72 第15章:城塞の罠と化学爆破
第15章 第3節
可燃性エーテルとメタン系生体ガス、そして気化された過剰再生血のエアロゾルが濃密に充満し、目に見えぬ死の気配が揺らめく「第1生体実験中枢」。
大広間の最奥、主魔導制御台の上で単眼鏡を激しく明滅させていたザハール魔導中佐は、完全密閉された鋼鉄扉と、室内を満たす揮発性薬品の異常な密度を前に、冷汗を額から吹き出させていた。
「く……くそッ! 騙されるな! 惑わされるな!」
ザハールは取り乱した声を張り上げ、狼狽する数人の魔導技師の襟首を力任せに掴み上げた。
「この小僧の言っていることはハッタリだ! 魔法の知識も持たぬ死に損ないが、適当なハッタリで我らを威嚇しているに過ぎん! 我らにはまだ、要塞外郭に待機する『第3師団増援連隊』と、予備の『完成型不死兵士』二〇〇体が存在するのだぞ!」
彼が制御台の緊急通信魔導具に狂乱の勢いで魔力を叩き込んだ、その瞬間であった。
ブツンッ……!!
通信回路から発せられたのは、指令室からの返答ではなく、要塞外郭の防衛線を突破して急行してくる膨大な軍靴の重奏と、重装甲歩兵たちの叫び声であった。
『——こちら第3師団第2増援連隊! 司令部、応答せよ! 第1実験中枢からの緊急防衛要請(SOS)を受信した!』
『将軍ヴァルター閣下が討ち取られたとの報は真実か!? 直ちに全軍、本館最上階へ突入! 侵入者を包囲・磨滅せよ!』
ズズズズズズズズッ……!!
要塞の垂直昇降シャフトと大階段を揺らし、重装甲を身に纏った帝国軍の増援部隊一千余名、ならびに予備の不死兵士の大群が、黒煙の立ち上る本館内部へと雪崩れ込んできたのだ。
「来た……! 来たぞ!」
ザハールが狂喜に顔を歪ませ、単眼鏡の奥の目をギラつかせた。
「見たか、ヴァルハイトの残骸め! 増援だ! 帝国軍の重装歩兵連隊が、この最上階へ向けてなだれ込んできた! 貴様がどれほど小細工を弄しようと、一千を超える我が軍の圧倒的物量の前に踏み潰される運命なのだ!」
「増援、ですか……」
私の背後に立つシルヴァが、昇降シャフトから迫り来る無数の足音と金属擦過音を感じ取り、短剣を構え直しながらわずかに眉をひそめた。
「レヴナント様……外郭の防衛線に残っていた敵の正規軍本隊が、この最上階へと集結しつつあります。このままでは、狭い大広間の中で完全に包囲され、数押しで揉み潰されます……!」
増援の一千余名。
普通の人間の暗殺者、あるいは復讐者であれば、この土壇場での敵大部隊の到着は、絶望以外の何物でもない。狭い空間で一千の重装甲兵に包囲されれば、いくら自傷再生の異能があろうとも、絶え間ない重火器と斬撃の嵐によって肉体を削り削られ、摩滅して敗北する。
しかし——。
扉の向こうから押し寄せる一千の足音を聞きつける私の「死んだ目」には、一片の動揺も、焦りの色彩すら浮かんでいなかった。
私の脳内で急速に書き換えられていたのは、増援部隊に対する恐怖などではなく、前世の軍事流体力学、集団心理学、ならびに閉鎖空間における爆発圧力の伝播計算式(ハメ殺しの最大化)だけであった。
(敵増援部隊……一千二百名。突入動線、中央昇降シャフトならびに主階段の二経路に集約……)
私は冷ややかに口元を緩めた。
そう。敵の増援部隊が、要塞外郭の広い空間に散開したまま待機していたならば、彼らを全滅させるのは容易ではなかった。広大な戦場では、爆縮や気体爆発のエネルギーが四方へ拡散し、敵の大部分を取りこぼしてしまうからだ。
