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08 第2章:泥を啜る逃亡と母の死

第2章 第3節


崖からの滑落という死の淵から這い上がり、私たちが流れ着いたのは、地図にも載らないような吹き溜まりの貧村だった。深い森の周縁にひっそりと寄り添うその集落は、荒涼とした泥道と、藁葺きの傾げた家々が立ち並ぶだけの、文字通りの最底辺だった。文明の庇護など一切届かず、日々の飢えと隣り合わせで生きる者たちが身を寄せ合って暮らす、泥臭く澱んだ場所。


そんな村に、ボロボロの衣服をまとった私たち母子が倒れ込んでいるのが見つかったとき、村人たちの反応は奇妙なほど温情に満ちていた。


「おい、しっかりしろ! こんなところで倒れておなごの子供が……!」


「生きているか? おい、うちの納屋に運べ!」


ガサガサとした荒い手つきではあったが、村人たちは私たちを追い払うことなく、使われなくなっていた古い馬小屋へと運び込み、ボロ布や埃まみれの毛布をあてがってくれた。それだけではない。夕方になると、煤けた木製の皿に盛られた硬い黒パンや、具のほとんど入っていない塩辛いスープが差し入れられたのだ。飢えと渇きに苦しんでいた当時の私たちにとって、それはまさに救いの手に見えた――通常の神経をしていれば。


だが、前世の記憶と、城の崩壊を経て冷酷な計算能力しか残っていなかった私の脳裏には、その「異様な親切心」に対して強烈な違和感と不信のトゲが突き刺さっていた。


(おかしい)


村人たちの目を観察すればするほど、その親切の裏に隠された底知れぬ下心が透けて見えた。彼らは私たちを哀れんで助けているわけではない。この極寒と貧困の限界集落において、他人に施すだけの余剰な慈悲など存在するはずがないのだ。彼らが私たちに向けた視線は、道端に転がった捨て猫を見るようなものではなく、「新しく手に入れた安価な慰み者」「あるいは都合の良い家畜」に対する品定めのような、ねっとりとした欲望のそれに満ちていた。


「アレン……村の人たち、とても優しいわね。私たちを見捨てないでくれた……」


藁の山の上に寝かされ、かろうじて息を繋いでいた母親は、差し入れられたスープをすくいながら、どこか夢見心地のような、すがるような声でそう呟いた。彼女の左足は崖からの落下で折れ曲がったまま、満足な治療も受けられずに腫れ上がり、激しい痛みに顔を歪めていた。それでも、村人たちが差し出すわずかな食料と、一見して親切な言葉に、彼女のすり減った精神は救いを求めてすがりついていたのだ。


私はそんな母親を一瞥し、冷ややかに鼻を鳴らした。


「優しさだと? そんなものがこの村に転がっているわけないだろ。奴らが何を考えているか、少し頭を使えばわかることだ」


「アレン……そんな言い方、しちゃダメよ。人様の厚意なのだから……」


「厚意ねえ」


私はそれ以上母親には何も言わず、ただ不気味に静まり返る夜の帳(とばり)を見据えた。

この村の正体に気づくのに、そう時間はかからなかった。


違和感の正体が決定的なものとなったのは、私たちがこの馬小屋に流れ着いてから数日目の夜のことだった。

真夜中、冷たい隙間風が吹き抜ける馬小屋の中で、私は浅い眠りからふと意識を覚醒させた。隣の藁の山を見ると、そこにいるはずの母親の姿が消えていた。


「……っ?」


私は身じろぎもせず、静かに起き上がった。足音を殺し、泥と藁の匂いが充満する小屋の扉の隙間から外を覗き見る。

月明かりが照らし出す泥濘んだ村の小道を、不自然に足を引きずりながら歩く人影があった。母親だった。彼女は折れ曲がったはずの左足を無理やり引きずり、痛みに顔を歪めながらも、村の外れにある古びた納屋の方へと這うようにして移動していた。


(夜中にどこへ行く気だ? あんな足で、自力で歩けるはずがないのに)


