第17話
「もう一歩! ほら、足が止まっていますよ、ユークリッド様!」
「はひ……ふへ……っ!」
朝の意気込みはどこへやら、今にも気絶しそうな状態で芝生を這っていた。
メアリーはいつもの一糸乱れぬ鉄壁のメイド服ではなく、動きやすさに特化したジャージ姿。長い金髪をポニーテールに結い上げ、手にはどこから取り出したのかすら分からない、やけに使い込まれた木刀が握られている。
どんな服でも完璧に着こなす彼女のビジュアルに、最初は見惚れる余裕もあったのだが……今やその木刀が死神の鎌にしか見えない。
「もう……限界……っ!」
ついに膝の制御が完全に利かなくなり、俺は無様にバタンと芝生へ倒れ込んだ。土と草の匂いが鼻腔をくすぐる。
「立ちなさい! 訓練が終わるまで寝転ぶのは禁止です!」
「ヒッ……!」
風を切る凄まじい風切り音と共に、俺の耳元からわずか数ミリの場所に、容赦なく木刀が振り下ろされた。芝生の千切れる音がリアルすぎて心臓が跳ね上がる。
「はい……っ!」
「返事は良いですが、寝転んだペナルティです。残り3周追加します!」
「そんなぁ……! 俺は魔法だけを使っていたいのに……っ!」
「無駄口を叩いているとさらに追加しますよ……?」
メアリーの冷徹極まりない、しかし一切のブレがない美しい笑顔が怖い…
「すみません……っ!」
泣き言を言う体力すら惜しみ、俺は鞭打つように小さな3歳児の身体を再び前へと進めた。
――時計の針を、わずか5時間前へと巻き戻す。
「おはようございます、ユークリッド様。今日はいい天気ですね」
「おはよう、メアリー」
いつものようにカーテンを開け、完璧な一礼を見せるメアリー。そんな、いつも通りに始まるはずの穏やかな朝だった。すると、急に神妙な面持ちで俺の前に真っ直ぐと立ち、静かに、しかし重みのある声で喋り始めたのだ。
「ユークリッド様……本日から、魔法の訓練を始めましょう」
「魔法の訓練……ッ!?」
その言葉を聞いた瞬間、俺は飛び上がるようにベッドから這い出た。
待ちに待った異世界ファンタジーのメインイベントだ。直ぐにでも、実戦レベルの魔法をぶっ放してみたいとずっと思っていた。俺の声は、期待で思いきり上擦っていた。
「実は……私は魔法師です。それも、ユークリッド様と同じ『雷魔法』を持つ魔導士なのです」
メアリーは、自身の右手をそっと胸に当てて告白した。
「本来であれば、高名な魔法の講師を外部から招いて訓練を行いますが、固有魔法関連となると話は異なります。自分で手探りで学ぶか、同じ固有魔法の構造を理解している者から知識を継承してもらうしかありません。だからこそ、私の持つ雷魔法の技術や知識、そのすべてを貴方にお教えします。どうか……途中で折れることなく、ついてきてください」
いつもは完璧なシゴデキメイドとして一歩引いている彼女が、これほどまでに熱を帯び、改まって話す姿は初めて見た。俺は圧倒され、完全にポカンと口を開けてフリーズしていたんだと思う。
「あの…ユークリッド様? 大丈夫ですか……?」
心配そうに覗き込んできたメアリーの顔を見て、俺はふと我に返り、勢いよく頷いた。
「わかったよ……メアリー! 僕からもお願いするよ……手加減することなく、遠慮なく鍛えて欲しい……‼︎」
この時の俺を、タイムマシンがあるなら全力で殴り飛ばして止めたい。
3歳児にして圧倒的な魔力量を持ち、初級魔法を極めた事もあった。
その為か、俺は魔法に対して「ある程度の自信」があった。だからこそ、そんな大口を叩いてしまったのだ。
しかし、その直後に、自分の見積もりの甘さを血を吐くような思いで後悔することになる。
朝食後、動きやすい服装に着替えて、俺は広大な屋敷の庭へとたどり着いた。
