62 第13章:旧領地の地獄絵図
第13章 第3節
第2血統解析室の天井ダクトを抜け、不気味な生体機械の駆動音が低く響く回廊を進む。
かつてこの場所は、ヴァルハイト伯爵邸の地下へと続く大回廊——「白亜の記憶」と呼ばれる場所であった。
アーチ状の天井には、かつて初代伯爵が領地の平和と繁栄を祈って描かせた色鮮やかなフレスコ画が残されていた。壁面の彫刻には、幼い頃の私が剣の稽古を終えた後に父と歩いた記憶や、母が優しく私の髪を撫でながら「アレン、あなたはどんな大人になるのかしら」と囁いた暖かな光景が、かつては確かに刻まれていた。
だが今や、そのフレスコ画は硝酸と腐食塗料の煤で真っ黒に汚され、壁の彫刻は無造作に削り取られて、生体配管を固定するための無骨なボルトが打ち込まれていた。
「……あ……」
私の背後を追うシルヴァが、通路の隅に転がっていたある物を見て、小さく息を詰めた。
それは、砕けた石の装飾の隙間に挟まれていた、小さく煤けた「木彫りの騎士の人形」だった。
五年前、私の十歳の誕生日に、父が領内の腕利きの職人に作らせ、私に贈ってくれたものだった。父は私の小さな手にそれを握らせ、「アレン、強くなりなさい。だがその強さは、弱き者を護るためのものでありなさい」と力強く笑っていた。あの日、母が作ってくれたイチゴのタルトの甘い香りや、暖炉の火がパチパチと薪を跳ねさせる温もりまでもが、その人形には不条理なほど鮮明に染み付いていた。
シルヴァは、私がその人形の前で足を止めるのではないかと、固唾をのんで私の背中を見つめていた。
かつて愛された記憶。家族の温もり。自分という人間が「アレン・フォン・ヴァルハイト」として健やかに生き、尊ばれていた証。
普通の物語であれば、復讐の旅を続ける主人公は、この失われた思い出の品を前にして膝をつき、胸を引き裂かれるような哀涙を流すのだろう。奪われた幸福な過去を思い返し、怒りと悲しみに震える手で人形を抱きしめ、「父様、母様……!」と声を上げて泣き伏すはずだ。
だが——。
私はその木彫りの人形の真横を、視線すら動かすことなく、無感情な足取りで通り過ぎた。
私の足元、硬い暗殺ブーツの底が、無造作に木彫りの人形を踏みにじった。
パキッ。
乾燥した木粉が弾ける乾いた破砕音。
かつて父が私に微笑みかけ、母が私を抱きしめた「幸せな思い出の象徴」は、私の足下でただの木片へとあっけなく砕け散った。
「……レヴナント様……っ! 今のものは……」
シルヴァが耐えかねたように声を潜めて問いかけてきた。その声には、私のあまりにも凄惨なまでの無感動に対する、深い戦慄と動揺が混じり合っていた。
「よろしいのですか……? あれは……大切なお品では……」
私は歩みを止めることすらなく、冷ややかな声で短く応じた。
「ただの有機物の加工品だ」
「……え……?」
「乾燥させた木材繊維を削り出し、植物性の塗料を塗布した固形物。それが足元に転がり、私の移動線上の障害物となったため、踏み潰して破砕した……ただそれだけの物理現象だ」
私の声には、怒りも、悲哀も、郷愁すらも、一ミリリットルも含まれていなかった。完璧なまでに冷え切った、無機質な解剖学者の観察記録と同質の冷淡さ。
「ですが……あなたには、思い出はないのですか!?」
シルヴァが影の中から、抑えきれない感情を漏らした。
「あのあたたかな日々……ご両親の愛、領民たちの笑顔……あなたを『アレン』と呼んでくれた人々の温もりが、あそこに刻まれていたはずです! それを……そんな風に切り捨ててしまわれて、あなたの心は痛まないのですか……!?」
私はゆっくりと立ち止まり、振り返った。
暗闇の中で見つめ返す私の瞳——そこには、光を放つ情熱も、影を落とす絶望すら存在しない、完全なる「死んだ目」が横たわっていた。
「痛み?」
私は自分の左胸——かつて「心」が存在していたはずの場所に、静かに手を当てた。
「シルヴァ、お前は勘違いをしている」
「……何、を……」
「五年前のあの夜……白亜の城が火の海に包まれ、父の首が眼前で刎ね飛ばされ、母の肉体が陸竜の四トンの自重によって『ベチッ』と音を立ててペチャンコに押し潰された、あのコンマ数秒の瞬間。私の脳内に存在していた『感傷』や『思い出』を司る大脳皮質の神経回路は、物理的に完膚なきまでに焼き切れた」
私は淡々と、自らの肉体の精神構造を解剖するように語り続けた。
「思い出とは何だ? それは脳内のシナプス間に保持された、電気信号の過去の記憶領域に過ぎん。人間が過去を振り返って涙を流すのは、その記憶領域から出力されるホルモンによって、自らの行動を抑止させられているに過ぎない」
「レヴナント様……」
「私にとって、かつての幸福な過去などというものは、現在のハメ殺しの方程式を狂わせる『ノイズ(不純物)』でしかないのだ」
そう。両親の愛も、温かな温もりも、美しかった故郷の光景も。
今の私にとっては、敵を解剖し、ハメ殺し、完璧な屠殺を完遂させるための物理計算において、何の意味も持たない無駄な変数に過ぎない。
涙を流して過去を懐かしむ時間に、何の意味がある?
「父様、母様」と叫んで怒りに身を任せることが、どれほど物理的に無価値で、隙を生み出す行為か。
感情に流された暗殺者は死ぬ。感傷に囚われた人間は、敵の仕掛けた罠の前に足元をすくわれる。
私が手に入れたのは、単なる「自傷再生」という肉体の異能だけではない。自らの肉体を切り刻み、骨で相手の刃を噛み合わせて殺すという狂気の戦闘理論を成立させるために、私自身が自らの精神から「思い出への執着」という人間性の欠片を完全に切除したのだ。
「私には、過去などない」
私は黒磁の短剣の刃を、不気味な暗闇の中で滑らかに引き抜いた。
「過去に縋り、思い出に涙を流すのは、自分という人間が『生きている』と信じたい者の甘えだ。……私はすでに五年前のあの夜に一度死んだ。今の私は、お前たち人間をただの肉と臓物の袋として処理する、動く棺に過ぎん」
シルヴァは息を呑み、言葉を失ってその場に立ち尽くした。
彼女は理解したのだ。
目の前に立つ少年は、哀しい過去を背負った哀れな被害者などではない。過去のすべての思い出すらも自ら完全に殺し尽くし、ただ冷酷な「ハメ殺しの物理法則」としてのみ存在する、絶対の死神なのだということを。
「……前へ進むぞ、シルヴァ」
私は踏み砕いた木彫りの人形の粉末を靴底で蹴り散らし、一度も振り返ることなく回廊の奥へと足を踏み出していった。
過去の温もりにすがり、涙を流して復讐を誓う者など、この暗黒の解剖劇には必要ない。
私にあるのは、完璧に計算された物理化学の方程式と、仇敵たちの喉元を喰いちぎるための自傷再生の刃のみ。徹底的な無感動という最強の防壁を身に纏い、死に損ないの暗殺者レヴナントは、敵の心臓部である「第1実験中枢」へと静かに接近していくのだった。




