44 第9章:破壊される日常(胸糞の惨劇)
第9章 第5節
夜霧が深く立ち込める王都の最底辺、スラム街の路地裏。湿った石畳と爛れた排泄物の臭いが充満する一角にある薄暗い娼館の二階は、今や濃密な「死と解剖」の匂いで飽和していた。
室内には、敵国特務部隊『漆黒の処刑手』の異端魔導技師によって「過解体」され、四肢を離断されて胸郭を観音開きにされた娼婦・ルシアの凄惨な残骸。そして、その肉体の上を躊躇なく踏み越えてきた私の黒磁の短剣によって、首の動脈を貫かれて血の海に倒れた魔導技師の死体が転がっていた。
遅れて踏み込んできたシルヴァが、人間としての戦慄と戸惑いを交えた瞳で私を見つめている。彼女の期待——あるいは危惧——とは裏腹に、私の「死んだ目」には哀しみも、怒りも、死者への誓いの涙すら一滴も浮かんでいなかった。
私にとって、目の前で肉の標本へと変えられたルシアの死体は、情を寄せるべき対象などではない。
敵国の生体魔導技術の精度と弱点を解析するための「極めて有益なサンプルデータ」であり、同時に——ここから始まる最終決戦へ向けた最高の「物理的資源(撒き餌)」だった。
「……レヴナント様。この場所はもう危険です」
シルヴァが感情を必死に押し殺し、暗殺者としての低く冷たい声で進言してきた。
「この魔導技師が消息を絶てば、近くに潜伏している『漆黒の処刑手』の先遣隊本隊が異変を察知し、即座にこの娼館を包囲するはずです。国境の『第4生体実験プラント』へ向かう前に、ここで敵の増援と消耗戦を演じるのは上策とは言えません」
「消耗戦などする気はない」
私は返り血で汚れた左手を無造作にぬぐい、冷ややかに死体へと視線を落とした。
「敵の先遣隊本隊がここへ踏み込んでくる……結構なことじゃないか。それこそが、私が描く『ハメ殺しの方程式』の第一段階だ」
「……え?」
シルヴァが目を見張る。私は足元に転がる魔導技師の死体と、過解体されたルシアの残骸を交互に見下ろし、頭脳の中で前世の物理・化学・解剖学の知見を高速で融合させていった。
敵国の特務部隊『漆黒の処刑手』は、高度な軍事訓練と厳格な報連相の体系で動いている。
彼らはこの魔導技師が仕掛けた「ルシアの過解体ショー」によって、私が精神的に動揺し、激怒して理性を失うことを狙っていた。そして、連絡が途絶えたこの部屋へ増援の部隊が踏み込んできた時、彼らが真っ先に確認しようとするものは何か?
第一に、標的である「伯爵家の生き残り(私)」が捕獲されたか、あるいは死んだか。
第二に、工作員である魔導技師が死に、自分たちの生体実験に関する重大な極秘情報や魔導具が奪われていないか。
そして第三に——見せしめとして解体された「ルシアの肉体」から、私の『肉体再生』の因子に関する追加の反応が検出されていないか。
敵の行動原理、確認作業の心理的シーケンスは予測可能だった。
「敵は必ず、この部屋の中央……ルシアの死体と魔導技師の死体が重なる『殺戮の現場』へと集まり、検分を行おうとする」
私は感情の入らない冷酷な口調で言い放った。
「ならば、この女の死体と、倒れた魔導技師の肉体そのものを……敵の精鋭部隊を根こそぎ爆砕・毒殺するための『多重トラップ(密室の爆弾)』へと組み換えてやる」
「……っ! 死体を……罠の仕掛け(囮)にするのですか!?」
シルヴァの声が息をのむ。
いかに殺戮と死に慣れ親しんだ暗殺ギルドの構成員であっても、自分に好意を寄せていた女の凄惨な死体を、そのまま敵を殺すためのトラップの「材料」として加工・利用するという狂気の着想には、底知れぬ恐ろしさを感じずにはいられないようだった。
だが、私にとっては合理的な選択だった。
「人間はただの肉と臓物の袋だと言ったはずだ」
私は冷ややかに言い捨てると、懐からいくつかの薬瓶と、先ほどの戦闘で魔導技師から奪い取った生体魔導薬品、そしてギルドの調剤室から精製しておいた濃縮揮発性の触媒を取り出した。
