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07 第2章:泥を啜る逃亡と母の死

第2章 第2節


背後を画す陸竜の地響きと、樹木が破壊される不吉な砕裂音は、どこまでも私たちの後を追いかけてきた。

冷たい夜風が泥と汗に塗れた肌を刺し、荒い息を吐くたびに気道が灼けるように痛む。剣術師範ベネディクトがその命と肉体をすり潰して稼いでくれた猶予は、わずか数分。他国が誇る追撃部隊の機動力の前では、子供の足と擦り切れた体力の母親の足取りなど、爪先で弄ばれる虫ケラの歩みに等しかった。


「ハァ……ハァ……アレン、もう……足が動かないわ……」


母親の膝が折れ、湿った落葉の絨毯の上へと崩れ落ちる。

彼女の指先は裂け、かつて滑らかだった爪は泥に塗れて剥がれかけていた。見上げられる瞳には、極限の恐怖と絶望、そして我が子を道連れにしていることへの痛切な罪悪感が滲んでいる。だが、私の心には彼女を労わるような温かな感情の一片すら湧き上がらなかった。


「立つんだ。ここで止まれば、師範の死体が無駄になる」


「でも……もう、どこへ逃げればいいの……? 城も、お父様も、すべて失ってしまったのに……!」


「生きるためだ。理由なんてそれだけで十分だろ」


言葉に温もりなど一切ない。私の声は、夜の森を抜ける寒風よりも冷たく乾いていた。前世のぬるま湯のような世界で持っていた「人並みの情情」や「お坊っちゃんとしての余裕」は、父親の首が飛んだ瞬間にすべて蒸発している。今や私の脳内を満たしているのは、生き延びるという本能と、そのためにはあらゆる要素を効率の計算対象として処理する冷徹な論理だけだった。


私は彼女の腕を乱暴に掴み上げ、半ば引きずるようにして夜の森を突き進んだ。

しかし、暗闇の中での無謀な逃走は、唐突に行き止まりを迎える。


唐突に樹木が途切れ、足元の土が途絶えた。

視界が開けた先には、月光を反射して黒々とした虚無を湛える断崖絶壁が広がっていた。はるか下方からは、ゴツゴツとした岩肌に激突する川の濁流の音が、鈍い低音となって響いてくる。絶壁。進退極まるとはこのことだった。


「ひっ……!」


母親が短く悲鳴を上げ、足をすくませる。

引き返そうと振り向いた瞬間、森の奥から複数の赤い光点が浮かび上がった。陸竜騎兵隊の索敵魔導の光。そして、重装甲を纏った怪獣の低い足音が、逃げ場のない崖際へと着実に迫ってくる。


「追い詰めたぞ、『血』の生き残り」


樹林を割って現れたのは、先ほどベネディクトが命を懸けて足止めした部隊の残党だった。

漆黒の甲冑に身を包んだ隊長格の男が、長槍を構えながら冷ややかに笑う。


「行き止まりだ。崖から跳び下りて岩の藻屑となるか、それともおとなしく捕縛されるか……選ぶがいい」


選択肢など最初から存在しなかった。

捕まれば、我が家系に伝わる血を絞り取られ、死ぬことすら許されない地獄を味わうことになる。それだけは、どれほど冷血になった私の計算においても容認できない最悪の結末だった。


「アレン……どうしましょう……私は、あんな恐ろしい奴らの手に落ちるくらいなら……!」


母親が私の肩を抱きしめ、全身を激しく震わせる。

私は敵兵の銃口と長槍の間合い、そして足元の崩れかけた崖の傾斜を、冷ややかな視線で素早く計測した。崖下は目視できないほどの闇。だが、下に川があるならば、落下の衝撃を緩和できる可能性がある。生き残る確率は限りなく低い。だが、捕まれば確定で終わる。


「母上」


「な、なに……? アレン……」


「舌を噛まないように息を止めろ」


「え——」


母親が問い返す猶予すら与えなかった。

私は敵兵が間合いを詰めようと足を踏み出したその刹那、母親の胴体を抱え込むようにして、迷わず黒々とした虚無の崖下へと身を躍らせた。


「なっ……正気か!?」


敵兵の驚愕の叫びが、急速に遠ざかる。

重力に引かれ、体視覚が上下を失う。死に向かって落下する数秒間、鼓膜を砕くような風切り音と、容赦なく体を打ち据える樹木の枝の衝撃が襲いかかった。


バキバキバキッ——!!


