84 第17章:全世界への存在誇示
第17章 第5節
「黒鉄の峡谷」の暗い岩肌に、焼き尽くされた刺客たちの血肉がどろりとこびりついていた。
政治的思惑や国家の陰謀を携え、私を「自国の兵器」として取り込もうと蠢いていた諸国の刺客たち。その全滅の残骸を踏み越え、私は立ち止まることなく北へと足を進めていた。
振り返る視界の最奥には、煙を吐き出し続けるかつての故郷——ヴァルハイト伯爵領の山並みが、夜の闇の中に小さく霞んでいた。
白亜の城の崩壊。
帝国軍第3師団の全滅。
そして、かつての領民たちの見捨てと、自分を害し込もうとした刺客たちの屠殺。
ひとつの巨大な「解剖作業」が終わりを告げたその場所は、かつて私が生まれ、父の温かな手と母の微笑みに包まれて育った、愛おしい故郷そのものであったはずだ。
普通の人間の英雄であれば、敵を排除したその土地に踏みとどまるだろう。
領地の再建を掲げ、領民たちを率いて城を建て直し、自らが正統なる領主として君臨して、奪われた故郷の誇りを取り戻そうとするはずだ。あるいは、復讐を遂げた安らぎを求めて、かつての思い出の場所で静かに余生を過ごそうとするのかもしれなかった。
だが——。
遠ざかる故郷の影を見つめる私の「死んだ目」には、郷愁の念も、愛着の感情も、未練の欠片すら浮かんでいなかった。
私の脳内で機能していたのは、前世の軍事地理学、領域支配理論、ならびに自傷再生システムの持続的運用における計算式(ハメ殺しの最適化)だけであった。
(ヴァルハイト伯爵領……地理的価値、ゼロ。防衛拠点としての有用性、ゼロ。存在価値……完全に消滅)
「領地」という概念。
それは、生きている人間が社会というシステムを維持し、財産を蓄え、子孫を残すために必要な「領域の固定」に過ぎない。
だが、自らの手足を犠牲にし、過剰再生の血を刃に変えて敵の構造を解剖し尽くす「ただの動く死体」となった今の私にとって、一つの場所に踏みとどまり、土地を支配することなど、己の前進を阻害する「巨大な足手まとい(死重)」でしかなかった。
土地に縛られれば、敵に位置を特定される。
領地を経営すれば、防衛コストが発生し、領民という弱点を握られる。
過去の思い出の場所に執着すれば、自傷再生の刃のキレを狂わせる「感情」という名の不純物が心に混入する。
「捨てる」のではない。
ただの無価値なデータとして、私の計算領域から永久に「除外(消去)」しただけなのだ。
「……本当に、よろしいのですね」
私の数歩後ろを歩むシルヴァが、消えゆく故郷の山並みを最後にもう一度だけ振り返り、掠れた声で問いかけてきた。
「あそこは……あなた様のご両親が眠り、あなた様が『アレン・フォン・ヴァルハイト』として生を受けられた、唯一の故郷です。……二度と、戻られることはないのですか?」
「故郷?」
私は歩みを止めることなく、氷のように冷ややかな声で短く応じた。
「あそこは……5年前に解剖手順を誤って残骸を撒き散らした『ただの実験室の跡地』だ。清掃作業が終わった実験室に、二度と足を踏み入れる意味など存在しない」
「……ッ……」
シルヴァが息を呑み、固く唇を噛み締めた。
哀惜の涙すら流さない。
思い出に縋りつくことすら拒絶する。
故郷という人間にとって最も尊いはずの根拠地すらも、無感動をもって「使い捨ての実験場」として切り捨てていく。
その立ち姿は、もはや人間のそれではない。過去も、情も、存在の根すらも自ら切り落とし、ただ敵を破滅させるためだけに暗黒の深淵へと沈んでいく、完全なる「怪異の死神」そのものであった。
「シルヴァ」
私は振り返ることなく、淡々と命じた。
「お前には選択肢がある。私に付き従う義務はない」
「……え……?」
「ヴァルハイト領の害獣駆除は完了した。お前が暗殺ギルドの呪縛から逃れ、他国で一人の人間として生きていくための条件は、すでに満たされている」
契約理論における清算。
私にとって、彼女は「ハメ殺しの方程式」を補強するための有用なパーツ(影)であった。だが、彼女が私という動く死体の暗黒の歩みに付き合い続ける必要など、論理的には存在しないはずだった。
「私の前進する道には、人間としての安らぎも、栄光も、救いも存在しない。あるのは……ただ自らの肉体を切り刻み、世界という病巣を解剖し尽くすための、終わりのない激痛と殺戮の地獄だけだ」
私は踏み出した脚を止めず、暗闇の街道の先へと視線を注いだ。
「お前が人間としての生を望むなら……ここで去れ」
静寂が、二人の間に流れた。
夜風が枯れ葉を吹き散らし、巨岩の隙間を不気味な笛の音のように通り抜けていく。
数秒の沈黙の後。
サッ……。
迷いのない靴音がひとつ、私の背後の至近距離で響いた。
シルヴァは頭を垂れ、漆黒の短剣を胸前で逆手に構え、私の影と重なるようにして完全にその身を沈めた。
「……いいえ」
彼女の銀灰色の瞳には、かつて浮んでいた迷いや恐怖の色彩は消え去り、ただ一つの揺るぎない「覚悟」が宿っていた。
「私は……影です。人間としての生も、安らぎも、あの暗殺ギルドの地獄でとっくに捨て去りました。……あなた様が己の肉体を刻み、世界を解剖し尽くすその最期まで……私はあなた様のただ一つの『使い捨ての刃』として、どこまでもお供いたします」
「……好きにしろ」
私は一切の感情の揺らぎを見せることなく、短く吐き捨てた。
引き止めることも、感謝することもしない。
彼女が影として付き従うなら、それもまたハメ殺しの方程式における「一つの有用な変数」として処理するだけだ。
街道の先——「黒鉄の峡谷」を抜けた視界の彼方には、ガレス=アルド帝国本国を覆う、漆黒の雲とどろどろとした魔導の不気味な光が広がっていた。
そこは、この世界に理不尽な暴力を撒き散らし、我が一族をすり潰し、数多の人間を怪異へと変え続けてきた「病巣の心臓部」。
そこには、将軍ヴァルターやザハール中佐を遥かに凌駕する絶大な軍勢、十三人委員会の老魔導士たち、そして帝国を統べる絶対の皇帝が待ち受けているだろう。
彼らは、自らが創り出した「再生」という名の怪物に対し、あらゆる手段と兵力を総動員して襲いかかってくるはずだ。
だが——。
私の右手に握られた黒磁の短剣が、暗闇の中で一瞬、不気味な赤紫色のスパークを散らした。
恐怖など存在しない。
迷いなど存在しない。
自らの手足を千切り、骨を突き立て、物理・化学・解剖学の法則に従って敵のシステムを内側から破裂させる「自傷再生のハメ殺しの方程式」は、すでに完成しているのだから。
「解剖実験の第二段階を始める」
私は静かに、境界の暗闇へと足を踏み入れた。
領地を捨て、過去を捨て、故郷という根拠地すらも完璧に消去した暗殺者レヴナント。
人間であることを完全にやめ、ただの「動く死体」と化した少年は、帝国という巨大な肉の塊を内側から惨絶にハメ殺し、全滅させるために、さらなる深い暗黒の闇の中へと、静かに、そして二度と戻らぬ足取りで消えていくのだった。