少し遅れてやってきたメアリーは、長い金髪を高く結い上げ、いつものクラシカルなメイド服ではなく、仕立ての良いジャージ姿だった。いつもと全く違うアクティブな装いだが、やはりスタイルの良さも相まって、どんな服を着ても恐しいほど様になる。
「それじゃあ始めましょうか……」
「はい! メアリー先生!」
俺が期待に胸を膨らませてそう呼ぶと、メアリーは少し意外そうに目を瞬かせ、それから嬉しそうに口元を綻ばせた。
「ふふふ、そんなふうに呼んでくださるんですね。光栄です」
ここまでは、実に微笑ましい師弟の空気感だった。
「それじゃあ、ファーストフェーズですので、まずは小手調べの少しずつから始めましょうか。――腕立て250回、スクワット250回、そしてこの屋敷の庭(外周1キロメートル)を10周、走ってもらいましょうか」
「……え?」
一瞬、耳を疑った。3歳児に要求する数値としては、完全にバグを起こしている。それに、これは魔法の訓練じゃ…
「え、あの……魔法の訓練じゃ、ないの……?」
「ふふふ、何をおっしゃるのですか。立派な魔法の訓練ですよ?」
「えっ、だって、これって……筋トレとランニングじゃ……」
「だって、じゃありません」
メアリーは優しく微笑んだまま、その手に持った木刀をピシッと構え、鋭く振り翳した。その構えの美しさと、そこから放たれる無言のプレッシャーは、とてもメイドのそれではない。
これ以上、どんな反論も、俺の口からすることは許されなかった。
そして現在に至る。
やっと……終わった……
ペナルティを含めた全工程の訓練が終了した瞬間、俺の意識は半分飛びかけていた。足元はガクガクとフラフラで地につかず、喉も砂漠のようにカラカラだ。
水を…頼む、水をくれ……。
「お疲れ様でした。よくここまでついてきてくださいました」
限界を迎えてシャットダウン寸前の俺の小さな身体を、メアリーが優しく支えてくれた。それと同時に、冷たい水と清潔なタオルが差し出される。
喉を鳴らしながら、溺れるように勢いよく水を飲み干し、ようやく深く一息を吐き出した。
多少の無茶な訓練は覚悟していた。
だが、まさか座学や魔力操作ではなく、完全なゴリゴリのフィジカルだとは夢にも思っていなかった。
とりあえず、一度屋敷に戻ろう……。
そう思ってリターンを試みたのだが、俺の足は生まれたての子鹿のように情けなく震え、まともに自立することすら困難な状態だった。一歩目で早くもバランスを崩し、俺は再び無様に芝生へと倒れ込んだ。
「しばらく、お休みになってください」
すぐ耳元で聞こえた、いつもの穏やかで優しいメアリーの声。それを最後に、俺の意識は完全に限界を迎え、深い意識の闇へと落ちていった。
……。
……。
……。
ん……。
どのくらい眠っていたのだろうか。
ゆっくりと目を開けると、視界いっぱいに、美しい金髪とメアリーの顔が飛び込んできた。
どうやら俺は、芝生の上でメアリーにずっと膝枕をされていたらしい。太ももの柔らかさと、良い香りが鼻腔をくすぐり…
「ごめん……ッ!!」
俺が意識を失ってから、目を覚ますまでずっとこの体勢でいてくれたのだろう。申し訳なささと謎の気恥ずかしさ(※中身は大人)で、俺はバッと跳ね起きるようにして直ぐにその場から起き上がった。
「あぁ……」
その瞬間、メアリーがなぜか、ほんの少しだけ残念そうな顔をしたのを俺は見逃さなかった。もっとこのままでいたかったのだろうか。
「コホンッ。……昼食の準備ができております。お着替えの後に向かいましょう」
メアリーは小さく咳払いをすると、一瞬でいつもの完璧なプロフェッショナルメイドの表情に戻った。
「ありがとう……」
「それと、今日はお疲れ様でした。――明日も頑張りましょうね?」
「えっ……」
明日も? この地獄の訓練を、明日もまたやるっていうのか……?
余りにも絶望した表情がそのまま顔面に出てしまったのだろう。
それを見たメアリーは、フフッと小さく、楽しそうに肩を震わせていた。




