34 第7章:ギルド内の生存競争
第7章 第5節
他国の特務部隊「黒の死神」の先遣隊が、王都の裏街および暗殺ギルドの周辺で活発に動き始めたという確証を得てから、私の日常における潜伏の精度はさらなる領域へと引き上げられていた。
暗殺ギルドの本拠地、および主要な地下連絡網は、古代の膨大な魔力を孕んだ多重結界によって外部からの侵入や索敵を完璧に遮断している。この結界こそが、何世代にもわたりギルドが王国の追手や他国の諜報網から身を隠し、裏社会の絶対的な支配者として君臨し続けてきた根源だった。
しかし、如何に強固な古代結界といえども、それは「完全無欠の壁」ではない。
物理的な出入り口、魔導物質の循環口、そして何より長年の土地の歪みによって生じる「結界の結び目の緩み」——前世で会得した波動理論や構造力学の観点から見れば、その結界には必ず微小な「周波数の不整合」と「周期的な隙間」が存在していた。
「……また出かける気ですか、レヴナント様」
地下の自室兼調剤室の闇の中で、身支度を整える私に対し、シルヴァが静かに声をかけてきた。
彼女の手には、ギルドの正規構成員に割り当てられた外出用の通行証と、指定された巡回ルートの指令書が握られている。ギルドの構成員が許可なく拠点を出入りすることは厳重に禁じられており、違反すればサーティ派閥をはじめとする反対勢力に「背任」の口実を与え、即座に処分対象とされる。
「ギルドの門番や監視の結界器は、サーティの派閥の息がかかった構成員が厳重に目を光らせています。正規のルートで出入りすれば、行動のすべてが上層部やサーティへ筒抜けになります」
「分かっている」
私は黒い暗殺服の上に、目立たないスラム特有の破れかけた泥汚れの外套を羽織り、冷ややかに答えた。
「だからこそ、正規の出入り口など使わない」
私が向かったのは、ギルド施設の最下層、かつて棄てられた古代水路の行き止まりに位置する「処分場」の奥だった。ここは選別戦で命を落とした訓練生の死体や、実験で使い潰されたゴミが投げ捨てられる場所であり、不潔と悪臭ゆえに指導官も構成員も足を踏み入れない死角となっていた。
その最深部の岩壁。一見すると強固な古代結界の光が走り、何者も通過できない岩肌に見える。
しかし、私は懐から小さな魔導測定器と、自らの血を微量に混ぜ合わせた化合物の小瓶を取り出した。
「古代結界は、特定の魔導波長を持つ生き物の通過を拒絶する。だが、三十二分ごとに訪れる結界の魔導循環の折り返し地点……コンマ数秒の間だけ、結界の密度が三割まで低下する『干渉波の干渉縞』が生まれる」
前世の物理・波動理論と、この世界で解読した古代魔術の構造の融合。
私は息を殺し、壁面に刻まれた魔導光の脈動を冷徹にカウントした。
三、二、一……今だ。
シュッ。
私は結界の密度の薄れたコンマ数秒の瞬間、自らの肉体に激痛を伴う「自傷再生」の微弱な波動を重ね合わせることで、自分の魔導波長を結界の残滓と同調させ、岩壁の隙間へと音もなく滑り込んだ。
ぬめりけのある岩の不快な感触とともに、視界が一気に開ける。
そこは、王都の地下深くを流れる自然の排水洞窟であり、古代結界の監視の目が届かない「盲点」だった。
ギルドの監視網も、サーティの派閥の目も、そして上層部の魔導感知器も、私が自室を抜け出して外界へ出たことすら感知できていない。結界の隙間を突いた、秘密の外出。
「……ふっ、他国の特務部隊も、ギルドの老害どもも、この程度の隙すら見抜けないか」
私は濡れた闇の中で冷たく口元を歪め、そのまま音もなく王都の表社会へと通じる隠れ排水口へと身を躍らせた。
