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転生軍医、織田信勝 ―本能寺を消す処方箋―  作者: 東雲 諒杏
第二章 桶狭間の輿(第13話〜第24話)

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第十四話 手当書

※四肢切断、破傷風の症状、負傷者の死の描写があります。


 戦の死者は、たいてい、戦の翌日から出はじめます。

 五月二十日。


 勝った翌朝である。


 尾張じゅうが沸き返っているらしい、と人が言った。


 俺は、それを泥まみれの手当所で聞いた。沸き返っている場所は、ここにはない。


 板の間には、二百人が横たわっていた。


 ――そして、俺は知っている。


 《《戦の死者は、戦の翌日から出はじめる》》。


          ◆


 最初に俺が向かったのは、あの若い男のところだった。


 太腿を裂かれ、止血帯を巻かれ、額に「巳の刻」と炭で書かれていた男。


 昨夜、俺が抱いて温めた男である。


「――名を、まだ聞いておらなんだな」


「……喜三郎きさぶろうと、申しまする」


 喜三郎の顔には、血の気が戻っていた。夜のうちに温まり、脈も落ち着いている。


 だが。


 俺は、掛け物をめくって、その左足を見た。


 ――色が、ない。


 膝から下が、ろうのように白い。指を押しても、色が戻らない。触れると、ぞっとするほど冷たい。


 俺は、足の甲に指を当てた。


 脈は――《《触れない》》。


 俺は、額に書かれた炭の字を見た。


 巳の刻。


 今、たつの刻を回っている。


 ――《《丸一日》》。


「勘十郎さま」


 与一郎が、隣で息を呑んだ。


「この足は」


「……死んでいる」


 俺は、静かに答えた。


          ◆


 俺は、喜三郎に聞こえぬところまで与一郎を引っ張っていった。


「よく聞け。ここからが《《一番危ない》》」


「なにゆえです。もう血は止まっておりましょう」


「――《《縄を解いた瞬間に、人が死ぬ》》」


 与一郎の眼が、大きく見開かれた。


「血の止まった手足の中では、肉が少しずつ死んでいく。死んだ肉からは、悪いものがにじみ出る。だが縄が締まっているあいだ、それは足の中に閉じ込められておる」


 俺は、拳を握って見せた。


「ここで縄を解くとどうなる」


「……血が、戻りまする」


「そうだ。そして《《溜まりに溜まった悪いものが、いっぺんに心の臓へ流れ込む》》」


 俺は、拳を開いた。


「心の臓は、それに耐えられん。……いきなり乱れて、止まる」


「そんな」


「戦場では、昔からこう言われておるはずだ。『縄を解いたら、急にころりと死んだ』と。……あれだ」


 ――圧迫を解いた瞬間に、閉じ込められていたものが全身に回る。


 現代なら、輸液を大量に流し込み、血中の電解質を測り、必要なら透析まで用意して、それから解除する。


 ここには、何もない。


「では、どういたせば」


「三つある」


 俺は指を立てた。


「一つ。《《解く前に、水をたっぷり入れておく》》。塩湯を、飲めるだけ飲ませる。溜まったものを薄めて、小便で出させるのだ」


「二つ。《《いっぺんに解かぬ》》。少しずつ緩め、様子を見て、また少し緩める」


「三つ――」


 俺は、そこで黙った。


 与一郎が、俺の顔を見た。


「三つ目は」


「――《《縄より上で、切り落とす》》」


          ◆


 喜三郎に、俺は正直に話した。


 嘘をつくという選択肢は、初めから頭になかった。


 左の足は、もう戻らないこと。膝から下の肉は死んでいること。


 このままにしておけば、死んだ肉が腐り、熱が出て、そのうち身体じゅうに毒が回って死ぬこと。


 ――そして、切り落とせば、助かるかもしれないこと。


「……切る、と」


「そうだ」


「勘十郎さま。おれは、足軽にございます」


 喜三郎は、天井を見たまま言った。


「足がなければ、槍は持てませぬ。槍が持てねば、禄はござらぬ。……国に、婆さまと、妹がおります」


 俺は、答えなかった。


 この時代に、片足の男がどう生きるのか。俺には保証できない。


 現代でさえ、切断は人生を変える。義足があり、年金があり、就労支援がある現代でさえ。


「……そのままにしておけば、どうなりまする」


「まず熱が出る。足が黒くなり、悪臭がする。……七日か十日で死ぬ」


「切れば、必ず助かりますか」


「――いや」


 俺は、正直に言った。


「切るときに死ぬかもしれん。切った後に膿んで死ぬかもしれん。……五分と五分だ。いや、それより少し悪いかもしれん」


