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05 第1章:パリピの慢心と異世界の理不尽

第1章 第5節


血の匂いが、冷え切った城内の空気を重く湿らせていた。

大理石の床に広がる赤黒い池。その中央に転がる父親の生首と、力なく打ち捨てられた首無しの軀。私の視界はその惨状を捉えながらも、脳の奥底ではもはや何の感情も波立てていなかった。ただ冷たい虚無が、一瞬前までの恐怖すらも塗り潰していく。この世界は最初から美しくも優しくもなく、強者が弱者を食い散らかすただの屠殺場だったのだという冷徹な了解だけが、胸の奥に澱のように溜まっていった。


「若様! お立ちください、早く!」


激しい怒号と共に、私の脇抱えに強靭な腕が差し込まれた。激しい力で引き上げられ、強制的に視界がグラリと揺れる。

そこにいたのは、血と汗に塗れた剣術師範だった。王国屈指と謳われた彼の精悍な顔立ちは、今や焦燥と絶望で激しく歪み、肩から胸元にかけては深く切り裂かれた鎧の間から赤黒い血が溢れ出していた。だが、その瞳だけは衰えていない。彼は片手に握りしめた大剣で敵兵の追撃を間一髪で弾き返すと、私をかばうように背後に庇い立てた。


「ベネディクト……父上は……」


私の掠れた声に、師範は振り返りもせず、歯を食いしばって吐き捨てた。


「伯爵様のお命は絶たれました! だが、若様……貴方様のお命だけは何としてでもお護りせよとの最後のご命令です! 立ちなさい、死にたくなくば走るのです!」


師範の背後から、着物の裾を泥と血で汚した母親が、息を切らせて駆け寄ってきた。かつて私の額の汗を優しく拭ってくれた貴婦人の優雅さはどこにもない。髪は振り乱され、白皙の肌には煤がこびりつき、その瞳には愛息を失うことへの狂気じみた恐怖だけが宿っていた。


「アレン……! 無事なのね、アレン……!」


母親は震える細い腕で私を狂おしいほど強く抱きしめた。ほのかに香っていた薔薇の香水の匂いは、血生臭い鉄の匂いにかき消されている。私は彼女の抱擁を受け止めながらも、どこか客観的で冷めた視線を自分たちに向けていた。私にすがりつくこの美しい女性も、私を命がけで護ろうとする熟練の剣士も、この理不尽な戦争の嵐の前には壊れやすい脆いパーツに過ぎない。前世で培った軽薄な余裕は消え失せ、残されたのは「いつ誰が死んでもおかしくない」という乾いた直観だけだった。


「来ます! 隠し通路へ急ぎますぞ!」


師範が叫び、城の隠し扉を蹴り開けた。地下へと続く薄暗い石造りの階段を、私たちは転がるように駆け下りる。背後からは、追撃する敵兵の金属靴が鳴らす不気味な足音と、陸竜の地鳴りのような咆哮が追いかけてきていた。


城の外へと繋がる暗く湿った地下道を抜け、私たちが辿り着いたのは、夜の闇に包まれた城外の深い森だった。

振り返れば、かつて私が何不自由なく暮らしていた白亜の城が、天を突く赤々とした炎に包まれていた。炎の粉が夜空へと舞い上がり、城下町からは民の悲鳴と肉の焼ける凄惨な匂いが風に乗って漂ってくる。優雅だった私の人生のチュートリアルは、跡形もなく灰燼に帰したのだ。


「休んでいる暇はありません。他国の特務部隊は『血』を追っている……我らの逃走ルートも時間の問題で割り出されるでしょう」


師範は荒い息を吐き出しながら、手近な木に背を預けた。彼の胸の傷は深く、息を吸うたびにゴボリと肺から血が漏れ出る音が聞こえる。母親はその傷口を見て顔を蒼白にし、震える手で自身のドレスの裾を破って手当を試みようとした。


「ベネディクト、お待ちになって……そのお傷では……」


「無駄です、奥様。私の命はここまで……だが、若様をどこか安全な場所へ……」


「安全な場所など、この世界のどこにあるというんだ」


私は小さくつぶやいた。声には一切の感情がこもっていなかった。

母親も師範も、私のその異常な冷たさに一瞬息をのんだが、迫り来る追手の気配がそれを追及する猶予を与えなかった。森の奥から、樹木をなぎ倒しながら近づいてくる巨大な足音が響く。他国の誇る騎兵戦力——重装甲を纏った「陸竜騎兵」の追撃隊だ。


「ちっ……もう追いついてきおったか……!」


師範は血の泡を吹きながら、再び大剣を構えた。彼の足元はすでに生まれたての小鹿のように震えている。限界を超えた肉体を、ただ忠義と気迫だけで動かしているに過ぎない。


「アレン、奥様をお連れして先へ走りなさい! 私がここで奴らを食い止める!」


「ベネディクト……! 一緒に行きましょう、貴方まで死んでしまったら……!」


母親が泣き叫び、師範の袖を掴もうとする。しかし、師範はその手を強く振り払い、鋭い眼光で私を射抜いた。


「若様……お覚悟を決められよ! 生きて、いつかこの屈辱を……!」


その言葉を最後に、師範は血煙を上げながら、暗闇から現れた巨大な陸竜の群れへと単身で躍り出た。

刃と鱗がぶつかり合う凄まじい金属音、肉が引き裂かれる音、そして師範の最後の咆哮が森の中にこだまする。だが、その抵抗もほんの数秒のことだった。巨大な顎が噛み合わさる重い音が響き、彼の気配はあっけなく途絶えた。王国最強と謳われた剣士の命など、巨竜の軍勢の前には踏み潰される虫ケラと同義だった。


「ベネディクト……ッ!」


母親が絶叫し、その場に崩れ落ちる。私は彼女の腕を力任せに引っ張り上げ、前だけを見て走り出した。


「立つんだ、母上。立ち止まれば死ぬ」


「アレン……どうしてそんなに冷たいの……? お父様も、ベネディクトもいなくなったのよ……! 私たちはこれからどうなるの……!?」


母親は涙で顔をグシャグシャに濡らし、私に助けを求めるような目を向けた。だが、私の中に答えてやるような温かい感情は一片も残っていなかった。温もりや情愛など、この冷酷な世界では生き残るための邪魔な重りに過ぎない。


「知るかよ。だが、俺は死なない。どんな手を使ってでもな」


背後から迫る陸竜の咆哮と、泥を跳ね上げる追手の足音。絶望という名の闇がどこまでも広がる森の中を、私は涙を流す母親の手を引いて、ただひたすらに泥を啜るような逃亡の道を駆け抜けていった。前世のパリピとしての軽薄な仮面は完全に剥ぎ取られ、その下から覗くのは、生き延びることだけに特化した冷酷な生存本能の芽生えだった。

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