78 第16章:復讐の終焉と空虚
第16章 第4節
領民たちの絶望に満ちた叫びと悲鳴が風の音に掻き消され、完全に途絶えた暗い街道。
私とシルヴァは、かつてヴァルハイト伯爵領の境界を示していた古びた石造りの境界標の前に佇んでいた。
境界標には、伯爵家の象徴であった「一輪の白亜の花と剣」の紋章が刻まれていた。しかし、五年間の放置と敵国の占領によって、その紋章は無惨に削り取られ、黒ずんだ苔と風雨による浸食で原型を留めていなかった。
夜風が吹き抜け、枯れ葉が石畳の上をカサカサと乾いた音を立てて転がっていく。
「……レヴナント様」
私の数歩後ろに影のように控えるシルヴァが、静かに声をかけた。その声には、要塞を全滅させ、領民たちを容赦なく見捨て、故郷を完全に後ろ足で蹴り散らして去っていく私に対する、言葉にできない重圧と冷気が混ざり合っていた。
「要塞は跡形もなく破滅し、将軍ヴァルターもザハール中佐も、そして占領部隊もすべて滅びました。……ですが……」
シルヴァは言葉を詰まらせ、削り取られた境界標の紋章へと目線を落とした。
「この地に……残ったものは、何もありません。白亜の城も、あたたかだった街並みも、ご両親の笑顔も……何一つ、戻ってはまいりませんでした」
彼女の発した言葉は、復讐劇というものの残酷な真実を的確に射抜いていた。
あらゆる物語において、復讐とは「奪われた者を取り戻すための闘争」として描かれる。仇敵を倒せば、胸のつかえが下り、失われた尊厳が戻り、亡き者の魂が救われて、故郷には再び光が差し込むのだと、人は信じたがる。
しかし——。
破砕された境界標を見つめる私の「死んだ目」には、そんな甘美な幻想の入り込む隙間など、一微粒子すら存在しなかった。
「戻る?」
私は感情の起伏を一切排した、完璧に冷え切った声で短く問い返した。
「シルヴァ、お前は最初から存在しない『因果の逆転』を期待していたのか?」
「……え……?」
「物理学、熱力学第二法則における『不可逆性(エントロピーの増大)』の真理を教えてやろう」
私は黒磁の短剣の鞘を指先で軽くなぞりながら、淡々と、そして冷酷に世界の法則を解剖していった。
「壊れた硝子細工をどれほど精巧に叩き割ったところで、飛び散った破片が元の美しさに組み上がることはない。焼失した物質がどれほど複雑な化学反応を起こそうと、元通りの分子構造へと巻き戻ることはない。……それがこの物理世界の絶対のルールだ」
五年前のあの夜。
白亜の城が焼き払われ、父の首が刎ね飛ばされ、母の肉体が陸竜の自重によって押し潰された、あの瞬間。
「アレン・フォン・ヴァルハイト」という少年が享受していた幸福な過去、両親の愛情、領主の息子としての未来……そのすべての生体情報と物質的価値は、完膚なきまでに破砕され、熱と灰となって大気中へ放散されたのだ。
仇敵であるヴァルターを体内の過剰再生血で破裂させようが。
ザハールを三千度の可燃性気体爆縮で蒸発させようが。
帝国軍第3師団の一千余名を要塞ごと生きたまま焼き尽くそうが。
その流された血液の総量がどれほど膨大になろうとも、五年前のあの夜に失われた分子一つ、過去の思い出の一秒すらも、元通りに再構成されることなど万に一つもあり得ないのだ。
「復讐を果たせば過去が戻る、などという考えは……物理法則を理解できない愚者の甘い錯覚だ」
「……復讐を果たしても何一つ戻らない……その恐ろしい事実を……あなた様は最初から分かっておられたのですか?」
シルヴァの声が、微かに震えていた。
「分かっていたのではない。ただの当然の『事実の受容』だ」