◇
数十分後、私は王都の中央街と下町を隔てる境界線——活気溢れる夜市と、貧困の泥が入り交じる雑踏の中に身を溶け込ませていた。
私が今回の危険な「秘密の外出」を強行した目的は、単なる散歩や息抜きなどではない。
ギルド内部の監視と、他国の密偵「黒の死神」の双方が張り巡らせた情報網の「外側」から、より生々しく正確な情報を自らの手で直接収集するためだった。
ギルドの情報網は優秀だが、そこには上層部の意図的な情報操作や、サーティ派閥による情報の遮断というフィルターが挟まる。私が必要としていたのは、加工されていない「純粋な一次情報」だった。
最初に向かったのは、王都の北側に位置する異国商人たちの宿留地(居留地)だった。
豪華な絨毯や香辛料、そして他国の珍しい魔導具が取引されるこの場所には、表向きは商人だが、裏では諸国の情報や軍事動向を売り買いする「闇の仲買人」たちが集まっていた。
私は顔を覆う深編み笠とボロ布を纏い、感情を殺した「貧民街の浮浪児」を装って、ある古い薬種商の地下室へと足を踏み入れた。そこは、情報屋の女・マルタを通じて事前に接触ルートを確立しておいた、他国の亡命貴族が仕切る闇の情報交換所だった。
「おい、小僧……ここはガキの来るところじゃ——」
番人の巨漢が手を伸ばしてきた瞬間、私は袖口から覗かせた黒磁の短剣の鞘で、相手の腕のツボと神経節を正確に突いた。
「ぐっ……! な、なんだ……この手応えは……!?」
巨漢が腕を痺れさせて蹲る中、私は奥の小部屋へ無言で踏み込み、テーブルで羊皮紙を検分していた老商人へと金貨の詰まった革袋を静かに投げ置いた。
「……ほう。手際が良いな、影の客人」
老商人は眼鏡の奥の目を細め、金貨の重みを確かめると、濁った声を潜めた。
「何が知りたい? 王都の貴族の醜聞か、それとも北方国境の軍の動きか?」
「『黒の死神』の動きだ」
私は低く、掠れた声で短く言い放った。
「それと、旧ヴァルハイト領から極秘裏に運び出されている『生体実験の検体』の最新の輸送ルート」
老商人の顔から一瞬で余裕の色が消え去った。彼は周囲を警戒するように見回し、声をさらに低く落とした。
「……恐ろしいことを尋ねるな。だが、金銭の価値には見合う情報をやろう。……『黒の死神』の先遣隊は、すでに王都の地下組織へ本格的な介入を始めている。彼らは王都の裏社会に潜む『不自然な治癒能力者』や『旧ヴァルハイト領からの脱走者』の情報を収集するため、ギルドの末端構成員数名を金で買収したらしい」
「……誰を買収した?」
「名前までは判らん。だが、買収に応じたのは……ギルド内部で立場を失い、焦っている『サーティ』の派閥の末端だと言われている」
老商人の口から飛び出したその言葉に、私の脳内で全てのジグソーパズルのピースが噛み合わさった。
(そうか……そういうことか)
思わず、胸の奥底から狂気的な冷笑が込み上げてきた。
サーティ派閥。彼らは私に手足を削られ、利権を奪われ、上層部での立場を失ったことで極限の焦りに苛まれていた。そして、窮地に陥った彼らが手を出したのが、裏で莫大な資金と権力を提示してきた「他国の特務部隊(黒の死神)」との接触だったのだ。
サーティは、私をギルドのルールで処理できないと悟り、他国の特務部隊の手を借りて私を「処理」させようと画策していた。そして敵国の特務部隊は、サーティを利用して「伯爵家の生き残り」を炙り出そうとしている。
互いに互いを利用し合っているつもりでいる、愚かな泥鼠と害獣たち。
「……もう一つだ」
私は老商人を見据え、最後の一問いを投げかけた。