 喜三郎は、長いこと黙っていた。


 やがて、彼は言った。


「勘十郎さま。……そのお話を、なぜ、おれに」


「なぜ、とは」


「切ると決めて、切ればよいではありませぬか。おれは足軽で、勘十郎さまは殿の御弟君にございます」


 ――ああ。


 俺は、この問いにも慣れている。


「喜三郎。お前の足だ」


 俺は言った。


「お前の足で、お前の残りの一生だ。……決めるのは、お前だ。俺は、お前が決めるために要る話を、全部話しただけだ」


 男は、目を閉じた。


 しばらくして、その目尻から、涙が一筋落ちた。


「……切って、くださりませ」


「――承知した」


          ◆


 その日の午後、俺は喜三郎の左足を、膝の少し上で切った。


 麻酔はない。


 できるだけの酒を飲ませ、口に固く巻いた布を噛ませ、四人がかりで押さえつけた。


 俺がやったのは、それだけだ。


 ――やり方だけは、覚えている。


 皮膚と筋肉を、骨よりも長めに残して切る。骨を切った後、その余った肉で断面を包み、袋を閉じるようにして縫う。そうしないと、骨の先が皮を突き破ってくる。


 大きな血の管を先に括り、細かいのは押さえながら一本ずつ。


 速さがすべてだ。麻酔のない切断は、《《速い者が名医》》と呼ばれた時代がある。


 俺は、四半刻もかけなかった。


 ――喜三郎は、途中で気を失った。


 それでよかった。


          ◆


 三日目から、熱の波が来た。


 これは、予期していた。


 傷は、三日目から五日目にかけて膿む。俺は毎日、二百人分の傷を全部開けて、匂いを嗅ぎ、色を見た。


 赤く腫れて、押すと膿が出る傷は、その場で開いて洗った。


 ――《《膿は、出さねば治らない》》。


 抗生剤のない世界で、俺にできる唯一の対抗手段が、これだ。溜まった膿を出し、洗い、開けておく。


 結果は、悪くなかった。


 熱を出した者、六十一人。そのうち死んだのは、七人。


 浮野のときより、さらに良い。三百人が、布を煮る手を抜かなかったからだ。


 俺は、少しだけ安心した。


 ――安心してしまった。


          ◆


 八日目の朝。


 与一郎が、妙な顔で俺を呼んだ。


「勘十郎さま。ちと、おかしな者が」


「熱か」


「いえ。熱はござらぬ。傷もきれいで、もう起き上がって歩いておった男なのですが」


 与一郎は、首をひねった。


「――《《口が開かぬ》》と申しまして」


 俺は、立ち上がった。


 立ち上がった瞬間に、指先が冷たくなった。


「――どこだ」


          ◆


 男は、二十七、八の槍足軽だった。


 肩に浅い傷を負ったが、順調に治り、四日目には歩き、七日目には冗談を言っていた男だという。


「……く、ち、が」


 男は、俺を見て、そう言った。


 ――笑っている。


 いや、違う。


 口の端が横に引きれ、頬の筋が硬く盛り上がって、笑っているような形に《《固定》》されている。


 俺は、その顎に手をかけた。


 開かない。


 力を込めても、びくともしない。石のようだ。


「首を、後ろへ反らせてみろ」


 男が反らそうとすると――《《勝手に反った》》。


 首から背中にかけての筋が、硬く突っ張っている。


 俺は、傷を見た。肩の傷は、ほとんど塞がっていた。きれいなものだ。


 だが、その傷の周りに、うっすらと土の色が残っていた。


 ――泥。


 あの豪雨の日、この男は泥の中に倒れていたのだろう。


 俺は、目を閉じた。


「勘十郎さま」


 与一郎が、不安そうに言った。


「これは、なんの病にございますか」


「――《《破傷風はしょうふう》》だ」


          ◆


 傷に入り込んだ、目に見えぬものが出す毒である。


 その毒は、筋を緩める仕組みを壊す。


 だから筋は、縮んだまま戻らなくなる。


 最初は顎から始まる。次に顔。首。背中。そして――呼吸をする筋にまで及ぶ。


 最後には、息が吸えなくなって死ぬ。


 しかも、意識は最後まで、《《はっきりしている》》。


 現代であれば、血清を打ち、筋を緩める薬を使い、人工呼吸器につないで、数週間眠らせておく。それで多くが助かる。


 この時代には。


「……治りますか」


 与一郎が聞いた。


 俺は、首を横に振った。


「治らん」


「なにか、手立ては」


「――ない」


 俺は言った。


「傷を洗うことしかない。それは、《《なる前にやることだ》》」


 俺は、自分の言葉に殴られた気がした。


 ――俺は、二百人の傷を洗った。


 だが、この男の傷は「きれい」だった。浅かった。塞がりかけていた。