突出した岩肌に生える無数の枝が、私たちの落下速度を削ぐ狂乱のクッションとなった。だが、それは生身の人間にとっては肉体を引き裂く刃と同義だった。肩が外れる感覚、肋骨が軋む鈍い音、そして肌をズタズタに引き裂く鋭い痛みが全身を襲う。


「あぐっ……ぁぁぁっ!」


母親の悲鳴が途切れ、そのまま彼女の身体が私の腕からすっぽりと抜け落ちた。

「母上——」と叫ぶ余裕すらなく、私の身体は激しい旋回と共に崖下の傾斜面へと叩きつけられ、泥と岩の斜面を転落していった。


叩きつけられるたびに、全身の骨が悲鳴を上げる。


ドガッ——!!


最後に水飛沫を上げて濁流へと落ち込み、そのまま意識が暗転した。


◇


どれほどの時間が経過しただろうか。

冷たく湿った感覚と、腐臭に満ちた空気の中で、私はゆっくりと目を覚ました。


「がハッ……! げほっ、ぐっ……!」


喉から濁水と血の混ざった液体を吐き出し、私は激しく咳き込んだ。

体中に残る鈍い痺れと、不快感。全身を包む衣類は泥とヘドロで変色し、見る影もない残骸と化している。


私は弱々しく体を起こし、周囲を見回した。

そこは、打ち捨てられた馬小屋の隅だった。腐った藁の匂いと、動物の排泄物の臭気が鼻を突く。隙間風が吹く荒れ果てた木造のバラック。どうやら私は崖下の濁流に流され、どこかの見知らぬ貧村の川縁に打ち上げられ、ここまで這いつくばって漂着したらしい。


「う……あ……」


数メートル離れた藁の山の上に、もう一つの影が横たわっていた。

母親だった。

彼女の姿は凄惨を極めていた。落下の衝撃で左足はあり得ない方向に折れ曲がり、頭部からの出血が白髪の混じり始めた髪を赤黒く染めている。胸の上下は極めて浅く、今にも途切れそうな息を吐いていた。生身の肉体は、崖からの滑落という暴力に耐えきれず、完全に壊れていた。


「母上……」


私は痛む足を引きずりながら、彼女の傍らへと這い寄った。

母親は濁った瞳をゆらりと動かし、視界の端で私を捉えると、血の泡を噛みながら掠れた声を絞り出した。


「ア……レン……よかった……生きて……いてくれたのね……」


彼女の震える手が、私の頬へと伸びる。

その手は冷たく、すでに死相が漂っていた。かつて我が家の庭園で、私を愛おしそうに抱きしめてくれた優しい母親の温もりは、どこにも存在しなかった。


私は彼女の手を握り返しもせず、ただ無感情な瞳でその顔を見つめていた。

助かる見込みはない。この貧村にまともな医者がいるはずもない。


前世の私なら、泣き叫んで救いを求めていただろう。だが、今の私の中には、父親の惨殺で確立された、徹底した冷徹さしかなかった。


「ああ、生きているよ。母上」


「ごめんなさい……不甲斐ない母で……貴方を……守ってあげられなくて……」


「謝る必要はない」


私は静かに、彼女の手を藁の上へと押し戻した。


「人間なんて、あっけなく壊れるパーツに過ぎないんだから」


母親は私の冷たすぎる言葉に一瞬目を見開いたが、やがて諦めたように寂しげな笑みを浮かべ、ゆっくりと瞼を閉じた。

荒れ果てた馬小屋に、隙間風の音だけが虚しく響き渡る。

優雅だった伯爵家の嫡男としての過去は、完全に死んだ。見知らぬ貧村の最底辺の泥の中で、私はただ生き延びるためだけの「動く死体」として、新しい地獄への一歩を踏み出していたのだった。


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