「死体に尊厳などという不確かな概念はない。利用できる物理的質量であり、有機物の化学反応炉に過ぎん」
私は迷わず、過解体されて胸郭が観音開きになったルシアの体腔内へと手を差し伸ばした。
胸膜腔の内部、露出した内臓と体液の溜まり場。そこに、あらかじめ精製しておいた過剰な再生魔力を帯びた「私自身の血液」と、超高濃度の揮発性神経毒素、そして空気に触れることで極度の熱反応を起こす魔導鉱石の微粉末を、解剖学的に完璧な配分で充填していく。
ルシアの体腔内は、体温の残滓と湿気、そして高密度の有機成分に満ちており、揮発性毒素と魔導粉末を安定して保持するための「天然の圧力容器」として機能した。
さらに、その上に覆いかぶさるように倒れている魔導技師の金属甲冑。
その甲冑の内部回路に、自傷再生の異能によって生み出した「暴走する生体魔力」を小瓶に詰めて仕込み、甲冑の隙間から細い鋼糸を引っ張って、部屋の入り口のドアノブと敷居へと張り巡らせた。
ドアが一定の角度以上開かれ、あるいは死体の甲冑へ触れて検分を行おうとしたその瞬間。
甲冑内の過剰魔力が暴走して火花を散らし、ルシアの胸郭内に充満した揮発性毒素と魔導粉末が一気に急激な熱膨張を起こす。
——超高圧の生体毒素爆発(化学・魔導複合トラップ)。
狭く密閉されたスラムの娼館の一室。
逃げ場のない小空間において、この爆発が起これば、踏み込んできた敵の特務部隊は爆風と熱線で急所を破壊されるだけでなく、室内全体に散布された「過剰な再生魔力を帯びた生体毒(私の血液のエアロゾル)」を即座に呼吸器と粘膜から吸い込むことになる。
以前に検証した通り、過剰な再生魔力を吸い込んだ人間の細胞は狂乱的な異常増殖を起こし、肺胞が自己の組織増殖によって埋まり、数秒で窒息死に至る。
物理的破壊と、生物学的自滅の二重のハメパターン。
「……完璧です」
作業を冷徹に見届けたシルヴァが、身震いしながら呟いた。
「ルシアの死体も、敵の魔導技師の死体も……部屋の空気も、すべてが敵を死へと誘う不可避の檻へと変貌している……」
「これが『ハメ殺し』の基本だ」
私は手についた血と油脂を泥布で無造作に拭い、黒磁の短剣を鞘へと滑り込ませた。
「敵は私を動揺させ、誘い出すためにこの死体を作った。……ならば、その死体をそのまま敵の命を奪う最大の凶器として返し返してやるのが、最も効率的な回答だ」
敵が誇る『漆黒の処刑手』の先遣隊。彼らは自分たちの作戦が成功し、私が怒りに狂ってどこかへ飛び出していったと確信しながら、この部屋へと踏み込んでくるだろう。
そして、惨劇の現場を検分し、「伯爵家の生き残りの弱点」を探ろうと死体に手を伸ばしたその瞬間——自分たちが仕掛けた残虐行為の残骸そのものによって、全身を焼き尽くされ、自らの内臓を泡立てて全滅するのだ。
「作業完了だ。撤収する」
私は一度もルシアの顔を見返すことなく、部屋の窓枠へと足をかけた。
感情を捨て、人間をただの肉と臓物の袋として扱い、死体すらも冷酷なハメ殺しの道具へと変える異常性。
スラムの湿った夜風が部屋の中に吹き込み、トラップの糸を微かに揺らしていた。
「シルヴァ、王都での未練はすべて断ち切った。これより、敵の本拠地……国境の『第4生体実験プラント』へと向かう」
「……御意のままに、レヴナント様」
暗闇の中へ躍り出た私の背後で、娼館の二階の小部屋は、次に踏み込んでくる愚かな害獣どもを死へと飲み込む「静かな絶望の密室」として、完璧な沈黙を保っていた。
父の首を刎ねたヴァルター大佐、故郷を屠殺場へと変えたザハール魔導中佐。
お前たちが王都に放った先遣隊の全滅の報せは、間もなくお前たちの元へと届くだろう。
死に損ないの棺となった元伯爵家の生き残りが、いま、お前たち全員を地獄の底へとハメ殺すために、国境の暗雲の向こう側から一直線に爪を伸ばしている。
冷たい月光を浴びながら、私の「死んだ目」は、仇敵が待つ北の空へ向けて絶対に消えない不滅の殺意を静かに燃え上がらせていたのだった。




