43 第9章:破壊される日常(胸糞の惨劇)
第9章 第4節
スラムの狭い路地裏、安っぽい香水と爛れた肉の臭いが充満する密室を後にした私の足取りに、躊躇いや惑いは一片として存在しなかった。
過解体され、観音開きにされた胸郭から内臓を晒していた娼婦・ルシアの残骸。敵の異端魔導技師が仕掛けた凄惨極まる見せしめの惨劇。普通の人間であれば、激しい嘔吐感を覚えるか、憤怒に狂って正気を失うであろうあの光景は、私にとって一つの明確な「世界の心理的境地」を再認識させるための、冷酷な補強材料に過ぎなかった。
——「人間とは、感情や魂などという不確かなもので装飾された、ただの肉と臓物と骨の袋である」
前世において修めた近代医学、解剖学、そして物理学の膨大な知見。そしてこの世界へ生まれ変わり、白亜の城で両親を惨殺されて死に損ないの暗殺者「レヴナント」へと変貌を遂げた15年間の歳月。そのすべてが導き出した唯一の絶対的真理が、今私の脳内で冷徹なプログラムとなって固定されていた。
(心などという曖昧な器官は、解剖学のどこを探しても存在しない)
胸を切り開けばそこに存在するのは、拍動を続ける筋肉の塊である心臓と、酸素を交換する海綿状の肺胞だけだ。脳を開けばそこに詰まっているのは、電気信号を交わし合うニューロンの網目と灰白質に過ぎない。
人間が「愛」と呼び、「好意」と呼び、「悲しみ」や「怒り」と呼ぶあらゆる感情体験は、脳内で分泌されるドパミンやセロトニン、アドレナリンといった微量の化学物質が引き起こす、一過性の生物学的反応に過ぎないのだ。
「……レヴナント様」
背後を遅れて追ってくるシルヴァの気配を感じながら、私は王都の表街へと続く地下水路の暗がりを無言で歩み続けた。
ルシアが私に寄せていた甘く愚かな好意。落ちぶれ貴族の娘・エレナが私に縋り付いてきた狂信的な依存。情報屋のマルタやクロエが仕掛けてくる好色で計算高き接触。そして、すぐ後ろで私の影として命を捧げようとしているシルヴァの、純粋すぎる忠誠心。
彼女たちが私に向け、差し出してくる「心」のすべて。
一般的な人間であれば、それを絆と呼び、救いと呼び、守るべき守護対象として抱え込むのだろう。だが、私にとってはそれら全てが、解剖学的な構造体から発せられる「化学的シグナル」以上の意味を持たなかった。
ルシアの身体を抱いていた時も、彼女の皮膚の弾力、動脈の位置、骨格の厚みを解剖学的にスキャンしていた。
彼女が過解体されて肉の標本へと変えられた現場に立った時も、私はただ敵の術式の精度と生体薬品の残留濃度を計算していた。
涙も出ず、怒りも湧かない。
なぜなら、私は最初から彼女を「人間」として愛してなどおらず、「潜伏用の迷彩」であり「解剖データを更新するための肉の袋」としてしか認識していなかったからだ。
(美しい装飾を剥ぎ取れば、誰もが同じ血と臓物を詰め込んだ皮袋に過ぎない)
貴族も、娼婦も、王の兵士も、暗殺者も、そして敵国の権力者も。
どれほど豪華な衣服を纏おうが、どれほど高潔な理念を語ろうが、皮膚の下を一筋切り裂けば、溢れ出すのは臭いたつ赤黒い血と、生々しい内臓の蠢きに過ぎない。
そして——私自身もまた、その例外ではないという事実。
私は歩みを止め、闇の中で自分の右手を見つめた。
黒磁の短剣を握りしめる私の指先。皮膚の下では、前世の知見に基づく「自傷再生」の異能が、細胞分裂の異常な励起状態を維持して蠢いている。
毎夜毎夜、刺客の刃を受け止め、自らの腕を切り込ませ、骨で刀を噛み合わせて拘束する狂気の戦闘。そのたびに私の肉体は引き裂かれ、骨は砕け、激痛という名の純粋な神経信号が脳髄を灼き尽くす。
普通の人間の精神であれば、自らの肉体を「傷つけてはならない尊いもの」と認識しているがゆえに、身を削る苦痛に耐えかねて発狂するだろう。人間としての自尊心や、自らの肉体への愛着が、自傷再生という狂気の選択肢を拒絶するからだ。
だが、私にはその拒絶反応が存在しない。
自分自身の肉体すらも、私はただの「骨と筋肉と血管で構成された、使い捨ての物理的拘束具」としてしか見ていないのだ。
(自分の肉体がただの肉の袋であるなら、それを切り刻ませることに何の躊躇いがある? 骨で相手の刃を固定し、喉を掻き切るための『道具』として消費することに、何の恐怖がある?)
