第十九話 先に答えを持つな
三日、門の前に座り込んだ男がいます。
そして今回、与一郎が初めて一人で診断を下します。
永禄十年、秋。
岐阜城の廊下を、猿が走ってきた。
「勘十郎さまァ! 勘十郎さま!」
木下藤吉郎である。
墨俣の頃より、身なりが少しましになった。だが走り方は変わらない。
「どうした。落ち着け」
「――《《連れて参りました》》!」
彼は、廊下に膝をついて、両手を突き上げた。
「竹中半兵衛どの! ついに! 三度目でようやく!」
◆
話を聞くと、なかなか壮絶だった。
美濃を去った半兵衛は、近江の山中に隠棲していた。織田家からの誘いは、それまでにも何度か出ていたが、すべて断られている。
そこへ、藤吉郎が行った。
「一度目は、門前払いでござった。二度目は、上がらせてはいただきましたが、茶を一服いただいて『縁がございませぬ』と」
「三度目は」
「――《《三日、門の前に座っておりました》》」
俺は、思わず聞き返した。
「三日」
「へえ。雨も降り申した。近所の百姓が握り飯をくれましてな、あれは旨かった」
この男は、たぶん、恥というものを持っていない。
いや――《《恥を、道具として使わない》》のだ。
「三日目の夕方に、半兵衛どのが出てこられまして。『あなたは、何がしたいのです』と」
「なんと答えた」
藤吉郎は、けろりとした顔で言った。
「『あんたが欲しい』と申しました」
「……それだけか」
「それだけで」
彼は、頭を掻いた。
「ほかに言うことがござらん。所領がどうの、天下がどうのと申しても、あのお方には効き申さぬ。……おれは、ただ、あの人と一緒に仕事がしたかっただけで」
――なるほど。
この男が天下を取る理由が、少しだけ分かった気がした。
◆
半兵衛は、岐阜城の一室で、静かに座っていた。
三年半ぶりである。
俺は、部屋に入るなり、挨拶も抜きに言った。
「――脱げ」
「……勘十郎さま。まずは、ご無沙汰の挨拶を」
「後だ」
俺は薬箱を置いて、彼の背中に回った。
――そして、耳を当てた。
息を吸わせる。吐かせる。
右の上。しゃりしゃりという音。
――《《ある》》。
だが。
俺は、場所を少し変えて、もう一度聞いた。それから打診した。こんこん。ごつ、ごつ。
俺は、しばらく黙っていた。
「……勘十郎さま」
「――《《ほとんど、進んでおらん》》」
◆
「三年半だ」
俺は、半兵衛の前に座り直した。
「あの病は、放っておけば三年半で見違えるほど広がる。左にも飛ぶ。……だが、お前さんの左は、《《まだきれいだ》》」
「――さようで」
「何をした」
半兵衛は、少し困ったように笑った。
「あのとき、言われた五つを」
「五つ」
「食う。寝る。日に当たる。風を通す。寝所を分かつ」
彼は、指を折った。
「山におりましたゆえ、食うものは粗末でございましたが、卵と豆と、川の魚だけは切らしませんでした。……日は、いくらでもございました。あそこは何もない山でしたので、日に当たるくらいしかすることがなく」
俺は、少し笑った。
「寝所は」
「三年半、一人で寝ておりまする」
半兵衛は、目を伏せた。
「――《《誰にも、移してはならぬと思いまして》》」
◆
「勘十郎さま」
彼は、そこで居住まいを正した。
「実は、それでも……ひとつ、お願いがございます」
「言え」
「――《《それがしの手の者を、一人、診ていただきたい》》」
半兵衛の声が、そこで初めて揺れた。
「弥五郎と申しまして、十九になります。それがしが山におった頃から、飯を運び、薪を割り、身の回りをしてくれておった者にございます」
「……」
「その者が、《《始終、病んでおりまする》》」
俺は、顔を上げた。
「咳をし、熱を出し、痩せております。……冬になると必ず寝込み、春に持ち直し、また秋に倒れる。それを、何度も」
半兵衛の膝の上で、拳が白くなっていた。
「勘十郎さま」
彼は、頭を下げた。
「――《《それがしが、移したのでございましょうか》》」
◆
俺は、その若者を、隣の部屋で診た。
与一郎も同席させた。
弥五郎は、痩せた青年だった。背は高いが、肉がない。顔色が悪く、鼻声で、しきりに鼻をすすっている。
「――与一郎。お前が診ろ」
「え」
「俺は見ている。お前が診て、お前が見立てを言え」
与一郎は、緊張した顔で頷いた。
二十一になったこの弟子は、もう一通りのことができる。脈を取り、熱を見て、背中に耳を当て、打診をした。
問診も、しっかりやっていた。いつからか。咳の性質は。痰の色は。
そして、こう言った。
「――勘十郎さま。《《労咳》》かと存じます」
◆
俺は、しばらく黙っていた。
与一郎が、不安そうに続けた。
「長く続く咳。痩せ。度重なる熱。……半兵衛さまと同じ屋根の下におられたことも考え合わせますれば」
「――与一郎」