そう。私は悲しんでいるのではない。虚無感に打ちひしがれているのでもない。
「何も戻らない」という冷烈な現実を、怒りも哀惜も挟まずに、ただの冷たい化学方程式の計算結果として「当たり前に受け入れている」だけなのだ。
最初から取り戻すために戦ったのではない。
亡き父や母を生き返らせるために仇を殺したのではない。
自分からすべてを奪い去った理不尽な構造が存在しているという事実に対し、自らの肉体を切り刻み、過剰血を刃に変えて、解剖学的に「その構造を破砕・処理した」という物理的作業を遂行したに過ぎない。
「ならば……」
シルヴァが地べたに膝をつく勢いで、震える瞳で私を見上げた。
「手足を粉砕し、骨を突き立て、己の肉体を刻み続けて得たものが……ただの『何も戻らない』という冷たい事実だけだというのなら……あなた様の戦いには、一体何の意味があったのですか……!? あなた様の苦痛は……一体何のために……!?」
彼女の問いは、人間としての情緒を持つ者なら誰もが抱く、切実な悲鳴であった。
自らの手足を千切り、痛みの神経を焼き切り、人間性をドブに捨ててまで完遂したハメ殺しの果てに、得られたものが「無」であるならば、その苦痛と惨劇は何のためのものだったのか。
「意味?」
私はゆっくりと振り返り、冷たい月光の下でシルヴァを見下ろした。
暗闇に浮かび上がる私の瞳。そこには、復讐を終えた者の快感も、何も戻らないことへの絶望すらも存在しない、完全なる「死んだ目」が宿っていた。
「意味など、最初から一ミリグラムも存在しない」
「……っ!?」
「前世の計算作業と同じだ。紙の上に書かれた複雑な誤った数式を、消しゴムで削り取り、正しい『ゼロ』を書き込んだ。……そこにどのような情操的意味がある? 部屋を掃除し、ゴミを砕いてゴミ箱へ捨てた後、『ゴミを捨てた意味とは何か』と問うことに何の意味がある?」
私にとって、ヴァルターも、ザハールも、帝国軍第3師団も、すべては世界という構造物の中に発生した「排除すべき解剖学的ゴミ(ノイズ)」に過ぎなかった。
ゴミを処理したからといって、過去の宝物が手元に戻ってくるわけではない。
ただ、ゴミが消えて「空間が平坦になった」という物理的状態が残るだけだ。
「私は苦痛を耐えたのではない。自傷再生の激痛を、単なる電気信号として処理しただけだ。私が流した血液も、破壊された骨格も、仇敵を完璧に屠殺するための使い捨てのパーツに過ぎん」
私の言葉には、一切の迷いも、自己憐憫すら含まれていなかった。
復讐を果たしても何一つ戻らない。
失われた幸福は永遠に失われたままであり、死んだ両親は二度と微笑みかけてはくれない。自分は未来永劫、まともな人間としての温もりを取り戻すことはできない。
そのあまりにも冷酷で、容赦のない世界の現実を、私は一片の感情の揺らぎすら見せずに、冷烈に、完璧に受け入れていた。
「過去は戻らん。失われたものは二度と再構成されん。……だからどうした?」
私は黒磁の短剣の柄に手を伸ばし、境界標を踏み越えて、暗い街道の先へと足を踏み出した。
「戻らない過去に執着し、泣き喚くのは生きた人間の甘えだ。……私は五年前のあの夜にすでに死んでいる。死人に戻すべき過去など、最初から存在しないのだから」
完全なる無感動。完全なる現実の受容。
復讐の虚しさに酔うことすら拒絶し、冷え切った物理法則のままに佇む暗殺者レヴナント。
何一つ戻らない絶望の荒野を、少年はただ淡々と、自らの自傷再生の方程式を完遂させるためだけに、次なる暗黒の地平へ向かって歩み続けていくのだった。




