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09 第2章:泥を啜る逃亡と母の死

第2章 第4節


夜の闇が白み始め、どんよりとした鉛色の朝靄が貧村の泥道を這うように流れていた。

使い古された藁と排泄物の臭いが染み付いた馬小屋の隅で、私は冷え切った身体を横たえたまま、天井の粗末な木組みをぼんやりと見つめていた。薄汚い毛布を体に巻き付けた母親が、いつの間にか音もなく戻ってきていた。彼女は私の隣の藁の上に崩れるように倒れ込み、まるで生きる気力をすべて吸い取られた人形のように微動だにしない。


その全身からは、昨夜も男たちの欲望の掃き溜めに使われていたことを示す生々しい泥と、異臭がかすかに漂っていた。


「……母上」


私の低い声に、母親はびくりと肩を震わせ、ゆっくりとその濁った瞳を開いた。

彼女の顔面は青白く、目の下には深いクマが刻まれ、唇は乾いて痛々しくひび割れている。かつての気高さや美しさは完全に剥ぎ取られ、そこにあるのはただ暴力と屈辱にすり減らされた一人の「使い古された肉の袋」だった。


「ア……レン……おはよう……」


彼女が絞り出した声は、紙やすりのようにかすれていた。

私は起き上がり、感情の欠片もない冷徹な眼差しで彼女を見下ろした。昨夜、納屋の隙間から目撃した醜悪な光景が、脳裏のスクリーンに鮮明に焼き付いている。村人たちが「親切」という名の鎖で私たちを縛り上げ、飢えをエサにして彼女の尊厳を毎夜踏みにじっているという現実。それを彼女は、私を飢え死にさせないためという言い訳——あるいは自身の身を守るための諦めを隠れ蓑にして、最後まで私に隠し通そうとしていた。


「昨夜、どこへ行っていたの?」


私の問いかけに、母親の身体が凍りついたようにぴたりと止まった。

彼女の瞳が恐怖に大きく見開き、唇がかすかに震える。必死に隠そうとしていた秘密の底が割れたことを悟ったのだろう。だが、彼女は言い訳を口にすることも、涙を流して許しを乞うこともしなかった。ただひたすらに気まずそうに目を伏せ、壊れかけたプライドの最後の残滓にしがみつくように、唇を固く結んだまま沈黙を選んだ。


——最後まで、黙っていた。


「見苦しいな」


私は冷ややかに吐き捨てた。

「そんなふうに汚れきってまで、俺に生き延びてほしいのか? それとも、ただ自分が飢える恐怖と痛みに耐えられなくて、体を売ることでその場しのぎの延命をしているだけの言い訳か? どっちだ、母上」


「アレン……っ、お願い……何も言わないで……!」


母親はついに声を震わせ、細く痩せ衰えた両手で耳を塞いだ。彼女から零れ落ちた涙が、頬の泥の汚れを筋状に洗い流していく。

だが、私の中に湧き上がっていたのは憐れみなどではない。底知れぬ「不快感」と、人間の弱さに対する冷徹な軽蔑だけだった。尊厳を売り払い、肉体を差し出してまで延命するその生き方は、私の目には最も醜い生き恥に映っていた。誇りを失った人間など、生きている価値のない「ただの動く肉塊」に過ぎない。


私は母親の返答を待つことすらせず、ガタピシと音を立てる馬小屋の扉を蹴破るようにして外へと飛び出した。


泥濘んだ村の中央広場には、朝の冷気の中で焚き火を囲む村人たちの姿があった。

昨夜、母親を弄んでいた中心人物である村の男——長老の息子を自称するガタイのいい男が、粗野な笑い声を上げながら干し肉を炙っていた。その周囲には、私たちの事情をあらかじめ知りながら面白おかしく眺めていた村の男たちが、下卑た笑みを浮かべて寄り集まっている。


私は一言も発さず、その男たちの中心へと真っ直ぐに歩み寄った。


「おや、お坊っちゃんじゃねえか。今日もスープが足りねえのか? それとも、おめえの母親が夜伽(よとぎ)でいい仕事をしてくれたから、ご挨拶に来たのかよ?」


男がニヤニヤと下品な笑みを浮かべ、周囲の男たちを振り返って同意を求めるように頷いた。

広場にいた村人たちが、一斉に私へと嘲笑の視線を向ける。飢えと貧困に支配されたこの村では、他人の不幸や尊厳の踏みつけは最高の娯楽なのだろう。


私は冷え切った瞳のまま、その男をじっと見据えて、はっきりと声を張り上げた。


「お前たちが夜な夜なやっていること知っているぞ」


男たちの笑い声が、ぴたりと止まった。

「あ?」と男が眉をひそめ、不機嫌そうな面持ちで私を見下ろす。


「飢えを盾にして、我が母親の肉体を貪り、夜な夜な汚し続けていることだ。人道もクソもない、ただの畜生の下劣なレイプだ。お前たちのやっていることは犯罪だ、恥を知れ」


私のその言葉は、この村の閉ざされた秩序に対する明確な告発だった。

――だが、返ってきたのは恐怖でも罪悪感でもなかった。


「はっ……はははははっ!!」


一瞬の静寂の後、男は腹を抱えて大声で笑い出した。

周囲の村人たちも、「ガキが何言ってやがる」「正気かよ」とばかりに、次々とせせら笑い声を漏らす。


「おいおい、聞いたかよ今の! 犯罪だぁ? 恥を知れだぁ?」

男は焚き火の串を放り出し、私を見下ろしながら顔を歪めて嘲笑った。

「なぁ、お坊っちゃん。ここは王都の気取った貴族街じゃねえんだよ。法律も道徳も、そんなもんはこの泥の底には届きやしないの! 飢え死にしたくねえなら、動けねえ母親の体を差し出すのはこの村じゃ『当たり前の取引』なんだよ!」