 だから、俺は《《この男の傷を、洗い直さなかった》》。


          ◆


 男は、四日かけて死んだ。


 途中から、身体じゅうが弓のように反り返る発作が起きるようになった。物音や光で誘発される。


 俺は、部屋を暗くし、静かにさせ、誰も足音を立てぬよう命じた。それしかできることがなかった。


 与一郎が、ずっと傍にいた。


 水をやり、名を聞き、国の名を聞き、親の名を聞いて、書き留めた。


 浮野の日に俺が与えた役目を、この少年は、もう自分のものにしていた。


 男が死んだ夜、与一郎は板の間の隅で、膝を抱えて座っていた。


 俺は、その隣に座った。


「――与一郎」


「……勘十郎さま」


 少年の声は、平坦だった。


「あの者は、戦で死んだのでしょうか」


「……」


「槍は受け申した。なれど、傷は治っておりました。歩いて、笑うておりました。……あれは、戦で死んだのでございますか。それとも」


 与一郎は、顔を上げた。


「――我らが、殺したのでございますか」


 俺は、すぐには答えられなかった。


 しばらくして、こう言った。


「与一郎。医者には、二種類の後悔がある」


「……」


「一つは、『やってしまった』という後悔だ。切らずともよいものを切った。飲ませずともよいものを飲ませた。……これは、まだいい。目に見えるからな」


 俺は、暗い天井を見上げた。


「もう一つは、『やらなかった』という後悔だ。……こちらは、たちが悪い。何が起きたかも、たいてい分からんまま終わる」


「今日のは」


「――後者だ」


 俺は言った。


「俺は、あの傷を『きれい』と決めつけた。決めつけて、洗い直さなかった。……それが、あの男を殺した」


 与一郎が、俺を見た。


「勘十郎さまでも、間違えるのですか」


「間違える」


 俺は即答した。


「間違えるとも。四十年やって、まだ間違える」


 言ってしまってから、しまった、と思った。


 この身体は、まだ二十四だ。


 だが与一郎は、そこを聞きとがめなかった。


 ただ、こう言った。


「……では、次からは、浅い傷も洗いまする」


「そうしろ」


「全部、洗いまする。きれいでも、洗いまする」


 俺は、少年の頭に手を置いた。


「――それが、あの男の残したものだ」


          ◆


 五月の末、俺は清洲に呼ばれた。


 首実検くびじっけんである。


 広間には、討ち取った今川方の将の首が、整えられて並べられていた。


 俺は、末席で見ていた。


 ――そして、儀式が終わった後。


 人が引けた頃合いに、俺は兄の傍へ寄り、小声で願い出た。


「兄上。……ひとつ、お許しをいただきたい」


「なんだ」


「治部大輔さまの、御遺体を」


 信長の眉が、動いた。


「――診たいのか」


「はい」


 しばらく、兄は俺を見ていた。


 それから、こともなげに言った。


「見てこい。丁重にな」


          ◆


 義元の身体は、既に清められ、白い布に包まれていた。


 俺は手を合わせ、それから、布をめくった。


 ――左足の、親指の付け根。


 そこに、それはあった。


 骨のように硬い、白っぽい塊が、関節を内側から押し上げるようにして盛り上がっている。皮膚は薄く引き伸ばされ、周りは炎症の跡で暗く変色していた。


 右足にも、小さいものがあった。


 俺は、静かにその足に触れた。


 ――《《結節》》。


 長年の痛風で、身体のかすが固まって沈着した塊である。ここまで大きくなるには、何年もかかる。


 つまり、この人は、何年も苦しんでいた。


 俺は、しばらくその足を見つめていた。


 ――勝った。


 俺の見立ては当たった。俺の言葉は兵法になり、二万五千を崩す一手になった。


 だが、俺がここで見ているものは、《《ただの、痛かったであろう足》》である。


 この人は、輿の上でこれを抱えて、揺られて、駿河から尾張まで来た。


 馳走を出されれば断れず、酒を勧められれば飲み、そして雨の中で、輿を捨てた。


 馬に乗ろうとして――乗れなかった。


 俺は、白い布を、そっと戻した。


「……お疲れさまにございました」


 言ってから、自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。


          ◆


 六月。


 清洲城で、恩賞の沙汰があった。


 毛利新介に、服部小平太に、簗田政綱に――義元の居場所を報せた功で、簗田には特に大きな加増があった。土地が動き、家格が動き、みなの顔が輝いていた。


 最後に、俺の名が呼ばれた。


「織田勘十郎」


「はっ」


「望みを申せ」


 広間が、しんとした。