だが、ヴァルターの戦死と要塞の異常事態に狼狽した彼らは、指揮官であるザハールを救出するため、そして侵入者を狭い最上階で押し潰すために——自ら進んで、要塞内部の『極小の筒状通路(昇降シャフトと階段)』へと集結し、密集してなだれ込んできたのだ。
「わざわざ外郭から、この狭い『火薬庫』の中へ自分から飛び込んできてくれたか」
私の感情の削ぎ落とされた声が、充満するエーテル臭の中に静かに響いた。
「な……何だと……!?」
ザハールが不審そうに目を見開く。
「構造力学、ならびに爆発エネルギーの指向性(ノイマン効果)における基本だ」
私は黒磁の短剣の先で、密閉された大広間の壁面を這う「高圧換気ダクト」のメインバルブを指し示した。
「広大な空間での爆発はエネルギーが拡散するが……筒状の閉鎖空間(シャフトや階段)へ向けて爆縮波を射出(誘導)した場合、その物理的破壊力と殺傷力は二乗で跳ね上がる」
「な……何を言って……っ!?」
「私は増援を恐れてなどいない」
私は自らの左手首の傷口から流れる過剰再生血を、足元の換気バルブの操作盤へと直接流し込んだ。
ガコンッ! ガコンッ!
要塞全域の換気システムが、私の血液を導線とした逆流制御を開始した。
大広間の中に充満させていた高濃度のジエチルエーテル、メタンガス、そして過剰再生血の微粒子が、高圧の排気ファンによって、まさに今押し寄せてきている「中央昇降シャフト」と「主階段」の内部へ向けて、濃密な死の気流となって一気に逆流・充満を開始したのだ。
『——な、何だこの臭いは!? 薬品の蒸気が上層から吹き降ろしてくるぞ!?』
『前が見えん! 息が……目が眩む!』
『押すな! 後ろから押すな! 階段が兵士で埋まっているんだ!』
昇降シャフトの奥から、混乱する一千の増援部隊の怒号と悲鳴が聞こえてきた。
狭い通路にぎゅうぎゅう詰めに押し寄せた一千の重装歩兵たち。彼らは前へ進むことも、後ろへ引くこともできず、私が大広間から送り込んだ「可燃性爆発気体」の充満する管の中に、自らぎっちりと詰まった『人間弾薬』として収まりきっていたのだ。
「敵の増援部隊を……城内へ誘導したのではない……」
シルヴァが、その恐るべき殺傷計算の全貌を悟り、息を呑んだ。
「この大広間、そして昇降シャフト全体を……敵一千人をまとめて蒸発させる『巨大な魔導大砲の砲身』としてセッティングされたのですね……っ!」
「その通りだ」
私は自らの右手の掌を黒磁の短剣で深く切り裂き、溢れ出る過剰再生血を短剣の黒磁の刃全体へと擦り付けた。
要塞の主冷却炉の熱暴走による全域誘爆まで、あと十五秒。
大広間に充満するジエチルエーテルとメタンガス。
昇降シャフトにぎゅうぎゅう詰めに密集した一千の敵増援部隊。
そして、逃げ場を失い、恐怖にガタガタと震えるザハール魔導中佐と帝国魔導技師たち。
「増援を呼んでくれて感謝する、ザハール」
私は黒磁の短剣を低く構え、絶対の殺意とともに仇敵の喉元を見据えた。
「お前たちが集めたその一千の命……この白亜の城ごと、私の一閃の火花によって、一瞬で灰燼へハメ殺してやる」
敵の増援を逆手にとり、城全体を巨大な殺傷部屋として完成させた暗殺者レヴナント。
逃げ場のない密室の中で、破滅のカウントダウンは、ついに最後の一瞬へと刻み込まれるのだった。




