71 第15章:城塞の罠と化学爆破
第15章 第2節
最上階「第1生体実験中枢」の重厚な魔導装甲扉が、プシューと高圧の生体蒸気を噴き出しながら滑らかに開いた。
目の前に広がっていたのは、かつてヴァルハイト伯爵邸の最上層——私の父が領地の政務を執り行い、母が季節の鉢植えを並べていた、最も日当たりの良い「白亜の大広間」の残骸であった。
しかし今や、天井の美しい硝子装飾はすべて黒塗りの防術金属板で覆われ、床全面には数十基のガラス製大型培養槽が不気味な泡を立てて整列していた。部屋の奥には、前世の化学プラントを思わせる無数の真鍮製蒸留パイプと、高圧の薬品貯蔵タンクが所狭しと組み上げられている。
「……な、何だ……!? 結界の出力が乱れているぞ!? 通気ダクトからのこの排気は何だ!?」
「試作型不死兵士の第4から第12検体、相次いで生体反応異常! 体内で急速な異常組織増殖が発生しています!」
白衣を纏った何十人もの帝国魔導技師たちが、狂乱したように操作卓のルーン数値を叩き、叫び声を上げていた。
部屋の最奥、高段に設置された「主魔導制御台」の上に佇んでいたのは、帝国皇導魔導院の至宝と謳われ、我が一族の「再生」の遺伝子解読を指揮してきた男——『ザハール魔導中佐』であった。
真白な高級魔導官服に身を包み、洗練された単眼鏡を付けた細身の男。その知的で冷酷な顔立ちには、先ほどまでの絶対的な余裕は消え失せ、底知れぬ困惑と苛立ちのの色が滲み出ていた。
「ヴァルターは何をしている……!? 下層の防衛線はどうなった!? ヴァルハイトの生き残りごときに、何故これほどのシステム干渉を許しているのだ!?」
ザハールが怒号を叩きつける。
だが、彼の言葉が途切れる前に、扉の蒸気の中からゆっくりと歩み出てくる二つの影。
血塗れの黒磁の短剣を手に携え、右目を過剰再生によって瞬時に治癒させた十五歳の少年。
そして、その影に寄り添う銀灰色の瞳の刺客。
「……ヴァルターはすでに処理した、ザハール」
私は感情の存在しない、氷のように冷たい声が大広間に響き渡った。
「な……ッ! ヴァルター大佐が処理されただと……!? 金剛の肉体を持つ彼が、貴様のような子供に……!?」
ザハールが息をのむ。
「お前たちが築き上げたこの『第1生体実験中枢』……有機化学、工業病理学、ならびに気体流体力学の観点から言わせてもらえば、極めて脆弱で完璧な『自爆用化学密室』だ」
私は踏み出した脚を止め、視線を部屋の天井、壁面、そして床下を這う無数の薬品配管へと走らせた。
敵の魔導技師たちは、効率的に我が一族の血液から「不死薬品」を精製・濃縮するため、この大広間の中に大量の有機溶媒、エーテル系魔導試薬、ならびに高濃度のメタン系生体ガスを無造作に蓄積・循環させていた。
彼ら魔法至上主義の魔導士たちにとって、薬品とは「魔力を込められた神秘の液体」に過ぎず、それが物理的にどのような熱化学特性を持つかという、前世の近代化学における基本的な基礎知識を全く欠いていたのだ。
(第一成分……濃縮ジエチルエーテル試薬、貯蔵量三千リットル。第二成分……生体分解に伴う高濃度メタン・高圧水素混合ガス。第三成分……過剰再生血の気化粒子(有機タンパク質エアロゾル))
私の脳内で、前世の工業化学における「粉塵爆発」ならびに「気体爆砕(気相爆発)」の連鎖重合反応の計算式が、瞬時に完結した。
これほど高濃度の可燃性有機ガスと揮発性薬品が充満し、さらに私が通気管を通じて送り込んだ「過剰再生血の気化微粒子」が室内全体に浮游している密閉空間。
前世の化学工場であれば、指一本の静電気、あるいは小さな火花一つで、建物全体が音速の爆縮波とともに蒸発する「最悪の可燃性気体部屋」そのものであった。
「シルヴァ」
私は振り返ることなく、低く命じた。
「中央の薬品精製蒸留塔のバイパス弁……左から二番目と四番目の圧力を切り裂け」
「……御意!」
影となったシルヴァが、不意を突かれた帝国魔導技師たちの間を駆け抜けた。彼女の二本の短剣が一閃し、精製蒸留塔の主圧力バルブが無残に切り飛ばされた。
シュアァァァァァァッ!!!!!
