第8話
遠い意識の底から、心地よい微振動が伝わってきた。
ガタガタッ、ゴトゴトッ、と……まるで何かの乗り物に揺られているかのような感覚だ。
深い眠りから覚めきらない脳で、俺はその感覚に明確な不自然を覚えていた。
なぜなら、俺の人生において、こんな『心地よい振動』を伴う仮眠など、久しく経験したことがなかったからだ。
開発が炎上している最中、俺が眠る場所といえば、寝過ごさないためにあえて選ぶ冷たいオフィス。床の上、あるいはキーボードを枕にしたデスクの上と相場が決まっていた。
ベッドや敷布団、ましてやこんな快適なスペースで、この俺が寝るはずがないのだ……。
……あ、待てよ。そういえば俺、過労死して異世界に転生したんだったな……
そこまで思考が追いつき、それならこの環境もあり得るかと納得する。
違和感を覚えつつも、重い瞼をうっすらと開けると、隙間から少しの光が差し込んできた。
だが、視界に飛び込んできたのは、見慣れたアレクサンド公爵家の豪華な天井ではなかった。
知らない天井――というよりは、粗末な麻布のようなものが俺の上に覆い被さっている。
窮屈さに顔を横に向けてみると、どうやら俺は編み込まれたバスケット(籠)のようなものの中に、文字通り『梱包』されている状態なのが分かった。
ガタガタと絶え間なく揺れているこの振動の正体は、馬車か何かの荷台か……?
それに、この肌をチクチクと刺激するような、気持ち悪い魔力は何だ……? 感じた事がない魔力…。
脳内で現状の考察を進めていると、籠のすぐ外側からボソボソと低い声が聞こえてきた。
男たちの声だ。明らかに怪しげな会話が漏れ聞こえてくる。
『――手筈通り、伝書鳩でクライアントに連絡を完了しました。』
『上出来だ。このまま、ガキをアジトへ連れていきやすかね。』
『公爵家のガキをこんなに簡単に掠め取れるとはな。クライアントも大喜びでしょうなァ』
『無駄口を叩くな。足がつく前に、さっさといきやすよ』
会話の内容から、状況を理解した。
……悲しきかな。生まれ変わって数ヶ月にして、俺は見事に『誘拐』されたらしい。
誰が何の意図で俺を誘拐したのかはサッパリ分からないが、このまま大人しくアジトへ連行されるのは、あまりにも悪手。この場に留まるのはまずい。
即座にこの籠から脱出したいところだが、いかんせん周りの状況が何も分からない。
布に覆い被さった状況で、赤ん坊とは言え騒いでもいい事は無さそうだな。
せめて、外の視界だけでも確保できたら――。
……いや、俺にはあるじゃないか『最適化』が。
だが、まだ実践として不十分だし…もし失敗したら…と思考をかき乱した。
やるしかない。
これしか、この状況を打開する方法がないのだ。
魔力に注意しながら籠の中から操作し、俺は音もなく術式を展開した。
ウォーターボールからの形状変化――
籠の網目の隙間から、手乗りサイズの、透明な水の小鳥を慎重に外へと這い出させる。
前世のブラック企業時代、一歩間違えれば会社が傾くレベルのとんでもない誤操作をやらかしそうになった時と同じくらい、心臓が爆発しそうな緊張感が走った。
無事に外へ出せた。すかさず固有魔法『最適化』を噛ませ、映像の同期を開始する。
――視界共有アクティブ
水の小鳥の眼球を通して、俺の脳内に外の景色がクリアに映し出された。
どうやら俺の推測通り、俺は移動中の馬車の荷台の上にいるようだ。
荷台にはカモフラージュ用の積み荷として、リンゴや野菜の入った木箱が大量に積まれており、その雑多な荷物の一つ、バスケットの中に俺がパッキングされているらしい。
小鳥の視点をゆっくりと前方に巡らせる。
御者台には、黒い服に身を包んだ男が二人、並んで座っていた。深くフードを被っているため顔はよく見えないが、視線は正面の進行方向を向いており、後ろの荷台には全く意識を割いていない。
決してバレないよう、細心の注意を払いながら、水の小鳥を馬車の屋根の死角へと静かに着地させた。
上空、および馬車の周囲を完全に見渡せるこのポジションなら、敵の動向や周囲の地形をリアルタイムで監視し続けることができる。
よし、ここから動向を確認して、隙を見て抜け出そうなタイミングを測るぞ……
ずっと馬車を走らせ続けることは不可能なはずだ。ガソリン車じゃあるまいし、生物である以上、必ずどこかのタイミングで馬を休ませるインターバルがあるはず。
その一瞬の隙を狙って、籠から抜け出し、渾身の『ハイハイ』で全力逃走してやる。生後数ヶ月を舐めるなよ…
――そう思っていたのだが、なかなか馬車が止まる気配がない。
しばらく経っても、馬はまるで疲れを知らないサイボーグかのように、恐ろしい速度で走り続けている。
……これも何かの魔法か? 馬は、汗ひとつかいてないで同じペースで走り続けているし…
まずい、非常にまずいぞ…
このままアジトまでノンストップで運ばれたら詰む。どうにかして、強制的に馬車が止まるタイミングを作らなきゃならない。
昨日の検証した魔法を応用するか?
蛇を馬の足に噛みつかせるか、それとも鼠を走らせて馬を驚かせるか、鳥を使って視界を塞ぐか……どうやって止める? バレずに実行する方法とは――
俺がそんな脱出作戦を脳内で必死に組み立て、思考を巡らせていた、その時だった。
設置した水の小鳥の索敵センサーが、不意に、馬車の遥か後方――地平線の彼方から接近する『何か』を検知した。
……? なんだ、あれは……?
注視して、後方の景色を映し出す。
それは、音速を超える程の凄まじい速度、文字通り一直線に、『何か』が飛んでくるのがわかった。
あまりの非常識な速度とプレッシャーに、俺の脳内が警告アラートが真っ赤に点滅し始める。
敵の増援? いや、明らかに違う。であればこんなやり方で誘拐をするはずがない、堂々と来ればいい話だ……
ならば、あの恐ろしい魔力の塊は何だ。
なんだか分からないが――この予測不能なエラーに乗じて、逃げ出すしかない……!