「『黒の死神』の本隊、ならびに実験を指揮している責任者の名は?」
老商人は冷や汗を流しながら、引き出しの奥から小さな羊皮紙の破片を取り出し、私へと押し滑らせてきた。
「……『ザハール魔導中佐』。旧ヴァルハイト領の生体実験施設を統括し、5年前の城襲撃においても現場指揮を執っていた、敵国の冷酷な魔導技師だ。彼が近々、先遣隊からの『朗報』を受けて、自ら王都近郊の極秘拠点へと乗り込んでくるという噂がある」
『ザハール』。
その名を聞いた瞬間、私の脳裏に5年前の血と炎の光景が鮮明に蘇った。
白亜の城の執務室。父の首を跳ね飛ばし、母の悲鳴を踏みにじりながら、冷笑を浮かべて伯爵家の秘宝と文書を漁っていた、片目に黒い眼帯をした痩せ型の魔導士。
両親の仇。故郷を巨大な屠殺場へと変えた元凶の一人。
(……いたぞ。ついに見つけた)
私の両手が、外套の下で黒磁の短剣を破裂しそうなほどの力で握りしめた。
胸の奥底で渦巻く殺意は、もはや怒りや憎悪という生ぬるい言葉では表現できない、どこまでも不気味で透明な「絶対のハメ殺し意志」へと昇華されていた。
「情報は確かだな?」
「あ、あぁ……! 間違いない! これ以上は私の命が危ない、去ってくれ……!」
老商人が怯えるように手を振るのを見届け、私は羊皮紙の破片を火で焼き捨てると、闇の中に溶け込むように薬種商の地下室を後にした。
◇
再び、古代結界の隙間を突き、死体捨て場の泥水を通じてギルドの地下施設へと戻ってきた頃には、夜が明け始めていた。
誰にも気づかれていない。サーティの監視も、ギルド上層部の魔導感知も、私が王都で両親の仇の名と敵の全貌を突き止めて戻ってきたことなど、夢にも思っていない。
自室の暗闇に足を踏み入れると、潜伏していたシルヴァが安堵の息を漏らしてひざまずいた。
「……おかえりなさいませ、レヴナント様。無事のご帰還、何よりです」
「シルヴァ」
私は外套を脱ぎ捨て、黒磁の短剣を机の上に静かに置いた。その声には、一切の迷いも感情の揺らぎもない、冷徹な殺戮の方程式だけが宿っていた。
「状況が確定した。サーティは他国の特務部隊『黒の死神』と裏で手を組み、私を売り渡そうとしている」
「……ッ!? なんと愚かな……ギルドへの裏切りではありませんか!」
「裏切りなどどうでもいい。重要なのは、奴らが自ら『完璧なハメ殺しの舞台』をお膳立てしてくれたということだ」
私は地図を広げ、王都近郊の廃墟群と、旧ヴァルハイト領へ続く地下連絡網のポイントを指でなぞった。
敵国の特務部隊、その指揮官ザハール、そしてギルド内部の泥鼠であるサーティ派閥。
彼らは私という「一つの標的」を巡って、互いに手を取り合い、密室へ追い詰めようとしてくるだろう。
「相手が私を捕らえようと網を狭めれば狭めるほど、彼らの背後の隙は巨大になる。サーティも、黒の死神も、ザハールも……全員まとめて、一つの巨大な箱の中に閉じ込めてやる」
私には「自傷再生」という狂気の切り札がある。
あえて敵の攻撃を受け、拘束術式に捕まり、彼らが「勝った」と確信して油断したその瞬間に、私の肉体と骨で彼らの武器と動きを拘束し、至近距離から全員の喉を掻き切る。
「準備を始めろ、シルヴァ」
私の「死んだ目」が、暗闇の中で静かに、そして禍々しいほどの殺意の光を放った。
「私からすべてを奪った者たちを、一人残さず地獄の底へハメ殺すための……最高の屠殺劇を始めるぞ」
結界の隙間から持ち帰った冷酷な真実を胸に、私は来たるべき決戦——サーティ派閥の処刑と、仇敵ザハールとの再会に向け、静かに自傷再生の牙を研ぎ澄まし始めるのだった。




