乾いたミイラは蘇らない2
初めて、優介から安川さんのことを聞いた日から、安川さんの話を聞かされることが増えた。安川さんは植物が好きらしいとか、運動が苦手だけれど一輪車に乗るのが得意らしいとか、どうでもいい安川さんの情報が、僕の頭の中に残っていく。全然要らないから、その情報……と思っても、優介があんまり嬉しそうに話すものだから、僕は適当な相槌を打っていた。相槌を打つたびに、自分の中にある報われないだろう気持ちと、安川さんへの対抗心が募っていった。
しかし、ある日から安川さんの話はなくなった。
優介は、考え込むことが増えて、僕と過ごしている間、あまり笑わなくなった。クラスのカーストトップらしく、クラスメイトの前や、担任の教師の前では、いつも通りを装っている。わざとらしく上がっている口角は、優介の綺麗な歯並びを際立てていた。僕の前では、その歯列は見えなくて、それに不安になってきたころ、優介が言った。
「千博は、父さんと母さんの、どちらかについて来いって言われたら、どうする?」
か細い声だった。初めて安川さんのことを聞いた時のように、小さく抑えた声は、ひどく頼りなかった。
「僕には、選択肢はない。父が問答無用で僕のことを連れていくと思う。」
優介は、僕の家庭に関して、そんなに詳しくない。ただ、父親が医者で教育熱心だということくらいしか伝えていないからだ。家庭のことは極力話したくなかった。優介の家族は、温かくて、僕の家庭とは違う。その違いが、優介と僕の間に溝を生んでしまうんじゃないかと思った。育ってきた環境の違いというものは、埋められないものだと、幼かった僕でもわかっていた。
優介は、僕の答えを聞いて、そっかと呟いた。その横顔は、苦し気だった。
「優介は、どうしたいんだ。」
「わからない。どっちも大事で、大切で、どっちも……」
どっちも大事だという優介の気持ちには上手く共感が出来なかった。僕は、どっちでもいい。どちらを選んでも、窮屈な環境が変わるわけではないし、どちらに対してもそんなに愛着を持っていないから。だが、メリットを考えるなら、父親だと思う。父親は、経済的優位にいる。食べるものにも、生きていくのにも、ついていけば困ることはないだろう。叩かれたり暴言を吐かれたりするというデメリットはあるけれど、大体は職場にいる。数時間我慢すればいいだけだ。
「子どもを育てるのには、養育費がかかるんだ。選択肢があったとしても、僕は父親についていくよ。」
「よういくひって?」
「子どもを育てるのに、必要な金のこと。子どもを大人にするまでに、三千万はかかると言われている。」
調べたときに、愕然とした。家を出れる年になったら、絶対に全額返して家庭とは縁を切ってやると考えていたのに、その金額を返すには何年もかかるということがわかって、恐ろしくなった。今させられている習い事や、家庭教師代なんかも含めれば、もっとかかっているだろう。そんな大金をかけて育てられていて、親に対して嫌悪感を抱いているという自分が怖かった。
「優介とだけ、生きていけたらいいのに。」
思わず口から出てしまった言葉に、慌てて蓋をしても、もう優介の耳にまで届いてしまっていているだろう。反応が怖くて、優介の顔は見れなかった。こんなこと言ったら、気持ち悪がられる。きっとそうだ。それくらい、人との関りが希薄で、人の感情の機微に疎い僕でもわかる。なんでこんなこと言ってしまったんだろう。そう思ってももう遅い。
「世界に俺と千博とだけだったら、悩むこともないのにな。」
優介は、僕を否定しなかった。ただ、そう言って少し照れ臭そうに笑った。
優介の母親が亡くなったと聞いたのは、そんな話をして、あまり時間が経たないうちだった。優介は、学校を数日休んだ。久しぶりに学校に来た優介は、歯を見せて笑うことがなくなった。
「千博、こっちに来なさい。」
「はい。」
僕を呼び出した父の手元には模試の成績表があった。模試の成績には、問題はないはずだ。いつもと同じように、それなりに良い成績は取っていたはずだ。父に呼び出された理由は、きっと成績についてではない。志望校の選択についてだ。
「千博、なぜ志望校を空欄にした。」
「……近所の公立に進学しようと思いました。」
平手が飛んできた。バシッと大きな音と、首が振れるほどの衝撃が僕を襲った。頬ではなく、頭を叩くあたり、父らしいと感じる。父は、老人たちの信頼から成り立つような商売をしている。だから、決して見えるところには手を振るわない。跡が残りそうなくらいに殴ったときには、自ら手当をする。服の下、きっちりと丁寧に腹部に巻かれた包帯は、父の手汗がしみ込んでいるように思えて、汚れ切ったものに思える。
「理由は、なんだ。言ってみろ。」
聞く気があることに驚いた。しかし、努めて冷静に声を作った。
「もう、中学の範囲までは勉強を終えています。遠くの私立に進学して、通学や課外活動に力を注ぐよりも、近所の公立に行って、高校までの範囲を終えてしまおうと考えました。また、僕の将来は、お父さんの病院を継ぐことです。近所の方々との関係をうまく築くことの方が、メリットが大きいかと。」
正直無理があるかと思ったが、父の平手は飛んでこなかった。後から知ったことだが、少し車で行った先にできた内科の院長は、この街の出身らしく、街の人との関係のよさから、評判が上々だったことが関係していたらしい。
「……きちんと考えがあるなら構わない。しかし、大学は名門の医学部じゃないと許さない。」
「わかっています。お父さんのおかげで食わせてもらっているだけでなく、勉学に励むことができていますから。感謝しています。」
嘘もすらすらと出てくるものだ。優介の傍にいるためだと思えば、本来最も口にしたくない言葉だって、簡単に口にできた。
もう、この時には、完全に優介のことが好きだった。第二次成長が訪れて、ホルモンの影響で身体つきが若干変わろうと、優介への気持ちは変わらなかった。別に、優介とどうこうなりたい訳では無い。優介の恋愛対象は、僕が持っている性別とは違う。優介は、僕がどれだけ足掻いても、絶対に僕を好きにはならない。ただ、優介が、僕の気持ちに気が付かないまま、友人として隣においてくれれば、それでよかった。優介が誰かと結ばれてもそれでいい。医者になった僕が、優介の死に際を見届けることができればいい。
――そんな気持ちが変わってしまったのは、中学の最後の年だった。




