、ご存命だろうか)


 六十を過ぎておられるはずだ。


 あの日、「受け取ったのなら、次へ渡せ」と言われて、俺は今、八百人と、四巻の書と、二人の弟子を持っている。


 報告に行かねばならない。


「与一郎」


「はい」


「京に着いたら、行くところがある」


「どちらへ」


 俺は、笑った。


「――《《俺の師匠のところだ》》」


          ◆


  永禄十一年

  症例・弥五郎、十九歳。

    幼少より反復する中耳・鼻・肺の膿、慢性の下痢、発育不良。

    夕の熱・寝汗・喀血、いずれもなし。

    ――労咳にあらず。《《生まれつき、守りの仕組みに欠けたるもの》》。

    根治の術なし。処方――早期受診、環境、栄養、そして役目を変えること。

  

  ※与一郎、この者を最初「労咳」と見立てたり。

    半兵衛どのの話を聞いた後に部屋へ入りしゆえなり。

    ――《《先に答えを持って診るべからず。》》『手当書』に加筆せり。

  

  症例・竹中半兵衛、二十五歳。三年半でほとんど進行せず。

    ――養生は、効く。

  残り、十四年。


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