 誰もが、俺が何を言うか待っていた。


 俺は、平伏したまま、こう言った。


「――《《紙を、いただきたい》》」


 沈黙。


「……なんと申した」


「紙にございます。それと墨と、《《字の書ける者を、三人》》」


 家老の一人が、こらえきれずに口を挟んだ。


「勘十郎さま。土地は。禄は。此度のお働きであれば、一郡くらいは」


「要り申さぬ」


 俺は顔を上げた。


「それがしは今度の戦で、二百三十一人を診申した。二十六人死なせ申した。うち、《《救えたはずの者が、何人かおる》》」


「……」


「なにゆえ死んだのか。何をすれば死ななんだのか。それを、《《全部書き残しとうござる》》」


 俺は続けた。


「それがしの頭の中にあるうちは、それがしが死ねば消えまする。……紙に書けば、残る。写せば、増える。増えれば、それがしのおらぬ戦場でも、人が助かり申す」


 俺は、深く頭を下げた。


「土地は、それがしが死ねば他人のものになりまする。……なれど書は、増え申す」


 ――長い沈黙があった。


 やがて、上座から、押し殺したような笑い声が漏れた。


「――くく」


 信長だった。


「勘十郎。貴様、一郡を蹴って紙を寄越せと申すか」


「はい」


「阿呆め」


 彼は立ち上がった。


「――紙は、いくらでもくれてやる。書き役は五人だ。堺から取り寄せさせる」


「兄上、五人は」


「足りぬだろう」


 信長は、こともなげに言った。


「それと勘十郎。書き上がったら、《《まず俺に読ませろ》》」


「……兄上が、医書を」


「読むとも」


 彼は、あの乾いた眼で笑った。


「貴様の言うことは、たいてい後で役に立つ。……先に読んでおいたほうが得だ」


          ◆


 その夜、俺は与えられた紙束を前にして、筆を持った。


 真っ白な一枚目に、俺は表題を書いた。


  ――《《手当書てあてがき》》


 最初の一行は、もう決まっていた。


  《《一、傷は、浅く見えても必ず洗うべし。》》

  《《 きれいに見ゆる傷ほど、油断すべからず。》》


 俺は、その一行を書き終えて、しばらく手を止めた。


 名も知らぬまま死んだ、あの槍足軽のことを考えた。


 ――いや。


 名は、知っている。


 与一郎が、書き留めた。


          ◆


  永禄三年 六月

  桶狭間の戦、傷病者二百三十一。死、二十六。

    うち破傷風一。――浅き傷を洗わざりし、我が過ちなり。

  喜三郎、左脚切断。生存。国へ帰す手立てを考えるべし。

  恩賞として、紙と墨と、書き役五人を賜る。

   ――《《書き始めたり。》》

  残り、二十二年。


今回は、勝った後の話です。


 まず止血帯について。血流を止められた手足の中では、時間とともに組織が死んでいきます。そこから漏れ出す物質は、締めているあいだは閉じ込められていますが、圧迫を解いた瞬間に一気に全身へ回ります。心臓はそれに耐えられず、不整脈を起こして止まることがあります。


 「縄を解いたら急にころりと死んだ」——戦場で古くから語られてきたこの現象は、現代の医学では再灌流障害として理解されています。地震で瓦礫に長時間挟まれた人を救出した直後に亡くなる、いわゆるクラッシュ症候群も、同じ機序です。


 ですから現代では、大量の輸液を先に行い、血液中の電解質を確認し、場合によっては透析の準備を整えてから解除します。永禄三年の手当所には、そのどれもありません。


 次に破傷風です。


 土の中にいる菌が傷から入り込み、神経の働きを妨げる毒素を出します。筋肉を緩める仕組みが壊れるため、筋肉は縮んだまま戻らなくなります。まず顎が開かなくなり、顔の筋肉が引き攣れて笑ったような表情に固定され、背中が弓なりに反り、最後は呼吸の筋肉が動かなくなって亡くなります。


 最も残酷なのは、意識が最後まで清明なことです。


 潜伏期はおおむね一週間から十日。作中の男が、傷が治り、歩き、冗談を言った後で発症したのは、この病の典型的な経過です。そして深い傷より、汚染された浅い傷のほうが危険な場合があります。酸素の少ない環境を好む菌なので、塞がりかけた傷の奥はむしろ好条件なのです。


 現代なら破傷風トキソイドの予防接種があり、発症しても血清と人工呼吸器で多くが助かります。この時代には、洗うことしかありません。しかもそれは、発症する前にしか意味がない。


 勘十郎が「きれいな傷」と決めつけて洗い直さなかった——医療における最も痛い種類の後悔を、今回は主人公に背負わせました。


 次話、桶狭間の後始末が終わり、物語は美濃へ向かいます。


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