第20話
メアリーが屋敷を離れてから、2日が経過した。
業務の引き継ぎは完璧なまでに滞りなく行われており、身の回りの世話はセレスとリリアの母娘が手際よくこなしてくれている。
実務のほとんどはベテランであるセレスが切り盛りしているものの、娘のリリアも年齢に似合わずしっかりとできる限りの雑務をこなしていた。
朝の身支度から始まり、過酷な訓練のサポート、食事の準備から後片付けまで、そのオペレーションは一切の無駄がなく実にスムーズだ。
あとでセレスに話を聞いたところ、以前も別の貴族邸でメイドとして働いていた経験があるらしく、その圧倒的な手際の良さにも深く納得がいった。
……もっとも、メアリーによって課せられた「不在中の自主トレメニュー」のほうは、全く終わる気配を感じさせない鬼のような分量だったが。
「まだだ……まだノルマが完了していない……っ!」
限界を超えて動き続けた結果、吐き気を何度催したことか。メアリーが不在であっても、彼女が遺していったスパルタ課題の厳しさは微塵も変わっていなかった。
ちなみに、セレスは通常の屋敷の仕事も兼任しているため、日中の訓練見張り役としてはリリアがそばに控えることになっていた。
最初こそ、リリアは真面目に俺の訓練をじっと見つめていたのだが……数時間も経つと退屈してきたのか、いつの間にかコクコクと頭を揺らし、すっかり深い眠りに落ちてしまっている。今では完全に、リリアの貴重な「お昼寝タイム」と化していた。
四六時中、監視されているよりは、寝てくれている方が精神的に圧倒的に楽なのだが。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ! やっと、今日の分の訓練を完走した……!」
肺が焼き切れるような痛みに耐えながら、俺は力なく大の字になって芝生へと倒れ込んだ。
すると、完璧なタイミングでセレスが冷たい水と清潔なタオルを持って駆けつけてくれた。
「ユークリッド様、本日もメニュー、本当にお疲れ様でした」
「はぁ、はぁ……ありがとう、セレスさん……助かるよ」
「それにしても……リリアがいつも本当に申し訳ありません。すぐにお仕事に戻らせますね」
セレスは申し訳なさそうに眉を下げると、スヤスヤと熟睡しているリリアの肩をパタパタと揺り動かして無理やり叩き起こした。
「い、痛たた……!? お母さん、私、ちゃんと起きて監視してましたよ!?」
「寝言は起きてから言いなさい、リリア」
「うぅ……」
慌てて涙目を浮かべるリリアの姿を見ながら、俺は苦笑を漏らす。
「いいんだよ、セレスさん。ずっと見張られているよりは、こっちの方が気楽で安心するからさ」
「……ふふ。ユークリッド様は、時々すごく大人びた、まるで人生経験の豊富な方のような発言をされますよね」
その言葉を聞いた瞬間、俺の背筋にビクッと強い電流が走った。
「そ、そうかな……ははっ、気のせいじゃないかな……っ!」
「はい。私よりもずっと年上の、百戦錬磨の紳士とお話ししているような、そんな不思議な錯覚に陥ってしまうことがあります」
「へ、へぇ……! そ、そういえば、今日の晩ご飯は何だったっけ……!」
あからさまに不自然なテンションで、俺は必死に話題を別の方向へとすり替えた。
「ふふふ……本日のメインディッシュは、特製のハンバーグですよ」
「やったぁ……!」
冷や汗を拭いながら、俺は心底ホッとした息を吐き出すのだった。
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その裏で――
静まり返った屋敷の厨房。
大勢の料理人や使用人たちが忙しく夕食の準備を進めている中、執事見習いの「ダラス」が、黙々と作業をしていた一人のメイドの背後にスッと忍び込んだ。
ダラスは彼女の耳元に顔を寄せると、ごく小さな声でボソボソボソと呪文のような言葉を囁きかける。
瞬間、そのメイドの瞳からピタリとハイライトが消え去り、完全に感情の失せた目の状態――「洗脳状態」へと移行した。
「これを……タイミングを見て、ユークリッド様の夕食に混入させてください」
ダラスから手渡された小瓶を受け取り、メイドはロボットのようにこくりと頷いた。
「はい……承知いたしました」
「計画のスケジュール通り、完璧に頼みますよ」
洗脳された虚ろなメイドは、冷酷な笑みを浮かべるダラスの指示通り、出来上がったハンバーグの中に特殊な睡眠薬をこっそり裏ごしするように混入させたのであった。
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そして――皆が完全に寝静まった、深夜。
屋敷の廊下を音もなく歩いていた執事見習いの男は、ふっと足を止めると、顔に貼り付けていた偽りの仮面(変装)を剥ぎ取り、本来の冷酷な髭面の顔――ユティの姿に戻った。
「ここの屋敷のまかないご飯は、名残惜しいほど美味かったが……さて、いよいよ最終ミッションを始めますか」
ユティは闇に溶け込むようにユークリッドの自室へと侵入した。
「『闇の精霊よ、すべての光を遮断せよ。我が領域を完全なる暗黒で満たせ』――【ダーク・フィールド】」
呪文の詠唱と共に、ユークの寝室の一室だけが、音も光も完全に吸い込まれる漆黒の暗闇へと包み込まれた。
昼間の過酷なフィジカル訓練によって肉体も精神も限界まで疲労しきっていた上、夕食のハンバーグに仕込まれた強力な睡眠薬が完全に作用していたユークは、ベッドの上で深く眠りこけている。
そのため、ユティにふっと軽々と体を持ち上げられたことすら、彼は全く気づくことができなかった。
(よし、完璧だ……。万が一にも、坊ちゃんに直前で抵抗でもされたら任務に支障が出るが……これだけ盛っておけば安心だな)
「そのまま、いい夢を見ていてね……お坊ちゃん」
ぐっすりと眠ったままのユークを器用に担ぎ上げると、ユティは音もなく窓から抜け出し、待たせていた仲間のもとへと走り出した。
計画の障害となる最強のメイド・メアリーは不在。
屋敷のセキュリティは完全に無力化され、抵抗の余地すら与えない完全犯罪の奇襲。
こうして、転生者アレクサンド・ユークリッドの「二度目の誘拐劇」は、何一つ狂いなく、完璧に完了してしまうのであった。




