77 第16章:復讐の終焉と空虚
第16章 第3節
煙の立ちのぼる丘を下り、瓦礫と化したかつての城下町の中装路へと差し掛かった時、私の目の前を遮るように無数の人影が暗闇から擦り寄り、群がってきた。
それは、5年間にわたって敵国「漆黒の処刑手」の苛烈な占領と奴隷化に耐え忍び、地下実験室で試薬の材料としてすり潰される恐怖に怯え続けていた、かつてのヴァルハイト伯爵領の領民たち——生き残りであった。
「あ……アレン様……! 本当に、アレン・フォン・ヴァルハイト様なのですね……!?」
「ああ、神よ……! ヴァルハイトの若様が……あの恐ろしい占領軍を……要塞を一人で打ち払ってくださったのだ!」
ボロ切れのような服を纏い、過酷な労働と飢えで痩せこけた男や女、そして幼い子供たちが、私を取り囲んで地べたにひざまずいた。彼らの目には、長年の恐怖から解放された歓喜の涙と、我がヴァルハイト伯爵家の血を引く「正統なる領主の帰還」に対する狂信的な期待が宿っていた。
「アレン様! お救いください! 街は破壊され、冬を越すための食糧も、住む家もありません!」
「伯爵様のご遺志を継ぎ、どうか再び私たちを導いてください! 私たちを……この哀れな領民たちをお見捨てにならないでください!」
ひざまずいた老婆が、震える手で私のブーツの裾へ縋りつこうと手を伸ばしてきた。
かつてこの土地が平和であった頃、私の父・ヴァルハイト伯爵は「領民は我が家族であり、領主の義務とは彼らの生活と命を命がけで護ることだ」と語っていた。幼い頃の私は、父の背中を見つめ、領民たちの温かな笑顔に囲まれて健やかに育っていた。
普通の物語の主人公であれば、この惨状を目にして胸を痛めるのだろう。
奪われた故郷の生き残りを哀れみ、「私が来たからにはもう大丈夫だ」と抱きしめ、領地の復興と彼らの保護を誓うはずだ。亡き父の遺志を継ぐ正義の領主として、哀れな人々を救うために自らの力を捧げるはずだった。
だが——。
私の足元に縋りつこうとした老婆の手を、私は心を動かすことなく、無造作な一歩で冷ややかに踏み外した。
ザッ……。
「……ア……アレン様……?」
老婆が呆然と顔を上げた。
私が見下ろす「死んだ目」——そこには、領民たちへの慈愛も、同情も、亡き父の領主としての誇りすらも、一切存在していなかった。
「話しかけるな」
私の口から漏れたのは、氷の楔のごとき無機質で平坦な声であった。
「……え……?」
「私には、お前たちを救う理由も、保護する義務も、領地を復興させる義理も一切存在しない」
重苦しい静寂が、群がる領民たちの間に伝染していった。彼らは耳を疑うように互いの顔を見合わせ、信じがたい言葉を発した「元・領主の息子」の顔を見つめ返した。
「な……何を仰るのですか、アレン様!?」
かつて伯爵家で職人をしていたという老人が、声をひっくり返して叫んだ。
「私たちはヴァルハイト伯爵領の領民です! お父上であられる前伯爵様は、常に私たちを護るために心を砕いておられました! そのお父上の血を引く貴方が……なぜ私たちを見捨てるのですか!?」
「前伯爵——私の父は死んだ」
私は感情の入らない声で、淡々と解剖学的な事実を告げた。
「父が重んじた『領主の義務』や『領民への愛』という価値観は、父という個体が生命活動を停止した瞬間に、この世界から消滅した。……死者の思想をお前たちが私に押し付けるのは、ただの論理的破綻だ」
「そんな……!私たちは貴方のために、これまで必死に耐えてきたのですぞ!?」
「耐えたのはお前たちが自らの生存本能に従った結果に過ぎん。私には無関係だ」
私は自らの左手首の傷口を軽く触れ、再生したばかりの皮膚を確かめながら言葉を続けた。
前世の人間社会における社会契約論、ならびに軍事資源配分の絶対的法則。
いまの私にとって、自らの肉体を切り刻み、過剰血を刃として戦い続けるために必要なのは「物理的な効率」と「仇敵を解剖し尽くすためのリソース」だけだ。