「人間はただの肉と臓物の袋である」という冷徹な再認識。
これこそが、私の構築した「自傷再生のハメ殺し理論」を、絶対に破綻しない絶対の戦闘システムへと成立させている真の基盤だった。
敵は自分の肉体を「愛おしい自分自身」として守ろうとする。だからこそ攻撃を怖がり、傷を恐れ、刃が届く直前に身をすくませる。
しかし、私は自分の肉体を「ただの肉のパーツ」として冷酷に差し出し、相手の攻撃をあえて骨で受けて拘束する。
肉を愛する者と、肉をただの道具と切り捨てる者。
その精神構造の根本的な次元の差こそが、あらゆる熟練の剣士や魔導士を、逃げ場のない「ハメ殺しの密室」へと叩き落とす絶対的な死角となるのだ。
「……レヴナント様」
地下水路の出口、月光がわずかに差し込む境界線で、シルヴァが追いつき、私の背後にひざまずいた。
「国境の『第4生体実験プラント』へ続く裏街道の準備が整いました。暗殺ギルド内部の残党も、あなたの指示通り、表向きは『サーティ派閥の自滅』として処理されています」
「そうか」
私は振り返ることなく、冷ややかに応じた。
「シルヴァ。お前に一つ言っておく」
「……はい」
「私に命を捧げるのは勝手だが、私にお前という『人間』の価値を期待するな。お前が敵に捉えられ、ルシアのように過解体されて肉の標本にされようと、私はお前のために泣くことも、怒ることもない。……ただ、その死体から得られるデータを冷酷に使い、敵をハメ殺すだけだ」
私の容赦のない突き放しの言葉。
しかし、シルヴァの銀灰色の瞳に宿ったのは、傷ついた絶望ではなく、底知れぬ狂気の崇拝だった。
「……承知しております」
シルヴァは頭を垂れ、その声音にはかすかな震えすら混じっていた。
「あなたに『心』などという生ぬるい器官が存在しないからこそ、私はあなたについていくのです。人間をただの肉と骨として見下ろし、自らの肉体すら地獄の薪として燃やし尽くす……あなたこそが、この理不尽な世界をハメ殺す唯一の『絶対の死神』なのですから」
皮肉なことだった。
人間をただの「肉と臓物の袋」として冷酷に処理する私の異常性こそが、私にまとわりつく女たちを惹きつけ、狂信的な服従を生み出しているのだから。だが、それすらも私にとっては「利用可能な資源」でしかなかった。
夜風が王都の街並みを吹き抜けていく。
その遥か北の空、漆黒の闇の深淵で私を待ち受けるのは、我が家を滅ぼし、父の首を刎ね、故郷ヴァルハイト領を巨大な生体実験の屠殺場へと変えた仇敵——ヴァルター大佐とザハール魔導中佐。
奴らは自分たちが「高貴な人間」であり、支配者であると信疑っているだろう。
領民たちを実験の肉としてすり潰し、自分たちだけは安全圏で栄華を貪る愚かな豚ども。
(待っていろ、ヴァルター。ザハール)
私は腰の黒磁の短剣の柄に手を伸ばし、暗闇の中で「死んだ目」を冷たく光らせた。
お前たちが誇る武力も、魔導技術も、そしてお前たち自身の肉体も。
私にとっては、ただの「切り刻み、破砕し、生きたまま骨で拘束して喉を叩き切るための、ただの肉と臓物の袋」に過ぎない。
感傷を完全に排除し、人間という存在の解剖学的弱点を知り尽くした暗殺者レヴナント。
自らの肉体を究極の囮とし、世界そのものをハメ殺すための過酷な旅路が、いま最終決戦の地・第4生体実験プラントに向けて、絶対の精度で動き出したのだった。