奇妙な胸騒ぎと、冷徹な好奇心に突き動かされるように、私は闇に身を隠しながらその後を静かに尾行した。


たどり着いたのは、村の男たちが集まる倉庫兼の納屋だった。

扉の板の割れ目から、わずかに漏れ出るランプの橙色の光。中からは、男たちの下卑た笑い声と、湿った異様な物音が聞こえていた。


「おい、こっちを向けよ、伯爵様の奥様だったお高くとまった貴婦人さんよ」

「ほう、流石に肌のきめが違うな。足は使い物にならねえが、こっちはまだまだ極上の遊具になりそうだぜ」

「ははっ、慈悲で飯を食わせてやってるんだ。その対価をしっかり払ってもらわねえと困るよなぁ!」


ぞっとするような会話の断片が、隙間から漏れ出して私の耳朶を打った。

私はそっと、納屋の扉の割れ目に目を凝らした。


そこに広がっていたのは、我が目を疑うような、しかし同時に私の予測の範疇に完全に収まる、あまりにもグロテスクで底意地の悪い光景だった。


藁の上に無惨に投げ出されるように横たわっているのは、ほかならぬ私の母親だった。

彼女は自分の衣服を引き裂かれ、白皙の肌を男たちの前に無防備に晒していた。折れ曲がった足を引きずってまで彼女が夜な夜な向かった先——それは、村人たちから施される「親切」という名の借金を返すための、身売り場にほかならなかった。村の男たちは、飢えに苦しむ私たちを助けるという名目で母親を囲い込み、夜な夜な彼女の肉体を回し飲みしていたのだ。


「あ……ぁ……っ、お、おねがい……これ以上は……足が……!」


母親が男たちの下で悲鳴のような声を漏らし、涙を流しながら許しを乞う。

しかし、村の男たちは嘲笑うように彼女の髪を掴み、容赦なくその肉体を踏みにじり続けた。


「ふざけんな! 泥水をすすりたくねえなら、もっといい声を出しやがれ! お前みたいな役立たずの貴婦人を匿ってやってるだけで感謝しやがれってんだ!」


男たちの下卑た笑い声が、狭い納屋の中に反響する。

母親は絶望に染まった瞳を大きく見開き、ただ屈辱と痛みに耐えながら、男たちの欲望のままにその肉体を開き、汚され続けていた。


その凄惨な光景を、私は納屋の外の暗闇から、ただ冷ややかな、一片の感情の波立ちもない瞳で見つめていた。


怒り? 激昂? 復讐の炎?

そんな陳腐な感情は、私の心には一塵も湧き上がらなかった。父親が目の前で首を斬り飛ばされ、自らが泥の中を這いずり回る地獄を経験した私にとって、母親が男たちに身体を売って日々の糧を得ているという事実さえも、この理不尽な世界における「ただの生存の取引」に過ぎなかったからだ。


(なるほどね。あの親切の正体はそういうことか)


私は冷ややかに心の中で呟いた。

タダ飯などこの世に存在しない。村人たちは無償で私たちを助けたわけではなく、母親の肉体を消費するための「元手」として飼育していたにすぎないのだ。そして母親もまた、その屈辱的な事実を薄々理解しながら、飢えと痛みの恐怖から逃れるために自らその泥沼に身を浸していた。


誰が悪いわけでもない。

強く生きる力を持たず、ただ状況に流されて絶望にすがる人間は、こうして虫ケラのように踏み潰され、すり潰されていく。それがこの世界の正しいルールなのだ。


私は、母親の泣き叫ぶ声と男たちの下品な笑い声が響く納屋から、音もなく身を翻した。

月明かりの届かない暗い馬小屋に戻り、私は再び藁の上に横たわる。冷たい隙間風が頬を撫でるが、私の心は氷のように冷たく、完璧なまでに静まり返っていた。


「人間なんて、ただの肉と臓物の袋だ。汚されようが壊れようが、最後にはゴミ溜めに捨てられるだけのパーツでしかない」


母親が夜な夜な男たちに股を開き、その尊厳をすり減らしている現実を思い浮かべながら、私は自分の内側に渦巻く冷酷な生存の論理をさらに深く研ぎ澄ませていった。綺麗な感情など捨てろ。情けなど無用だ。この地獄のような世界で最後まで生き残り、いつかすべての理不尽を叩き潰すための牙を、私はこの闇の中でひっそりと、しかし確実に研ぎ続けていたのだった。


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