乾いたミイラは蘇らないーー八束千博
雨が降る前特有の湿っぽいにおいは、父親の手のひらを想起させ、僕をえずかせる。
父の手はいつも湿っていた。神経質な性格をしているせいか、手汗が尋常ではない。父に頬を叩かれるとき、腕を強引に引かれるとき、激しい痛みよりもわずかな湿り気が嫌だった。
「千博さん、お帰りなさい。お昼は食べました?」
「食べた。」
「今日は、お父さんはお帰りにならないそうだから、お夕飯は、少し早めでもいいかしら。」
「部屋に。」
「……では、十八時頃にお部屋の前に置いておきますね。」
女は口角を上げて、僕に頭を下げた。腹部に行儀よく組んだ手の震えは隠せていなかった。僕はそれを気に留めないが、神経質な父であれば、良くて小言、悪くて平手が飛んできたと思う。階段を上がりながら、また父の手のひらを思い出して、吐き気がした。
やっとの思いで自室にたどり着いて鍵をかける。ドアから振り返れば、あるのは教育熱心な父の買った勉強机だけ。クローゼットの中にある最低限の衣服は、トランクケースに入るくらいの量だ。寝床はない。クローゼットにしまった毛布を一枚、寝るときに引っ張り出すだけだ。夏は、それすらも出さないために、子ども部屋にしては広いらしい部屋は、一際広く見える。
できるだけ、この部屋にはものを置きたくなかった。
それなりに小さなころには、もう少しものがあって、子どもらしい子ども部屋だったと思う。しかし、自分の家庭が他とは違うということや、世の中の貨幣と売買の仕組みを知り始めたころから、ものは減っていった。未成年で、働くこともできない。バイトが許されるわけでも無い。自分の使用できる金は、すべて父から与えられたものだ。何を買っても、その基には、父がある。その不変な、覆らない事実が、どうしようもなく苦手だった。冬は体調管理のために毛布をかぶって眠りにつくが、その毛布すらも、父の、いや父の稼いだ金に包まれているような心地になって苦手だった。
女は、「お父さんに食べさせてもらっているのだから。」というのが口癖だ。父親は女を殴るものでは無いらしいと他の家庭から得た知識を言ったとき、僕が父に反抗をしようとしたとき、僕が殴られたとき、どんなときにも「お父さんに食べさせてもらっているのだから。」という。お父さんに食べさせてもらっているのだから、僕らは生きているらしい。だから、僕らはお父さんに絶対に従わなくてはならない。お父さんに支配されなければならない。そういう常識で生きていく内に、僕には、ある願望が生まれた。
――支配したい。
弱者に回るよりも、強者に回る方が、生きやすいに決まっている。
中島優介と出会ったのは、小学校の四年生の時だった。
中島優介は、リーダーシップのある少年だったと記憶している。ドッチボールをするために、一目散に校庭に行き、頭は良くはないが足が速くて、人を寄せ付ける人間だった。背も高く、精悍な顔立ちで、女子にも人気だった。今思えば、スクールカースト上位に位置していたんだろう。
転校してきて友達がいない僕を気にかけ、仲間に入れるように働きかけてきた。
たまたま家が近かった。たまたま中島の好きなマイナーな少年漫画を全巻持っていた。たまたま話が合った。多くの偶然が重なって、その内、僕と優介は、二人で過ごす時間が多くなった。強者の優介と居れば、メリットも多かった。馬鹿なやつにちょっかいを出されることもなく、そこそこ楽しく過ごせる。宿題を見せてやれば、優介の家に行き、父親から禁止されていたゲームができる。虎の威を借るようなものだが、家とは違って強者の立場にいれる学校は、俺にとって居心地がよかった。
「千博って、難しい言葉知っててすげーよな。頭いいし、意外とおもしれーし。俺、千博のこと友達の中で一番好きだ。」
ある日、優介が言った何気ない一言は衝撃的だった。
「……好きって、なんだよ。」
「俺、変なこと言った?」
「好きって、人に対して言う言葉か?小説とか、アニメとかの……フィクションで言われるもんじゃねーの?」
僕がそう言うと、優介は目を丸くした。そして、フィクションの意味を聞いてきた。嘘とか作り物ってことだと説明すると、優介は眉を顰めた。
「人に対しても言うだろ?」
聞けば、家族間、友人間、その他にも推しのアイドルとか……どこでも好きという言葉を、人間に対して使うらしい。僕の家庭の中では、好きという言葉を誰も使わないから、その事実には中々の衝撃を受けた。友人も、優介に出会うまで居た記憶がない。
優介は、「好きな子、とかいうだろ?」と、少し照れ臭そうに言った。僕はあまりピンとこなかった。なぜ、優介が照れているのかさえも、よくわからなくて、率直に尋ねた。
「優介が今言った好きな子、は家族とか友人とか、さっき言ってたアイドルとは違うのか?」
「違う!こう……ドキドキしたりとか、かわいいとか思って、話したいとか、一緒に遊びたいとかそういう気持ちになるんじゃねーの?」
「……へえ。僕は優介に対して、話したいとか一緒に遊びたいと思うけど?」
「そーゆーのと違うって!」
優介はうげ、と口を開けてそう言ったが、ますますピンとこなかった。
話したいとか、一緒に遊びたいとか。それは、僕が優介に対して抱く気持ちと何が違うんだろう。自分よりも大柄な男である優介は、かわいいとは遠いかもしれない。しかし、優介の家に行ったときに、母親に甘えた口調で口答えをする優介は、かわいかったとは思う。
ドキドキ……は、しないな。
「優介は、好きな子、いるのか?」
優介は、きょろきょろと周囲を見渡して、誰もいないのを確認した。そして、俺の耳に口を寄せた。
「だ、誰にも言うなよ。」
小さく抑えられた声は、いつもよりも低く感じた。息が多めに混じった声は、鼓膜を震わせて、そこから直接心臓に伝っていくように感じるくらいに。僕の心臓は、ドキドキと跳ねた。
「……隣のクラスの、安川さん。」
高揚していた気分が、あっという間に落ちていった。隣のクラスの安川さん。おとなしい感じの図書委員の女子で、あまり目立つタイプではない。唇が厚めで、ぽってりとしている容貌で、特別可愛いわけでも、美人なわけでも無かった。図書委員は、カウンターで本の貸し借りの手続きをしているから覚えていた。でもそれがなかったら、覚えていないだろうなと思うくらいの存在感だった。
絶対、僕の方が優介と一緒にいるのに。僕の方が、優介にメリットを与えることができるのに。
幼い対抗心は、初めて持つ感情だった。今なら、わかる。これが、僕の初恋を自覚した瞬間だと。