「そうだそうだ! 食い扶持が欲しけりゃ、テメェも労働するか、母親にもっといい稼ぎをさせろってんだ!」

「生意気な口チャックしやがれ、ガキの分際で!」


村人たちは誰も悪びれる様子を見せず、むしろ私を世間知らずの愚か者として完全に一蹴した。彼らにとって、他人の尊厳を踏みにじることは日常茶飯事であり、そこに罪の意識など一片も存在しない。弱肉強食の理屈すら歪んだ形でねじ曲げられた、救いようのない人間のクズどもの集まりだった。


怒りは湧かなかった。

ただ、この世界という構造そのものに対する激しい「吐き気」と、冷徹な殺意が心の底に沈殿していくのを感じた。言葉で訴えても無駄だ。道徳や正義という概念は、この世界の最底辺では一切機能しない。ここで生き残るためには、綺麗ごとではなく、圧倒的な暴力と冷酷な合理性ですべてをねじ伏せるしかないのだと、私の脳裏に深く刻み込まれた。


「……そうか。お前たちの理屈はよく分かった」


私が低い声で呟いたその瞬間だった。


——ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!


突如として、村の地面が激しく揺れ動いた。

遠くの森の木々がなぎ倒され、地響きを伴う巨大な咆哮が空気を切り裂く。村人たちの顔色が一瞬で青ざめた。


「な、なんだ……!? 地震か……?」

「いや、違う……あれは……っ!」


村の囲いの外、朝靄の向こうから現れたのは、私たちが逃れてきたはずの他国の軍事兵器——「陸竜騎兵隊」の生き残りだった。

索敵の魔導に導かれて、私たちの逃走経路を執念深く嗅ぎ回り、この貧村の端へとたどり着いたのだ。体長七メートルを超える黒鉄の甲冑を纏った陸竜が、狂乱したような足取りで村の家々を踏み潰しながら突進してくる。


「り、陸竜だぁぁぁっ逃げろ——ッ!!」


村人たちはパニックに陥り、我先にと四方八方に散らばって逃げ惑い始めた。

だが、巨大な怪物の足元に広がる貧村など、数歩で踏み潰されるただの紙細工に過ぎない。陸竜の巨体が暴れ回り、家屋が次々と崩壊し、悲鳴と血煙が舞い上がる。


私はその混乱の中、冷静に周囲を観察し、背走しようと身構えた。

しかし、その時——。


「アレン……っ!」


崩れかけた馬小屋の方向から、絶望的な悲鳴が響いた。

振り返ると、馬小屋の瓦礫の下敷きになり、折れた足を引きずったまま這い出そうとしている母親の姿があった。彼女は逃げ遅れ、パニックを起こした村人たちの群れに押し倒され、泥の中に倒れ込んでいたのだ。


そして、その母親の真上に、陸竜の巨大な鋼鉄の蹄(ひづめ)が振り下ろされようとしていた。


「母上——!」


反射的に体が動いた。いや、助けたいという情愛などではない。私の中にあったのは、「この状況を利用して生き延びるための計算」と「無意識の反射」だった。

だが、私の足が間に合うはずもない。


ドガアアアァァァン——ッ!!!


凄まじい衝撃波と爆音と共に、陸竜の数トンある巨体の前足が、母親のいる地点を丸ごと踏み潰した。

大気が激しく震え、周囲の泥と砕けた木片が四方に飛び散る。


砂煙がゆっくりと晴れていく。

そこに広がっていたのは、見る影もない惨劇だった。陸竜の蹄の下には、かつて私の母親であった「何か」が押し潰されていた。衣服は血と泥にまみれ、肉体は完全にペチャンコに押し広げられ、原形をとどめていない。ただ、地面に広がった赤黒い血の海と、わずかに飛び散った肉片だけが、そこに人間が存在していたことをかろうじて物語っていた。


母親は、最後まで救いなく、ゴミのように踏み潰されて圧死したのだ。


私はその光景を、数歩離れた泥の中から、まばたき一つせずに冷ややかに見つめていた。

涙は出ない。悲鳴も上がらない。

ただ、胸の奥で、カチリと何かの歯車が完全に噛み合ったような冷たい手応えがあった。


父親が首を斬り落とされ、剣術師範が血を撒き散らして死に、母親が村人たちに体を売って汚され、最後には怪物の蹄の下で虫ケラのように圧死する。

この世界はどこまでいっても理不尽で、救いがなく、徹底的に残酷だった。


「……ざまあみろ」


私は小さく呟いた。

母親の死に対して湧き上がったのは、哀しみではなく、この不条理な世界に対する冷徹な嘲笑だった。

守るべきものなど最初から何もない。愛する者など不要だ。すべてを奪い尽くしたこの世界を、いつか必ず地の底まで引きずり下ろし、我が手ですべてをハメ殺してやる。


私は陸竜が暴れる混乱の中、誰にも気づかれないように音もなく身を翻し、さらなる闇と泥の奥底へと、深い森の奥へと単身で歩き出したのだった。

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