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06 第2章:泥を啜る逃亡と母の死

第2章 第1節


夜の森は、狂気と死の匂いに満ちていた。

月光すら届かぬ鬱蒼とした樹海の中を、泥と血に塗れながらひた走る。背後からは、巨木がバキバキと砕け折れる凄惨な破壊音が迫っていた。他国が誇る絶対的軍事力の一角——「陸竜騎兵隊」。巨大な鱗と太い四肢を持つ太古の怪獣に重装甲を打ち付け、洗脳魔導によって兵器化した殺戮マシン群である。その巨体が地表を叩きつけるたびに、足元から微振動が伝わり、内臓を揺さぶる。


「はぁ、はぁ……ッ! アレン、待って……足が……!」


私の腕を必死に掴む母親の声は、恐怖と疲労で細く震えていた。かつて領主邸で絹のドレスを纏い、優雅に香水を漂わせていた貴婦人の面影はどこにもない。刺繍の施された衣服は枝や棘で破れ、白皙だった肌は擦り傷と黒い泥で汚れている。だが、私は彼女の窮状に一切の同情を覚えなかった。ただ、彼女の遅さが、この絶望的な逃避行において死直結の足枷になっているという冷酷な事実だけを計算していた。


「喋るな、口を開けば体力が削れる。走れ」


「でも、アレン……ッ!」


私は振り返りもせず、ただ彼女の手首を力任せに引っ張った。肉が軋むほどの強い力だ。前世のぬるいクラブで女の子の手を取っていた甘っちょろい優しさなど、この地獄の森には存在しない。人は簡単に壊れるパーツであり、今この瞬間も、後ろから迫る凶刃によって容易に肉片へと成り下がろうとしている。


——ガアアアアアアアアアッ!!


突如、頭上から森を揺るがす鼓膜を破らんばかりの咆哮が降り注いだ。

直後、私たちの数メートル前方に巨大な黒い影が躍り出た。樹齢数百年を数える巨木が、まるでマッチ棒のように易々とへし折られ、膨大な泥と葉の飛沫が舞い散る。

そこに佇んでいたのは、全身を黒鉄の装甲で固めた体長七メートルを超える陸竜と、その背に跨がる敵国の精鋭騎兵だった。漆黒の甲冑に身を包んだ騎兵の掲げる長槍が、月光を反射してギラリと冷たい光を放つ。


「追いついたぞ、『血』の生き残り。……そして、哀れな伯爵夫人か」


兜の奥から響く合成音のような冷酷な声。敵騎兵は、まるで野ウサギでも追い詰めたかのように嘲笑を浮かべ、長槍の先を真っ直ぐ私へと突きつけた。


「我が国はお前たちの血を欲している。肉体の原型さえ残っていれば、手足の数本を削ぎ落とそうが構わん。おとなしく投降しろ」


息が詰まる。全身体中の細胞が「死」の接近を告げて悲鳴を上げた。

前世で培った世渡りの技術? 交渉術? そんな軽薄な欺瞞は、圧倒的な暴力を前にしては何の価値もなさない。ここでは命の値段など、鉄と肉の質量差によって一瞬で決定されるのだ。


その時だった。


「――ぬううううっ!!」


地底から響くような地鳴りのような咆哮と共に、影の中から一筋の銀光が走った。

隠し通路の出口で殿(しんがり)を務め、すでに命を落としたと思っていた剣術師範ベネディクトだった。

彼の姿は、まさに悪夢そのものだった。腹部は大きく抉られ、溢れ出た小腸を自身の革ベルトで強引に縛り付け、全身から赤黒い血を撒き散らしている。右目は潰れ、だらりと垂れ下がった左腕は骨が砕けているのが一目で解る。人間ならばとっくにショック死しているはずの致命傷。それを、彼はただ「伯爵家への忠義」という狂気じみた精神力だけで動かしていた。


「若様……走れぇぇぇッ!!」


ベネディクトは残された右腕一本で、身の丈を超える大剣を振るった。

その一撃は、まさに彼の生涯のすべてを注ぎ込んだ文字通りの最高峰の剣技だった。大気があぜんと切り裂かれ、真空の刃が陸竜の前脚へと叩きつけられる。

バキィッ!! という凄惨な破壊音が響き、硬度の高い陸竜の鱗と肉が断ち割られた。巨体を誇る陸竜がバランスを崩し、悲鳴を上げて前傾姿勢に倒れ込む。


「な……!? 馬鹿な、死に損ないの老兵が……ッ!」


狼狽する敵騎兵に対し、ベネディクトは止まらない。血反吐をぶちまけながら、倒れかけた陸竜の首元へと躍り出た。大剣を逆手に持ち替え、陸竜の目の隙間から脳腔へと深く突き刺す。竜が狂ったように暴れ回り、巨体が周囲の樹木を薙ぎ払うが、ベネディクトは柄から手を離さない。


「アレン! 奥様を……連れて……早く行けぇぇっ!」


彼の潰れた右目から、血と涙が混ざり合った赤黒い液体が流れていた。それが、彼が遺した最後の言葉だった。


「おのれぇぇ、面汚しがッ!」


陸竜の背から振り落とされた敵騎兵が、狂乱の中で長槍を突き立てた。

ズスッ、という嫌な肉の音が響く。長槍はベネディクトの喉笛を正確に貫き、そのまま背後の巨木へと縫い付けた。

だが、ベネディクトは倒れなかった。喉を潰され、言葉すら発せられない状態でありながら、彼は敵騎兵の腕を血まみれの右手で固く掴み、自身の体に槍を深く突き刺させたままで敵の動きを拘束したのだ。


「が……っ……ぁ……」


ベネディクトの口から溢れる大量の血が、敵騎兵の兜を赤く染める。

彼は息絶えるその瞬間まで、私と母親から目を逸らさなかった。死してなお強固に締め付けられた彼の指骨は、敵騎兵の腕の装甲を締め上げ、数秒の決定的な隙を作り出した。


「嫌ぁぁぁぁぁっ! ベネディクトッ!!」


母親が悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちようとする。

私は彼女の髪を掴む勢いで、その身体を強引に引きずり起こした。


「見るな! 走るぞ!」


「アレン……っ、そんな……ベネディクトが……私たちを護るために……!」


「死んだ人間を気にしてる暇はない! 師範が買い取ったのは、たった数秒の時間だ! 無駄にするなッ!」


私の声には、涙の欠片も、師範の死を悼む温かい感情もなかった。

あるのは、ただ「これで数分稼げる」という計算だけだ。

背後で、敵の第二陣と思われる陸竜の足音が近づいてくる。ベネディクトの無惨な死体——槍に貫かれ、肉を抉られ、ただの肉塊と化したかつての剣の師——を置き去りにし、私は絶叫する母親を引っ張って、さらに暗い森の奥へと足を踏み入れた。


前世のぬるい世界では、人の死には理由があり、悲しみには意味があった。だがこの異世界では違う。死は単なる「物理的な破壊」であり、人間はあっけなく崩れる有機物のパーツに過ぎない。

ベネディクトの無惨な死顔が脳裏に焼き付く。だが、私の心はただ冷たく、滑らかに凍りついていくばかりだった。死なないために、生き延びるために、俺はこの理不尽な世界の泥を、どこまでも啜ってやる。絶望の夜は、まだ始まったばかりだった。


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