「はい」
「《《お前は、いつからこの男を診た》》」
「……は?」
「今、お前は『半兵衛どのと同じ屋根の下におった』と言うたな」
与一郎の顔が、こわばった。
「お前は、この部屋に入る前から、隣の部屋で半兵衛どのの話を聞いておった。……そして、《《労咳という答えを持って、この部屋に入った》》」
「……」
「それは、診察ではない。《《答え合わせ》》だ」
俺は言った。
「人は、先に一つの答えを持つと、それに合う証拠ばかり拾って、合わぬ証拠を捨てる。……これは、医者が最も陥る罠だ。俺も、何度も落ちた」
与一郎は、青ざめて俯いた。
「もう一度、《《答えを捨てて》》診ろ。ゼロからだ」
◆
与一郎は、深く息をして、もう一度、最初から始めた。
そして、五つほど問いを重ねたところで、手が止まった。
「……弥五郎どの。もう一度伺いまする。咳は、《《いつから》》でございますか」
弥五郎は、少し考えて答えた。
「――《《物心ついた頃から》》にございます」
与一郎の眼が、見開かれた。
「物心ついた頃」
「へえ。餓鬼の時分から、耳が痛うなって膿が出るのを、何度もやりました。鼻もいつも詰まっておりまして。……肺を病んだのは、十二、三の頃が最初で」
弥五郎は、恥ずかしそうに続けた。
「それから、数え切れませぬ。冬になるたび胸をやられまして、そのたび『今度こそ死ぬ』と言われております」
「――腹は」
与一郎が、身を乗り出した。
「腹も、下すか」
「よう下しまする。子供の頃からずっと。……水のような便が、何日も」
「血は」
「混じり申さぬ」
「……夜、汗をかくか」
「かき申さぬ」
「血を、吐いたことは」
「一度も」
与一郎は、その場で背筋を伸ばした。
「勘十郎さま」
「言え」
「――《《労咳では、ございませぬ》》」
◆
「なにゆえ、そう思う」
「まず、《《始まりが早すぎまする》》」
与一郎は、指を折った。
「労咳なら、うつってから起こりまする。この者は、物心つく前から病んでおる」
「うむ」
「次に、《《症が合いませぬ》》。労咳の三つ――夕の熱、寝汗、喀血。この者には、寝汗も喀血もござらぬ」
「よし」
「そして――《《病む場所が、多すぎまする》》」
与一郎は、弥五郎を見た。
「耳。鼻。肺。腹。……労咳は、肺を病みまする。耳と鼻と腹を、そろって年中病むものではござらぬ」
俺は、頷いた。
「――《《合格だ》》」
◆
「では、これは何にございますか」
与一郎が聞いた。
俺は、弥五郎に向き直った。
「弥五郎」
「へ、へえ」
「お前の身体には、生まれつき、《《守り手が足りない》》」
「……守り手、でございますか」
「人の身体には、外から入ってきた病と戦う仕組みがある。目には見えん。だが、確かにある」
俺は、自分の胸を叩いた。
「その仕組みには、いろいろな役目の者がおる。壁になる者、追い出す者、そして――《《一度会った敵の顔を覚えて、次に来たときに待ち伏せする者》》」
俺は、指を一本立てた。
「お前は、その《《待ち伏せする者》》が、うまく作れん」
弥五郎が、ぽかんと口を開けた。
「ゆえに、同じ病に何度でもかかる。普通の者なら一度で済むものが、お前は毎年やる。……耳も、鼻も、肺も、腸も、同じ理由だ」
「……生まれつき、でございますか」
「そうだ」
俺は言った。
「誰のせいでもない。お前の心がけでもない。……《《そういう身体で生まれた》》」
◆
弥五郎は、しばらく動かなかった。
そして、両手で顔を覆った。
「……おれは」
「なんだ」
「おれは、《《怠け者だ》》と言われ続けました」
声が、震えていた。
「なにゆえお前ばかり寝込む、精神が弱いからだ、飯を食わぬからだ、朝が遅いからだと。……おれ自身も、そう思うておりました」
「馬鹿馬鹿しい」
俺は、はっきりと言った。
「気合いで作れるものではない。……お前は、その足りぬ身体で、十九まで生き延びた。それは《《怠け者にできることではない》》」
――弥五郎は、そこで声を上げて泣いた。
◆
俺は、隣の部屋の襖を開けた。
半兵衛が、廊下に膝をついて待っていた。顔が白い。
「――半兵衛どの」
「はい」
「あんたのせいではない」
彼の肩が、大きく揺れた。
「あの者の病は、《《生まれつきのものだ》》。あんたが山に来る前から、あの男は病んでおった」
「……」
「移してもおらん。移されてもおらん。……あんたは、三年半、一人で寝ておったんだろう」
半兵衛は、床に手をついたまま、動かなかった。
しばらくして、その背中が、震えはじめた。
――この男が声を出して泣くのを、俺は初めて見た。
◆
落ち着いた後、半兵衛は言った。
「勘十郎さま。……あの者は、治りまするか」
俺は、正直に答えた。
「――治らん」
「……」
