42 第9章:破壊される日常(胸糞の惨劇)
第9章 第3節
過解体されたルシアの無惨な残骸と、その上に重なるように倒れた敵の魔導技師の死体。二つの肉塊から流れ出た血が床の隙間から階下へと滴り落ち、ボト、ボト、と絶え間ない水滴音を響かせていた。
その凄惨極まる密室へと、遅れて滑り込んできた影があった。
「……レヴナント様っ!」
闇を切り裂くように跳び込んできたのは、三十八番——シルヴァだった。
彼女は異常な魔導の乱れと血の匂いを察知し、全力でこのスラムの隠れ家へと駆けつけてきたのだった。身を隠していた陰から室内へ足を踏み入れた瞬間、彼女の銀灰色の瞳は息をのむように大きく見開かれた。
そこに広がる凄惨な光景。
四肢をバラバラに離断され、胸郭を観音開きに押し広げられたまま、生の尊厳を微塵も残さずに「肉の標本」へと変えられたルシアの姿。
シルヴァはかつて、この部屋で私に抱かれていたルシアの姿を知っていた。私に一方的な好意を寄せ、安っぽい香水を纏い、愚かなまでに純粋な温もりを求めていた哀しい娼婦。
その女が、敵国の異端魔導によって言葉通りの「過解体」を施され、地獄のような拷問の末に果てたのだ。
「そんな……ルシアが……」
シルヴァの声が慄え、胸の奥から押し寄せる戦慄と痛ましい感情に息を詰まらせた。
彼女もまたギルドの過酷な訓練を生き抜いた暗殺者であり、死には慣れ親しんでいたはずだった。しかし、身近にいた女がこれほど残酷に解体され、見せしめの肉塊へと変えられた惨状は、彼女の人間としての感情を否応なしに揺さぶった。
シルヴァの視線は自然と、血の海の中に佇む私へと向けられた。
彼女は期待していたのかもしれない。
あるいは、恐れていたのかもしれない。
私という男が、自分を匿い、肌を重ね、好意を寄せてくれていた女の凄惨な死を前にして、ついに「人間らしい感情」を爆発させるのではないかと。両親を奪われた過去に重ね合わせ、怒りに目を血走らせ、復讐の涙を流し、亡きルシアの死体に誓いを立てるのではないかと。
しかし——。
月光が差し込む暗闇の中で、私の瞳に宿っていたのは、哀しみでも怒りでも、悲痛な誓いでもなかった。
そこにあったのは、どこまでも透明で、どこまでも冷たい「死んだ目」だった。
私の視線は、観音開きになったルシアの胸郭、切断された関節の角度、そして敵の魔導技師が持ち込んだ解剖具の配置を、淡々と機械のようにスキャンしていた。涙の一滴すら浮かんでいない。目元に微かな感情の歪みすらない。
「……レヴナント様……?」
シルヴァの声が、戸惑いとともに小さく震えた。
「泣かないのですか……? 誓いを……立てないのですか? 彼女は……彼女はあなたのために、ここを隠れ家として提供し、あなたを愛していたのに……っ」
シルヴァの問いかけに対し、私はゆっくりと振り返った。
その表情には、一切の波立ちが存在しなかった。
「泣く? 何のためにだ」
私の声は、夜風よりも冷ややかに密室の中に落ちた。
「なぜ涙を流す必要がある。なぜ死体に誓いを立てる必要がある。……そんな生ぬるい感情の浪費に、何の一文の価値があるというのだ」
「ですが……っ! 彼女はこんな残酷な目にあわされて……!」
「彼女がどう殺されようと、それは単なる『生体現象の停止』に過ぎん」
私は足元に転がる敵の魔導技師の首筋から黒磁の短剣を引き抜き、ルシアの血で濡れた刃を無造作に拭った。
