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転生軍医、織田信勝 ―本能寺を消す処方箋―  作者: 東雲 諒杏
第二章 桶狭間の輿(第13話〜第24話)

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第十三話 雨は敵であった

第二章「桶狭間の輿」開幕です。


 ※戦傷の描写、負傷者の死の描写があります。


 勘十郎は前線に出ません。

 この日の戦を、彼は後方の手当所から聞くことになります。

 永禄三年、五月十九日。


 の刻。


 夜が明けきらぬうちに、丸根と鷲津の火は、ほとんど消えていた。


 燃え尽きたのだ。


「――落ちましてございます」


 伝令は、それだけ言って、その場に膝をついた。


「佐久間大学さま、討死。飯尾近江守さまも、ご子息とともに」


 俺は、熱田の手前に据えた手当所の板の間で、その報せを聞いた。


 助けられなかった。


 あの砦の者たちは、俺の手当所から半日の距離にいて、そして一人も運ばれてこなかった。運ばれる暇もなく、囲まれ、焼かれ、討たれた。


 ――医者に、できることは何もない。


「与一郎」


「……はい」


「湯は」


「沸いております」


「絶やすな」


 俺は、それしか言えなかった。


          ◆


 最初の負傷者が雪崩なだれ込んできたのは、の刻を回った頃だった。


 しかも、いきなり、大量に。


「勘十郎さま! 佐々《さっさ》さま、千秋せんしゅうさまの手勢が――」


 担架が、次から次へと担ぎ込まれてくる。


 佐々隼人正政次さっさはやとのしょうまさつぐ千秋四郎季忠せんしゅうしろうすえただ


 二人が独断で今川の先手に突っ込み、《《正面から潰された》》のだという。


 三百に近い人数が、まともに数倍の敵にぶつかった。両将ともに討死。


「五十……いや、六十は参ります!」


「筵を分けろ! 声を出せ!」


 俺は怒鳴った。


 そして――《《三百人が、動いた》》。


 担架組が二列に並び、運び込む順路と、空の担架が戻る順路を分けた。取り合いは起きなかった。


 筵分けの十人が、運ばれてくる者の前に膝をつく。


 息をしているか。血が噴いているか。呼べば答えるか。


 赤い布。白い布。……そして、時々、何も付けずに木陰を指す。


 湯を沸かす組は、鐘が鳴る前から沸かしていた大鍋を、休みなく回している。


 誰かが、無意識に唄っていた。


  ――ひとつ、押さえよ 離すな覗くな


  ――ふたつ、寝た者 横向けよ


 俺は、赤い筵の一人目に取りついた。


 ――そこから先の記憶は、また、手の感触しかない。


          ◆


 二刻が過ぎた。


 俺は、血で滑る手を桶で洗いながら、ようやく顔を上げた。


 ――回っている。


 俺が指図しなくても、回っている。


 止血帯を巻かれた男の額には、炭でときが書かれていた。裏返しに書いた馬鹿がいて、それでも書いてあった。


 気を失った者は、全員が横を向いていた。


 俺は、少しだけ笑いそうになった。


 ――だが、笑えなかった。


 手当所の空気が、《《おかしい》》。


 働いている者たちの顔が、蒼白だった。手は動いている。だが、目が死んでいる。


「勘十郎さま」


 与一郎が、耳打ちしてきた。


「……噂が、流れております」


「なんの」


「殿が、討たれたと」


 俺は、桶の水を掴んだまま固まった。


「誰が言った」


「担ぎ込まれた者が。……今川の旗は数え切れぬほどあるのに、織田の旗は見えぬと。佐々さま千秋さまの手勢が全滅したのを見て、あれが殿の本隊だったのだ、と」


「――違う」