「足りぬものを、外から足してやる手立てを、それがしは持っておらん。……あれば、あの男は普通の人間として生きられる。だが、ない」
俺は、続けた。
「これは、俺の《《二度目の敗北》》だ」
「二度目」
「一度目は、あんただ」
半兵衛が、顔を上げた。
「――だが、《《遅くはできる》》」
◆
俺が弥五郎に授けたのは、四つだった。
「一つ。《《熱が出たら、すぐに来い》》」
俺は、指を立てた。
「様子を見るな。一日待つな。お前の場合、《《様子を見ている間に肺が壊れる》》。半日で来い。夜中でも叩き起こせ」
「二つ。冬は、無理をするな。冷えるな。人の多い場所に長くおるな。……特に、誰かが咳をしておる部屋には入るな」
「三つ。食え。痩せると、ますます守り手が減る。……卵を食え。魚を食え。豆を食え」
「四つ――」
俺は、少し考えてから言った。
「《《槍働きは、諦めろ》》」
弥五郎の顔が、歪んだ。
「そ、それは」
「陣中で、雨に打たれ、泥の中で寝れば、お前は三月で死ぬ」
俺は、容赦なく言った。
「――だが」
「……」
「《《字は書けるか》》」
「……多少は」
「よし。書け」
俺は言った。
「半兵衛どのの傍で、書け。あの人の言うことを、全部書き留めろ。あの人は――」
俺は、そこで一度、言葉を切った。
「あの人は、頭の中に、途方もないものを持っておる。だがあの人も、いつまでも生きるわけではない」
半兵衛が、静かに俺を見た。
「弥五郎。お前は、槍では死なぬ代わりに、《《紙の上で戦え》》。……そのほうが、たぶん、長く残る」
◆
その夜。
俺と半兵衛は、岐阜城の縁側で、並んで月を見ていた。
二人とも、酒は飲まなかった。
「――勘十郎さま」
「なんだ」
「三年半前、あなたさまに『あと十五年』と言われました」
「言うたな」
「あれから三年半で、それがしは何をしたか、数えてみました」
半兵衛は、淡々と言った。
「城を一つ、返しました。書を四十冊読みました。兵法の覚書を三巻書きました。……そして、猿のような男に、三日座り込まれ申した」
俺は、吹き出した。
「――残り、十一年半でございます」
彼は、月を見上げた。
「勘十郎さま。それがしは、《《残りで何ができるか》》を、いつも考えております。それは、あなたさまがくださったものです」
「……」
「もし、あのとき『分からぬ』と誤魔化されておれば、それがしは、たぶん今も山におりました」
俺は、返す言葉を探した。
結局、こう言った。
「――半兵衛どの」
「はい」
「俺も、《《残りを数えておる》》」
彼が、こちらを向いた。
「あと十五年だ」
俺は、月に向かって言った。
「その日までに、やらねばならんことが一つある。……それが済んだら、俺はたぶん、ただの町医者になる」
「――その一つとは」
俺は、答えなかった。
半兵衛も、それ以上は聞かなかった。
ただ、こう言った。
「――手伝いまする」
◆
永禄十一年、九月。
織田上総介信長は、足利義昭を奉じて、京へ上った。
俺は、その軍列の後方にいた。
手当組は、もはや三百人ではない。八百人になっていた。喜三郎が指南役として鍛えた者たちである。木の足で、若い連中を怒鳴りつけていた。
行軍計画には、俺の書いた条項が組み込まれていた。
――一日の行程は、《《厠を掘る時を含めて》》定めること。
――宿営地は、必ず上流に厠を作らぬこと。
――水を煮る釜を、隊ごとに携行すること。
――《《一隊に一人、手当組の者を配すること》》。
二万五千。
八年前、俺が「大きな病巣」と呼んだのと同じ規模の軍が、今度は俺の側にあった。
そして――
この軍は、《《腹を下さなかった》》。
◆
京は、九年前に来たときより、さらに荒れていた。
だが俺は、荒れた都を見ながら、まったく別のことを考えていた。
(――道三先生は、ご存命だろうか)
六十を過ぎておられるはずだ。
あの日、「受け取ったのなら、次へ渡せ」と言われて、俺は今、八百人と、四巻の書と、二人の弟子を持っている。
報告に行かねばならない。
「与一郎」
「はい」
「京に着いたら、行くところがある」
「どちらへ」
俺は、笑った。
「――《《俺の師匠のところだ》》」
◆
永禄十一年
症例・弥五郎、十九歳。
幼少より反復する中耳・鼻・肺の膿、慢性の下痢、発育不良。
夕の熱・寝汗・喀血、いずれもなし。
――労咳にあらず。《《生まれつき、守りの仕組みに欠けたるもの》》。
根治の術なし。処方――早期受診、環境、栄養、そして役目を変えること。
※与一郎、この者を最初「労咳」と見立てたり。
半兵衛どのの話を聞いた後に部屋へ入りしゆえなり。
――《《先に答えを持って診るべからず。》》『手当書』に加筆せり。
症例・竹中半兵衛、二十五歳。三年半でほとんど進行せず。
――養生は、効く。
残り、十四年。




