第18話
「ゼェ……ゼェ……暑い……っ!」
照りつける太陽から容赦なく降り注ぐ日光が、肺に送り込む空気をさらに熱く、息苦しくさせる。
訓練を始めてから、気がつけば一ヶ月は経過していた。
以前、ただの幼児のフリをして部屋に引きこもり、本ばかり読んでいたあの頃と比べれば、俺のフィジカルスペックは格段に向上している。心肺機能も筋肉の耐久値も、初期のバグまみれのクソザコ状態から、ようやく実用に耐えうる肉体へとアップデートされつつあった。
だが、悲しいかな。こちらに少しでも余裕が出てきたことを察知すると、この鬼教官は容赦なく、より強度の高い超過負荷を要求してくるのだ。
きつい……
前世のブラック企業のデスマーチよりきつい。今からでも、もう少し手加減というか、下方修正を要求できないだろうか……。
「メアリー、もう限界だよ…。そろそろ終わりにしよう……? 今日のノルマは全てクリアしたはずだし……」
「ユークリッド様、あとワンセットだけ、一緒に頑張りましょう」
「……もう、そんなこと言うの5回目だよ?」
何故だろうか。明らかに、ここ数日のメアリーの訓練メニューは、いつも以上に過酷で、どこか焦っているように厳しかった。
「もう……限界……ッ!」
ついに、身体を支える両足の膝がガクガクと激しく震え、肉体の限界を迎えた。俺はその場に膝をつき、呼吸を荒く乱しながら、体中から滝のように噴き出す汗を芝生へと滴らせた。
「……ッ! すみませんでした」
すると突然、メアリーがハッとしたように目を見開き、深く頭を下げて謝罪をしてきた。
「私としたことが、完全に気が抜けていたようです。ユークリッド様の限界値を見誤り、いつもより厳しく高負荷をかけてしまいました……」
そう言って、申し訳なさそうに俺を見つめるメアリー。
言われてみれば、ここ数日の彼女は、どこか上の空だった。いつもの精彩で完璧、一切の無駄がないシゴデキな動きも、少し影を潜めていたように思える。
その原因を徹底的に追及したいところだったが、今の俺にはそれどころではなかった。
「み、水を……」
「ああっ、私としたことが……! 今すぐお持ちします、少々お待ちください!」
慌てて屋敷へと駆け込んでいく彼女の後ろ姿を見送る。
しばらくすると、彼女は清潔なタオルと、キンキンに冷えた水を持って戻ってきた。
冷たい水を一気に流し込む。徐々に体温が下がり、止まらない汗も次第に収まってくると、ようやく会話をするための余裕が戻ってきた。
(よし、ここ数日、彼女の様子がおかしかったワケを聞いてみよう)
そう思って口を開きかけた瞬間、それよりも早く、メアリーのほうから静かに言葉が発せられた。
「ユークリッド様……一週間ほど、お休みをいただきたいのです」
いつもより少しだけ硬い声。しかし、真っ直ぐに俺の瞳の奥を見つめて話す彼女の眼差しには、並々ならぬ、揺るぎない覚悟のような光が宿っていた。
それを見た瞬間、俺の頭の中に浮かんでいた「どうして?」「どこに行くの?」という無粋な質問は、すべて一瞬で消え去った。
「うん、わかったよ」
俺が即座に、何の追及もなく了解の返答を返すと、メアリーは意外そうに小さく目を見開いた。
「……その、理由は……聞かないのですか?」
最初は聞くつもりだった。でも、ここ数日の彼女の上の空な様子、そして今、何か重大な決意を胸に秘めて目の前に立っている彼女の姿を見て、無闇矢鱈にプライベートな領域へ侵入するのは違うと判断した。
「うん。メアリーが、僕に話してくれる時を待つよ」
前世でいくつもの修羅場をくぐり抜けた、元社畜なりの「大人の配慮」というやつだ。
すると、メアリーは今度は目をぱちくりと丸くさせ、それから――本当に嬉そうに、フフッと柔らかく笑った。
「ふふふ……たまに、ユークリッド様とお話ししていると、まるで中身が大人の方と対話しているような、不思議な感覚に陥ってしまいます」
「……ッ!」
その言葉は、完全に予想外のクリティカルヒットだった。
冷や汗がドッと吹き出しそうになるのを、俺は必死でこらえた。
今度は、俺のほうが上の空になってしまいそうだ。
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その日の夜。
静まり返った屋敷の調理場に、数人の使用人たちが奇妙な様子で集まっていた。
そのうちの1人を除いて、彼らは全員、瞳からハイライトが消え去り、感情が希薄な様子で遠くを見つめている。完全に「ハッキング状態」だった。
その操り人形の一人であるメイドが、感情の乗らない声でポツリと喋り始めた。
「来週から一週間……メアリーは、この屋敷を離れるようです……」
その情報が調理場に落ちた瞬間。
「ついに……ッ! ついに、この時が来たぞ……!!」
薄暗い影から現れた髭面の男――ユティは、両拳を固く握りしめてガッツポーズを取り、その目にじわりと涙さえ浮かべていた。
長かった……本当に、長かった……!
2年以上という、気の遠くなるような時間をかけて、この千載一遇のチャンスを待ち侘びていたのだ。
あの「メアリー」という、化け物がこの屋敷から消えるタイミングを、彼らがどれほど渇望していたか。
ユークリッド誘拐計画。
その成功率を限りなく100%に近づけるためにおいて、最大の障害がメアリーの存在だった。
戦うのは論外。もし鉢合わせにでもなれば、あの怪物の追撃を振り切って逃げ切れる自信など、ユティには万に一つもなかったのだ。
「こんな、都合の良すぎるラッキーな展開、そうそうないぞ……! すぐにこのことをクライアントに報告しなければ……!」
メアリーが不在。これだけで、難攻不落だったセキュリティは一気にザルと化す。
ユークリッド坊ちゃん一人を掠い出すなど、今の俺たちにとっては赤子の手をひねるようなものだ。
「ヒャハハ! 一気にイージーモード突入じゃねえか……っ!」
興奮を抑えきれないユティは、急いで暗号化した手紙をしたためると、夜の闇に紛れて伝書鳩を空へと送り出した。勝利のロードマップは完全に描けた。
調理場で不気味に笑う声が響いていた。
「あははははは……」
「ははは……」
「ゴホッ、ゴホッ……! やべっ、気管に入った……!」
急に激しく咳き込んだユティは、胸を何度も叩きながら、テーブルの上に置かれていた水を大慌てで一気に飲み干した。
「ふぅ……っ! 誘拐する前に私が地獄へ誘拐されそうだった……」
危うく自滅しかけたユティは、気を取り直して、次なるターゲットである使用人用の美味しそうな夜食に手を伸ばした。そして、それを口に運んだ瞬間、その目をこれでもかと輝かせる
「しかし……この屋敷の料理、めちゃくちゃ美味いなっ!!」
敵地の最高クオリティな飯を噛み締めながら、ユティは迫り来る「来週」に向けて、一人静かに不敵な笑みを浮かべるのだった。