「五年前、白亜の城で父の首が飛び、母が陸竜の巨足の下でペチャンコに潰されたあの瞬間、私の心から『誰かを悼む』『悲しみの涙を流す』という機能は磨滅した。……死者はただの肉の塊であり、残されたのは物理的なデータだけだ」
私の言葉には、強がりも虚勢もなかった。
あまりにも冷え切った、絶対の真実。
シルヴァは言葉を失い、私の不気味なほどの静寂に打ちのめされたように目を見張った。
私はルシアの死体を見下ろし、頭脳の中で弾き出した解析結果をそのまま口にした。
「この女の過解体の痕跡……胸膜腔の崩壊プロセス、および敵が使用した生体魔導薬品の残留成分から、敵国『漆黒の処刑手』が用いる拘束術式の周波数と、その弱点が特定できた。……彼女の死は、敵の戦術構造を解明するための極めて有益なサンプルとなった」
「サンプル……」
シルヴァの唇が震えた。
私にとってルシアの死は、悲劇などではなかった。
敵が私を揺さぶり、怒らせて誘導するために演じた残酷なショーすらも、私は冷酷な計算資源として丸ごと呑み込み、仇敵をハメ殺すための「解析データ」へと変換してしまったのだ。
「愛していたから復讐するのではない。仇を討つために涙を流すのでもない」
私は一歩、足を踏み出し、ルシアの血の海を泥のように踏み越えてシルヴァの傍らへと歩み寄った。
「私が奴らを殺すのは……私からすべてを奪い、故郷を屠殺場に変えた理不尽な構造そのものを、この手で完全にハメ殺すためだ。そこには感傷も、死者への誓いも入る隙などない」
もし、私がここで涙を流し、「ルシアの仇を打つ」などという生ぬるい感情に囚われてしまえば、それは敵の思惑通りに自分の冷静さを失うことを意味する。
怒りに任せて突進する愚者になれば、敵の仕掛けた本当の罠にハマり、自傷再生の精確な計算が狂ってしまう。
だからこそ、私は絶対に泣かない。絶対に誓わない。
死者の無念などという抽象的な概念に心を揺さぶられることなく、私はただ狂気的なまでの「冷酷な合理性」と「自傷再生の方程式」だけを胸に抱いて突き進むのだ。
「……理解しました」
シルヴァは深く息を吐き出し、私に向かって深くひざまずいた。
彼女の瞳から揺らぎが消え、代わりに底知れぬ畏怖と、絶対的な服従の光が宿っていた。
「あなたは……どこまでも冷たい『殺戮の機械』なのですね。だからこそ、あなたはこの狂った世界で、誰よりも絶対に死なない……」
「そうだ」
私は黒磁の短剣を鞘へと滑り込ませた。
「私には心がない。だからこそ、敵がどのような惨劇を見せつけようが、私の思考が狂うことはない。……敵がお前たちやスラムの女を利用して私を揺さぶろうとすればするほど、その全ての好意と悲劇が、奴らを地獄へ引きずり下ろす最悪の毒へと変貌する」
女たちの好意、その温もり、そしてその凄惨な死すらも、私は一切の情を挟まずに冷酷な「駒」として使い潰す。
悲しみの涙も、美化された誓いも必要ない。
残されたのは、前世の科学知識と「肉体再生」の呪いによって組み上げられた、絶対に破綻することのない最悪の復讐の方程式だけだ。
「国境の第4生体実験プラントへ向かう。父の首を刎ねたヴァルター、そして故郷を屠殺場に変えたザハール……奴ら全員を、生きたまま肉と骨の噛み合わせで拘束し、その喉を根こそぎ喰らい尽くしてやる」
冷たい夜風が裏路地を吹き抜ける中、私の「死んだ目」は、仇敵が待ち受ける北の空をまっすぐに見据えていた。
感傷を完全に捨て去った殺戮の怪物——レヴナントの牙が、ついに世界そのものをハメ殺すための最終局面へと、静かに、そして絶対の精度で動き出していたのだった。