 俺は、立ち上がった。


「聞け! 全員だ!」


 三百人の手が止まった。


「佐々さま千秋さまは、殿の本隊ではない! 殿は生きておられる!」


「……なれど、勘十郎さま」


 誰かが、掠れた声で言った。


「わしらは、負けておるのでは」


 ――そうだ。


 この時点で、《《誰がどう見ても、織田は負けている》》。


 砦は二つ落ちた。援軍は間に合わなかった。突出した手勢は全滅した。敵は二万五千。こちらは、かき集めて数千。


 俺は、彼らに何を言えばいい。


 ――俺は知っている、と言うのか。


 この後、兄が今川本陣を突き、義元を討ち取ることを、俺は知っている。


 だが、それを口にすることはできない。できたとしても、誰も信じない。


 俺は、大きく息を吸った。


「――お前たち、今、何人助けた」


 全員が、きょとんとした。


「数えろ。運ばれてきたのは何人だ」


「……六十七人にございます」


「死んだのは」


「……九人」


「では、五十八人生きておる」


 俺は、板の間の端から端まで見渡した。


「勝ち負けは、殿が決める。俺たちには決められん。……だが、《《ここにいる五十八人が生きているかどうか》》は、俺たちが決めた」


 誰も、何も言わなかった。


「まだ来る。手を動かせ」


          ◆


 ひつじの刻に近づいた頃だった。


 与一郎が、外から駆け込んできた。


「勘十郎さま。空が」


 俺は、外へ出た。


 ――黒い。


 北西から、墨を流したような雲が、地を這うように押し寄せていた。生ぬるい風が急に冷たくなり、木々がざわざわと裏返る。


 遠くで、地鳴りのような音がした。


 ――来た。


 俺は、拳を握った。


(降れ)


 昨夜、俺が空に念じたものが、今、来ようとしている。


 これが降れば、今川の物見は利かなくなる。鉄砲も弓も使えなくなる。兵は木の下へ雨宿りに散る。そして――


 そして。


 ――《《本陣が、止まる》》。


「勘十郎さま、かまどの火が」


「――」


 俺の思考が、そこで凍りついた。


(……しまった)


          ◆


 雨は、天が抜けたような降り方だった。


 はじけるような音とともに、視界が白く濁った。


 板囲いの手当所は、屋根が半分しかない。あとは筵と葦簀よしずで覆っただけだ。


 その筵が、瞬く間に水を吸って垂れ下がり、雨が横から吹き込んできた。


「火が消えます!」


「竈を守れ! 筵をかけろ、上からだ!」


 俺は雨の中へ飛び出した。


 地面が、あっという間に泥になった。担架が滑る。運び手が転ぶ。


 そして――


 俺が最も恐れていたことが、始まった。


 赤い筵に寝かされていた男が、《《がたがたと震え出した》》。


「――勘十郎さま。この者、寒がっております。五月にございますのに」


「《《まずい》》」


 俺は、その男の脇に手を差し入れた。


 ――冷たい。


 異様に冷たい。俺の掌のほうが、はっきりと温かい。


「与一郎! こっちへ来い! 全員に触れて回れ、脇の下と、腹だ! 冷たい者を全部拾い出せ!」


「はい!」


 俺は立ち上がり、雨の中で怒鳴った。


「――《《この雨は、敵だ!》》」


          ◆


 人は、傷から血を失うと、身体を温める力そのものを失う。


 そこへ、雨。濡れた小袖。濡れた具足。風。


 身体の芯が、じりじりと冷えていく。


 そして――ここからが、恐ろしい。


 《《冷えた身体では、血が固まらなくなる》》。


 血を止める仕組みというのは、実に精妙な仕掛けの連なりでできている。そしてその仕掛けは、身体が温かいことを前提に働いている。芯が冷えると、その働きが目に見えて鈍る。


