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86 第18章:影の王の誕生—

第18章 第2節


打ち捨てられた古城塞「断頭台の天守」の内部、かつて要塞指令官の執務室であった半崩壊の密室。


天井の割れ目から冷ややかな月光が筋となって差し込み、湿った石畳と黒ずんだ真鍮配管を淡く照らしていた。


室内には、濃厚な生体薬品の匂いと、甘く毒々しい香水の香りが混ざり合って充満していた。


「あ……ぁ……ッ……アレン様……」


しなやかな白い肢体を濡らし、私にしがみつくようにして吐息を漏らしていたのは、街道の途中で自ら接触を図ってきた新たな女——ガレス=アルド帝国の裏社会を牛耳る闇商人連合の幹部であり、同時にサンクチュアリ王国の高位外交官の血を引く高級娼婦兼情報暗殺者、『エリス』であった。


彼女は、帝国第3師団がたった一夜で壊滅したという凶報に激震した他国の闇組織から遣わされた「新たな接触者」であった。


彼女たちの企みは明快であった。

第3師団を全滅させ、諸国の政治的思惑をすべて蹴り飛ばした「怪物(レヴナント)」に対し、武力や金銭での懐柔が不不可能であると悟った闇の勢力は、今度は「肉体」と「快楽」、そして「帝国内部の極秘情報」という生々しい誘惑をもって私を縛り付け、自らの傀儡(道具)としてコントロールしようと試みたのだ。


エリスは自らの衣服を脱ぎ捨て、一切の武器を持たぬ全裸の肉体を差し出し、甘く痺れるような神経毒を混ぜ込んだ香水を身に纏って私に群がってきた。


「私……私をどうにでもなさってください……。帝国の『第一防衛線』の抜け道も、十三人委員会の弱点も……私のすべてをあなた様に差し上げます……。ですから……どうか私をお側に……」


彼女の白い腕が私の首に巻き付き、その豊かな胸が私の胸郭へと押し付けられる。

彼女の指先は、私の肌を這い、男としての情動と本能を激しく揺さぶろうと、妖艶な身震いとともに体温を伝えてきていた。


普通の人間の男であれば、復讐の旅路の中で差し出された絶世の美女の肉体と、喉から手が出るほど欲しい敵国の極秘情報に、一瞬の安らぎと快楽を見出すのだろう。極限の緊張状態から解き放たれ、女の温もりに身を委ね、自らの傷ついた心を一時的に癒やそうとするはずだった。


だが——。


彼女の滑らかな背中に右腕を回し、その引き締まった腰を強く抱き寄せている私の「死んだ目」には、色香の欠片すら浮かんではいなかった。


私の脳内で機能していたのは、生体解剖学、皮膚感覚における熱伝導率、ならびに生体神経回路の電気的スキャンだけであった。


(心拍数、毎分六十。体温変化、ゼロ。相手の皮膚表面からの神経毒吸収速度……秒速ゼロ・一ミリグラム。体内過剰再生血による完全無効化完了)


そう。彼女が身に纏っていた痺れるような神経毒も、男の本能を狂わせるフェロモンも、私の体内を巡る「過剰再生血」の凶悪な生体エネルギーの前には、ただの無害な可燃性有機物に過ぎなかった。


私にとって、腕の中で甘い吐息を漏らし、必死に情熱を演じて抱きついてくるエリスという女の肉体——それは「快楽の対象」などでは断じてなく、単なる『体温を持った高密度のタンパク質構造体』でしかなかった。


「……ッ……!?」


私に抱かれながら、エリスの瞳にふと絶望的な戦慄が走ったのを、私は肌の密着を通じて冷ややかに感知した。


女は気づいてしまったのだ。


自分がどれほど甘い声を上げ、どれほど妖艶に肉体を脈打たせ、どれほど男の快楽を刺激しようと、自分を抱いている十五歳の少年の心拍数が一回たりとも乱れていないという事実に。


彼の抱擁には、慈愛も、情欲すらも存在しない。

ただ、物理的な圧力として自分の肉体を抱え込んでいるだけであり、その肌からは人間特有の生温かい体温ではなく、まるで精密な鉄の機械のような、冷え切った自傷再生の熱量しか伝わってこないという事実に。


「あ……アレン様……? 私を……見てくださらないのですか……?」


エリスがすがるように顔を上げ、私の顔を見つめようとした。


しかし。


彼女を力強く抱き寄せたまま、私の視線は——目の前の女の顔にも、その美しい瞳にも一ミリたりとも向けられてはいなかった。


私の無機質な「死んだ目」が見据えていたのは。


崩れた天守の割れ目の向こう、はるか北の地平線——ガレス=アルド帝国の本国を飛び越えたそのさらに遠く、大陸の北東に聳え立つ、次なる敵国「北方魔導連邦」の暗雲立ち込める空であった。


軍事地政学、ならびに構造破壊の連鎖重合計算。


帝国第一防衛線、四万六千の兵力。

彼らを我が過剰再生血の連鎖起爆によって全滅させた後、その破壊の衝撃波(ショックウェーブ)が大陸全土へどのように波及するか。


帝国を解剖し、破滅させた後に残る巨大な権力の空白。

そこに必ず雪崩れ込んでくるであろう、北方魔導連邦の巨大な魔導師団と、サンクチュアリ王国の聖騎士団。


彼らは帝国という病巣が全滅した瞬間、自らの権益を拡大するために、この地へハイエナのごとく押し寄せてくるだろう。そして、自分たちの脅威となる私という存在を、全国家の力を結集して圧殺しようとしてくるはずだ。


「帝国の第一防衛線など……ただの通過点(チェックポイント)に過ぎん」


私のだだっ広い無感動の声が、しがみつくエリスの耳元に冷ややかに響いた。


「な……に……っ!?」


「お前たちが私に差し込もうとした情報、お前たちの背後にいる他国の王族や闇商人たちの企み……そのすべてが、私の『解剖方程式』の計算領域の中では、すでに処理済みの過去のデータだ」


私は腕の中のエリスの肉体を、雑な荷物でも扱うかのように無造作に押し放した。


ドサッ……。


「きゃっ……!?」


冷たい石畳の上に放り出されたエリスは、全裸のまま肌を震わせ、信じられないものを見る目で私を見上げた。


彼女が誇ってきた美貌も、男を狂わせてきた肉体も、自国の未来を左右する極秘情報すらも、私という存在の前には、一粒の砂利と同等の無価値なノイズに過ぎなかったのだ。


「私を道具として扱おうとしたお前たちの甘え……それがどれほどの物理的エラー(愚行)であるか、じっくりと計算してみるがいい」


私は足元に転がるエリス視線すら送らず、黒磁の短剣の柄に手をかけたまま、崩れた天守の窓枠へと歩み寄った。


月光が照らし出す、私の横顔。

自らの手足を切り刻み、骨を粉砕し、全細胞の99パーセントを瞬間気化させてもなお立ち上がる「再生」の暗殺者。


群がってきた新たな女の温もりすらも一瞬で捨て去り、その「死んだ目」はすでに、帝国を滅ぼしたその先にある「世界そのものの解剖」という、途方もない破壊の地平だけを冷酷に見据えていたのだった。

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