高圧で圧縮されていた濃縮ジエチルエーテルと、気化された過剰再生魔薬の無色透明な蒸気が、猛烈な勢いで大広間の全域へと噴出し、充満していった。
「な……何をしている!? 蒸留塔のバルブを破壊しただと!?」
「バカな……! エーテル試薬が気化して充満していく……! これでは呼吸すら困難になるぞ!?」
魔導技師たちがパニックを起こして咳き込んだ。
「静かにしろ、無能どもが!」
ザハールが単眼鏡の奥の目を鋭く光らせ、杖を掲げた。
「空気中の薬品など、我が最高峰の風系浄化結界『エア・クリーナー』によって一瞬で排除できる! ヴァルハイトの残骸め、生ぬるい嫌がらせを——」
「浄化結界?」
私は黒磁の短剣の刃を、あらかじめ切り裂いていた自らの右手の傷口へ深々と突き立て、血液をさらに吹き出させながら冷ややかに笑った。
「流体力学における基本だ。高濃度の可燃性ガスと気化薬品が充満した密閉空間で、急激な空気の対流(風系魔法)を発生させたらどうなると思う?」
「……何……!?」
ザハールが詠唱の途中で凍りついた。
そう。高濃度の可燃性気体と有機微粒子が浮游する密室において、急激な空気の流動(風魔法)を起こせば、気体分子同士の激しい摩擦によって「膨大な静電気と摩擦熱」が一瞬で発生する。
それが、室内に充満するジエチルエーテルとメタンガスへの「最高の点火プラグ(トリガー)」となるのだ。
「お前たちが5年かけて集めた膨大な生体薬品、そしてお前たちが起動させた防衛結界……そのすべてが、お前たち自身を分子レベルで焼き尽くす『最悪の火薬』なのだ」
私は左手首の生肉に埋め込まれた「思考封殺結界の魔導腕輪」を、過剰再生魔力で極限まで励起させた。
ガコンッ! バチチチチッ!
大広間のすべての出入口の鋼鉄扉が重厚な音を立てて完全密閉・溶接され、逃げ場のない「化学殺傷部屋」が完成した。
「ヒッ……!? 扉が開かない! 結界が内側に向かって反転している!?」
「閉じ込められた……! 私たちはこの薬品の満ちた部屋に閉じ込められたぞ!!」
魔導技師たちが狂乱し、溶接された扉を叩いて泣き叫ぶ。
「ザハール」
私は濡れた短剣を低く構え、恐怖に顔を歪ませる仇敵・ザハール魔導中佐を見据えた。
「お前が誇ったその優秀な頭脳で、計算してみせろ。……この可燃性ガスと薬品が充満した密室で、私の自傷血がもたらす『最初の一閃』が放たれた時、お前たちの肉体がどのような物理的化学的プロセスで蒸発するかを」
現代の化学知識による可燃性ガスと薬品の充填。
かつて私の家族が笑い合っていた白亜の大広間は今、仇敵ザハールと帝国魔導技師たち全員をまとめて爆砕・蒸発させるための、完璧な「自爆用化学殺傷部屋」へと変貌を遂げていたのだった。