 つまり。


「――与一郎。よく聞け」


 俺は、雨に打たれながら少年に言った。


「冷えると、血が止まらん」


「え」


「せっかく押さえて止めた傷から、またにじみはじめる。縛った先から、じわじわと漏れる。……そして血が漏れれば、身体はもっと冷える。冷えれば、もっと止まらん」


 俺は、拳で拳を打った。


「《《ぐるぐると回って、下がり続ける》》。一度この輪に入ると、ほとんど戻らん。……傷は縫えても、これは縫えぬ」


 与一郎の顔が、白くなった。


「では、どういたせば」


「輪に入れぬことだ」


 俺は、声を張り上げた。


「――全員に触れよ! これより《《温めるのが第一》》だ!」


          ◆


 俺が出した指図は、四つだった。


「一つ。《《濡れたものを全部剥げ》》。小袖も、下帯も、全部だ。濡れた布は身体を温めん、《《冷やす》》」


「二つ。乾いた布で拭え。それから、乾いた布で包め。煮た布は傷にだけ使え、包むのは何でもいい。筵でも藁でもいい、《《乾いていればいい》》」


「三つ。竈の周りに寄せろ。赤い筵の者から順に、火の傍へ運べ。屋根のある場所は全部、重い者に譲れ」


「四つ――」


 俺は、そこで一瞬、ためらった。


「布が足りぬ者は、《《人で温めろ》》」


「は?」


「動ける者、軽い者、お前たち三百人。……冷えた者の横に寝て、抱け」


 場が、しんとした。


「勘十郎さま。それは、その、身分が」


「《《死ぬぞ》》」


 俺は怒鳴った。


「今から半刻で三人死ぬ。抱けば、たぶん一人で済む。……身分の話は、生きてる者がすればいい!」


 ――動いたのは、権蔵だった。


 あの、二年前に矢を受けた足軽組頭である。今は担架組の頭をやらせている。


 彼は無言で自分の小袖を脱ぎ、震えている若い侍の横に寝転がって、その背中を抱え込んだ。


「おい、お前ら! 突っ立ってんじゃねえ!」


 それで、せきが切れた。


 泥と雨の中、三百人が、傷ついた者に覆いかぶさっていった。


          ◆


 俺は、一人の男の傍に膝をついていた。


 二十歳そこそこ。太腿を深く裂かれ、止血帯を巻かれている。額に「巳の刻」と炭で書いてあった。


 ――もう二刻近い。


 このままでは、この足は死ぬ。だが今、緩めれば出血が再開する。冷えた身体では、止まらない。


(緩めるか。……いや、まだ早い)


 俺は、その判断を先送りにした。


 男の身体を、乾いた筵で二重にくるみ、俺の羽織を上からかけた。


 冷たかった。腹に触れると、明らかに冷たい。


「……さむ、い」


「知っている」


「勘十郎、さま。おれ、死にますか」


 ――四十年で、何百回も聞いた質問だ。


 この問いに嘘をつくと、たいてい、後で自分が苦しむ。


「分からん」


 俺は、正直に答えた。


「だが、俺は帰らん。ここにいる」


 男は、少しだけ笑ったようだった。


 俺は、その身体を抱え込んだ。


 ――自分の体温を、他人に分けるという治療がある。


 最も原始的で、最も設備を必要としない、そして時に、驚くほど効く。


 四十年間、俺は一度もこれをやったことがなかった。


 病院には、加温輸液も、電気毛布も、温風の装置もあったからだ。


 泥だらけの筵の上で、他人の若い男を抱きながら、俺は妙な感慨に打たれていた。


(……こういうことか)


 医療というのは、突き詰めれば、《《人が人に触ること》》なのかもしれない。


          ◆


 雨は、四半刻ほどで上がった。


 嘘のように空が割れ、西日が差し込み、泥だらけの地面から湯気が上がった。


 俺は、震える手で男の脈を取った。


 ――ある。さっきより、はっきりある。


 腹に触れた。冷たさが、抜けている。


 俺は、そこで初めて、自分が全身ずぶ濡れで震えていることに気がついた。


「勘十郎さま!」


 与一郎が走ってきた。


「冷えた者、二十二人。うち、いま震えの止まった者――十九人にございます」


「――三人は」


「……お亡くなりに」


「そうか」


 俺は、目を閉じた。


 十九人。三人。


 もし何もしなければ、この数は逆になっていた。


          ◆


 そして、それは、突然だった。


 東の方角から――地鳴りのような音が届いた。


 いや、地鳴りではない。


 《《声》》だった。


 何千という人間が、同時に叫んでいる。


「な、なんだ」


「敵か! 敵が来たか!」


 手当所が、一瞬で殺気立った。


 俺は、板囲いによじ登って、東を見た。


 ――そして、街道の彼方に、それを見た。


 こちらへ向かって、一騎が、狂ったように馬を飛ばしてくる。


 馬上の男は、両手を振り回して、何か叫んでいた。


 声が届いたのは、その二十数える後だった。


「――《《討ち取った》》!」


 俺の膝から、力が抜けた。


「今川治部大輔義元、御首級おしるし! 殿がお討ち取りになった! 今川、総崩れ!」


 ――手当所が、爆発した。


 三百人が、泥だらけのまま、天に向かってわめいた。傷ついた者までが起き上がろうとして、押さえつけられていた。


 与一郎が、俺に抱きついて泣いていた。


 俺は、板囲いの上で、突っ立っていた。


 ――生きている。


 兄が、生きている。


 歴史は、ずれなかった。


 俺は、板の上にへたり込みそうになるのを、辛うじて堪えた。


          ◆


 その伝令が、手当所の前で馬から転げ落ちた。


 肩を斬られていた。俺は駆け寄って、傷を見ながら、詳しい話を聞いた。


 豪雨の中、兄が中島砦から突撃したこと。今川本陣が、あの雨で完全に足を止めていたこと。旗本が二千ほどしかいなかったこと。


 服部小平太が最初に槍をつけ、義元に膝を斬られたこと。


 毛利新介が組み伏せ、指を食いちぎられながら、首を取ったこと。


 俺は、傷口に布を当てながら、最後に一つだけ聞いた。


 ――どうしても、確かめておきたかった。


「一つ、教えてくれ」


「はっ」


「――《《義元公は、逃げられたか》》」


 伝令は、痛みに顔をしかめながら、答えた。


「逃げようとはなさいました。輿を捨てられて」


「……輿を捨てた」


「はい。なれど」


 男は、不思議そうな顔をした。


「――《《馬に、お乗りにならなんだ》》のです」


 俺の手が、止まった。


「近習が馬を引いてきたのを、それがしはこの目で見申した。なれど治部大輔さまは乗られず、抜刀して、歩いて退がろうとされた。……あれだけの大将が、なにゆえ馬を捨てて歩かれたのか」