住む家を失い、食糧を求め、庇護を乞う数百人の領民という存在——それは、私というシステムの運用において、ただの『防衛コストの増大』と『移動速度の極端な低下(足手まとい)』という最悪の不純物でしかない。
彼らを救うために時間と労力を費やせば、帝国の深部へ向かうための私の計算が狂う。
彼らのために優しさを見せれば、敵に人質という弱点を与えることになる。
「アレン様……ッ! お願いです、子供だけでも……! この子だけでも救ってください!」
幼い少女を抱きかかえた母親が、なりふり構わず石畳に頭を擦り付け、血を流しながら涙を流して懇願してきた。
「この子は……前伯爵様から祝福をいただいた子なのです! どうか……どうか食糧を……暖かい場所を……!」
涙と悲鳴。人々の切実な生きるための叫び。
背後に控えるシルヴァが、耐えかねたように拳を固く握り締め、微かに息を詰めるのが気配で分かった。影の刺客として生きてきた彼女にとっても、幼子を抱えて絶望する母親の姿を目の当たりにすることは、精神を削り取るような苦痛であったのだろう。
だが——。
私の「死んだ目」は、泣き叫ぶ少女と母親を、ただの「体温を持つタンパク質の固まり」として等価にスキャンしただけだった。
「食糧も、暖かい場所も、私には一切存在しない」
私は二人を視線すら通さずに踏み越え、冷酷に歩みを進めた。
「生存競争における基本だ。自らの力で環境に適応できず、他者の慈悲に縋らなければ生存できない個体は、淘汰されるのが自然界の物理法則だ。……お前たちが餓死しようと、凍死しようと、私にとっては明日の天候の変化と同等の無価値なデータに過ぎん」
「あ……あぁぁぁぁぁっ……! 悪魔だ……! ヴァルハイトの若様は……悪魔になって戻ってこられたぁぁぁっ!」
背後から上がる、領民たちの絶望と絶叫の悲鳴。
救世主として崇め、帰還を祈っていたかつての領主の息子。
その少年が、自分たちの悲鳴にも、涙にも、亡き父の思い出にも一切の感情を動かさず、完璧な冷血さをもって自分たちをゴミのように切り捨てていく。
彼らにとって、要塞を全滅させた少年は「救世主」などではなく、かつての占領軍よりも遥かに恐ろしく冷酷な「人間性を欠落させた動く死神」へと映ったのだ。
「……よろしかったのですか、レヴナント様」
城下町の外郭を抜け、誰もいない暗い街道へと足を踏み出した時、シルヴァが追いつき、影の中から低い声で問いかけてきた。
「彼らは……あなた様のご両親が、命をかけて護ろうとした領民たちです。彼らを見捨てれば……あなた様を支持する者は、この世界に一人もいなくなります……」
「支持?」
私は立ち止まり、振り返ることなく短く応じた。
「私に必要なのは、支持者でも、信奉者でもない。……私の『ハメ殺しの方程式』を完遂させるために必要なのは、ただ自らの肉体を刃に変え、仇敵を解剖するための静寂だけだ」
「レヴナント様……」
「父が彼らを愛したからといって、なぜ私が彼らを愛さなければならない? 感情に流されて弱者を救おうとする甘えこそが、五年前のあの夜、我が一族を全滅に追い込んだ最大の計算ミス(スキ)だったのだ」
そう。優しさは隙を生む。同情は刃を鈍らせる。
弱者を救おうと足をとめた瞬間、暗殺者としての計算は狂い、敵の仕掛けた罠の前に足元をすくわれるのだ。
私が手に入れた「徹底的な無感動」という防壁。
それは仇敵の首を斬り落とすためだけでなく、かつての故郷、両親の思い出、そして哀れな領民たちの悲鳴すらも完璧に無視し、切り捨てるための最強の冷血さであった。
「前へ進むぞ、シルヴァ」
背後から風に乗って届く、見捨てられた領民たちの哀涙の声を、私は意識の奥底で遮断した。
故郷を救い、英雄として崇められる道など、最初から存在しない。
ただ自らの肉体を自傷再生の刃とし、世界そのものを解剖するために、死に損ないの暗殺者レヴナントは、暗闇の広がる地平線へ向けて、どこまでも冷酷に歩みを進めていくのだった。




