85 第18章:影の王の誕生—
第18章 第1節
帝国本国へと続く「黒鉄の峡谷」を完全に抜けきったその境界線上に、古代の巨大な軍事建造物の無残な残骸が佇んでいた。
かつて数世紀前、大陸の東西を分断する大戦争の折に防衛の要として築かれ、やがて時代の趨勢とともに歴史の闇へと置き去りにされた廃城塞——通称『断頭台の天守』。
幾重もの巨石を積み上げて築かれたその外壁は、長年の雨風と魔導兵器の爪痕によって無残に削り取られ、黒く燻った石畳の隙間からは、毒々しい赤紫色の野草が不気味に芽を吹いていた。
ザッ……。
泥と乾燥した返り血で黒ずんだブーツが、崩落した城塞の最上層——かつて指揮官が広大な戦場を見渡していたであろう「見張り台」の石畳を踏みしめた。
私——アレン・フォン・ヴァルハイト(レヴナント)。
夜風が激しく吹き荒れる城塞の頂。見下ろす視界の先には、地平線の彼方まで広がるガレス=アルド帝国の広大な本国領土が、不気味な魔導灯の光と黒煙の網の目となって広がっていた。
「……レヴナント様」
私の背後、崩れた石壁の影から、シルヴァが滑らかに姿を現した。
彼女の着衣には、先ほど「黒鉄の峡谷」で刺客たちを処理した際の、乾燥した敵血の飛沫が黒くこびりついていた。しかし、彼女の視線はすでに過ぎ去った戦闘ではなく、私の眼下に広がる帝国の巨大な闇へと向けられていた。
「ここが……ガレス=アルド帝国の本国国境。かつて誰も力づくで突破することができなかった、絶対不可侵領域……『帝国第一防衛線』の入り口です」
シルヴァの声には、長年暗殺ギルドの刺客として帝国の影の暴力を叩き込まれてきた者特有の、生理的な威圧感と重圧が混ざり合っていた。
帝国の本国領土。
そこは、旧ヴァルハイト領のような「占領地(辺境)」とは根本的に規模も密度も異なる領域であった。
地上を埋め尽くす幾重もの鉄塞、空を交錯する高圧の魔導警戒網、そして幾万人もの正規軍歩兵と、皇導魔導院が手塩にかけて生み出した無数の異形・生体兵器たち。
さらには、第3師団の全滅と「再生の血統」の生存発覚という衝撃のニュースを受け、本国の防衛体制は過去最高レベルの警戒態勢へと移行していた。地平線のあちこちで、赤紫色の魔導警戒光が狂ったように明滅し、空気を絶え間なく揺らしているのが、この打ち捨てられた城塞の頂からでもはっきりと視認できた。
「帝国の全軍、ならびに十三人委員会の魔導士たちが、すでにこの国境線へ集中配置されています」
シルヴァが低く呟く。
「彼らはあなた様を『捕獲すべき検体』から、一瞬で蒸発させるべき『最優先駆除対象』へと切り替えました。……この境界線を一歩でも踏み越えれば、過去のどのような戦闘とも比較にならない、国家規模の暴力を叩きつけられることになります」
国家規模の暴力。
何万もの兵力、何千門の魔導砲、そして国の威信をかけた防衛システム。
普通の人間であれば、この打ち捨てられた城塞の頂から敵の巨大な防衛網を見下ろした瞬間、自らの存在の小ささに戦慄し、絶望に身をすくませるだろう。どんなに個人的な戦闘能力に優れていようと、一国の全軍勢という膨大な「物量」の前には、砂粒のように踏み潰されるのが世界の物理的な常識だからだ。
だが——。
風に髪を揺らせながら、絶望の要塞陣地を見下ろす私の「死んだ目」には、微かな動揺の色彩すら浮かんではいなかった。
私の中で機能していたのは、物理学、流体力学、ならびに閉鎖系における連鎖重合爆発の構造計算だけであった。
(帝国第一防衛線……総兵力、四万六千。防衛要塞基数、四十二。魔導伝送ラインの密度……極めて過密……)
私は冷ややかに口元を緩めた。
そう。敵が自らの領域を守るために「防衛網を密にし、兵力を集中させればさせるほど」、それは私にとって『最高の爆縮燃料』へと変貌するのだ。
密度が高ければ高いほど、過剰再生血の気化微粒子の伝播速度は跳ね上がる。
魔法の出力が高ければ高いほど、摩擦熱による自爆の誘爆エネルギーは跳ね上がる。
重装甲の兵士が密集していればしているほど、筒状の通路や陣地の中で骨ごと圧殺される「人間弾薬」の効率は最大化される。
「彼らは……我が軍勢の物量と、防衛システムを誇っているつもりなのだろうな」
私の感情の削ぎ落とされた声が、城塞の頂の夜風に交ざった。
「な……レヴナント様……?」
「構造物理学、ならびに熱力学における基本だ」
私は黒磁の短剣を引き抜き、不気味な熱を帯びた刃先で、遠く暗闇に輝く帝国の主防衛要塞を静かに指し示した。
「過剰に組み上げられた巨大なシステム(構造物)ほど、一度内部に一つの欠陥が発生した際、そのエネルギーを外へ逃がすことができず、内側から完璧に自己崩壊を起こす」
帝国の誇る巨大な軍事機構。
それは彼らにとっては絶対の防壁かもしれないが、私にとっては「巨大であればあるほど、一度点火した際の爆発力が跳ね上がる巨大な自爆装置」に過ぎないのだ。
「レヴナント様……あなた様は、あの何万という帝国の本国軍を……この要塞の頂から……どのような方程式で解剖されるおつもりですか」
シルヴァが、戦慄を押し殺しながら問いかけてきた。
私は答えなかった。
ただ、自らの左手首の傷口を黒磁の刃で静かに押し切り、滴り落ちる過剰再生血を、打ち捨てられた城塞の石畳へと垂らした。
ぽたり……ぽたり……。
私の血が石畳の亀裂を伝い、古びた城塞の奥深くに眠る「旧時代の高圧魔導伝送管」へと、静かに浸透していった。
5年前、伯爵邸で私の肉体をすり潰そうとした帝国。
仇敵を全滅させ、故郷を捨て、さらなる暗黒の深淵へと足を踏み入れた「動く死体」。
打ち捨てられた城塞の頂に立つ十五歳の少年は、自らの血を猛毒の触媒として、いまやガレス=アルド帝国という巨大な国家そのものを解剖・ハメ殺すための、最初の方程式を静かに刻み込み始めていたのだった。