「……」


「そこを、追いつかれ申した」


 ――俺は、答えを言わなかった。


 言う必要が、なかった。


 《《足の親指の付け根が、風の当たるだけで激痛を起こす》》。


 その足で、あぶみは踏めない。


 馬に乗るには、痛む側の足に体重をかけて跳ね上がらねばならない。あの痛みの最中に、それができる人間はいない。


 だから彼は、馬を捨てた。


 だから彼は、歩いた。


 だから彼は、追いつかれた。


          ◆


 夕暮れ。


 俺は、泥まみれの板の間に一人で座り、乾いた手拭いで顔を拭っていた。


 周りでは、まだ手当てが続いている。唄が聞こえる。誰かが笑っている。


 ――勝ったのだ。


 俺は、両手を見た。


 この二年半、この手は人を助けてきた。血を止め、水を飲ませ、飯を変え、井戸を埋めた。


 そして今日。


 この手が――《《人を一人、殺した》》。


 俺は、義元の顔を見たことがない。声も知らない。触れたこともない。脈も取っていない。


 それでも俺は、彼の身体の内側で何が起きているかを、正確に言い当てた。


 そして俺の見立ては、そのまま《《兵法》》になった。


 医術は、人を生かすためのものだ。


 ――だが、《《人の壊れ方を知る術》》は、人を壊す術と、たった一枚の紙で隔てられているだけらしい。


 俺は、膝の上で拳を握った。


 これから先、俺は何度でも敵を診ることになるだろう。武田を、朝倉を、毛利を、本願寺を。


 そのたびに、俺は今日と同じ手を使う。


 ――そのときに、俺が俺でなくなっていないかどうか。


 それだけが、少し、怖かった。


「勘十郎さま」


 与一郎が、椀を差し出してきた。


「塩湯にございます。……お飲みになっておられませぬ」


 俺は受け取って、一口飲んだ。


 ぬるくて、しょっぱくて、後から甘い。


 二年半前、俺がこの世界で最初に作らせたものと、まったく同じ味だった。


          ◆


  永禄三年 五月十九日 とりの刻

  傷病者、この時までに二百三十一。死、二十六。

    うち、冷えによる者三。――雨は敵であった。

    温めて戻りし者、十九。

  症例・今川治部大輔義元。

    輿を捨て、馬に乗らず、歩いて退がられたる由。

    ――《《見立ては、当たっていた》》。

  残り、二十二年。


今回の医学的な軸は、低体温です。


 出血した人は、体温を保つ力そのものを失います。そこへ雨と風が加わると、体の芯が急速に冷えていきます。そして厄介なことに——血を止める仕組みは、体が温かいことを前提に働いています。芯が冷えると、その働きが目に見えて鈍るのです。


 冷えるから血が止まらない。血が漏れるからもっと冷える。この悪循環に入ると、傷そのものは大したことがなくても人は亡くなります。現代の外傷医療では、低体温・アシドーシス・凝固障害の三つを「死の三徴」と呼び、何よりも避けるべきものとして扱います。


 ですから重症の外傷患者に対して、加温は止血と同格の治療です。濡れた衣類はすべて取り去る(濡れた布は体を温めず、むしろ奪います)、乾いたもので包む、そして体温を分け与える——これらは装備のない場所での低体温対処として、現在も有効な手段です。


 勘十郎が雨を望み、その雨が彼の患者を殺しにかかる。この皮肉が、今回書きたかったことでした。


 そして今川義元について。


 史実では、義元は輿を捨てて退がろうとしたところを討たれています。あれほどの大将が、なぜ馬に乗らなかったのか——これには諸説あり、混乱のためとも、輿を用いる格式ゆえとも言われます。


 本作では、これを前話の見立てへの回答としました。足の親指の付け根が激痛を起こしているとき、鐙を踏むことはできません。馬に乗るには、痛む側の足に全体重をかけて跳ね上がる必要があるからです。


 あくまで創作上の解釈ですが、そう考えると、あの日の出来事は不気味なほど筋が通ります。


 次話、勝った後の手当所を書きます。戦の本当の死者は、たいてい、戦の翌日から出はじめます。


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