29 第6章:初任務と冷徹な日常
第6章 第5節
王都の地下水路から通りへと吹き抜ける夜風は、湿った腐臭と無数の人間の欲望の匂いを孕んでいた。
高台に聳え立つ王城の灯火や、貴族街を彩る華やかな魔導ランプの光。その眩い輝きが届かない裏街の深淵において、私は影と同化するように佇んでいた。手にした黒磁の短剣は、月の冷光を反射することすら許さず、静かに次の犠牲者の血を欲して蠢いているかのようだった。
バルトロメウス男爵の殺害ミッションの成功、そして新興組織「赤き蛇」の摘発を通じて、私は自らの作り上げた「自傷再生のハメ殺し理論」が、実戦において完璧かつ絶対的な致死率を誇ることを証明した。
相手がどれほど強固な警備網を敷こうが、どれほど強力な護衛を従えようが関係ない。
人間という構造物である以上、そこには必ず物理的・化学的な死角が存在する。そして何より、私の「肉体を切り刻ませ、骨で相手の刃を噛み合わせて拘束する」という常軌を逸した相打ち戦術は、あらゆる戦士や魔導士の常識と勝利への油断を突く、逃げ場のない「詰み(チェックメイト)」の罠となるのだ。
「……レヴナント様」
背後の闇が微かに揺れ、銀灰色の髪を揺らしたシルヴァが姿を現した。
彼女の足音はもはや完全に消え去り、ギルドの最高峰の潜伏術を身につけた「完璧な影」として私の背後に控えている。彼女の瞳には、かつて養殖場で怯えていた少女の面影など微塵もない。ただ私という絶対的な柱に命を預け、冷酷な指針に従う忠実な下僕の光だけが宿っていた。
ギルドの上層部にとっては、私は単なる「有能で使い勝手の良い殺戮の人形」に過ぎないのだろう。毎夜の激痛を耐え抜き、狂気の自傷再生理論を完成させた私の内側で、どれほど巨大な復讐の焔が渦巻いているかなど、奴らは知る由もない。
だが、それでいい。
この暗殺ギルドが提供する広範な情報網、潤沢な資金、そして暗殺者としての「自由な潜伏権」は、私にとって何物にも代えがたい復讐の基盤なのだから。
私は懐から、かつて父が胸元に飾っていた伯爵家の小さな紋章の破片を取り出した。
炎に焼かれ、煤と血で黒ずんだ小さな金属片。それを見つめる私の瞳——「死んだ目」の奥底で、氷のように静かで絶対的な決意が完結へと向かって研ぎ澄まされていく。
(前世での知識……物理学、化学、人間心理の死角。そして、この世界で覚醒した『肉体再生』の呪い)
すべては繋がっていたのだ。
白亜の城で両親を惨殺され、泥を啜ってスラムを這い回ったことも。
外部からの探索を完全に遮断する古代結界の地下施設で、毎夜毎夜、肉体を砕かれ引き裂かれながら激痛に耐え続けたことも。
すべては、この狂った世界を支配する理不尽な構造そのものを、我が手で根底からハメ殺すための「牙」を研ぐ過程に過ぎなかった。
敵国は今なお、私の生まれ故郷である「旧ヴァルハイト領」を巨大な屠殺場へと変え、領民たちを泥のようにすり潰しながら、「逃げた血統の生き残り」を捜索し続けている。
奴らは我が家系の持っていた「血」の力を渇望し、それを手に入れることでさらなる絶対的な武力を手に入れようと企んでいるのだ。
「……愚かな奴らだ」
私は暗闇の中で、冷たく、自嘲気味に口元を歪めた。
奴らが喉から手が出るほど欲しがっているその「奇跡の力」は、人を救うための祝福などではない。
自らの肉体を切り刻み、骨を噛み合わせ、激痛の地獄の中で相手の首を刈り取るための、「最悪のハメ殺し兵器」へと生まれ変わっているのだから。
お前たちが探し求める「ヴァルハイト伯爵家の生き残り」は、もうどこにもいない。
ここにいるのは、地獄の底から這い上がり、あらゆる感情と人間性を削ぎ落として完成した暗殺者——『レヴナント』だけだ。
「シルヴァ」
「はい、レヴナント様」
「次の依頼の準備を進めろ。王都の闇市場を仕切る貴族どもを叩き潰し、旧ヴァルハイト領への密輸ルートを我が支配下に置く。ギルドの任務を利用しながら、着実に奴らの首元へ至る回廊を築くぞ」
「御意のままに。私の命も、この身体も、すべてあなたのために捧げます」
シルヴァは胸に手を当て、暗闇の中で深く頭を下げた。
彼女の忠誠も、潜伏先の娼婦ルシアが寄せてくる歪んだ好意も、すべては私のハメ殺し戦術を完璧に遂行するための「駒」であり「迷彩」に過ぎない。利用できるものは、人の心であれ毒薬であれ肉体であれ、何一つ残さず使い潰す。
見上げる夜空には、雲の隙間から冷ややかな月が覗いていた。
その青白い光を浴びながら、私はゆっくりと黒磁の短剣を鞘へと滑り込ませた。
白亜の城を焼き払い、父親の首を断ち、母親を陸竜の巨足の下でペチャンコに踏み潰した他国の権力者たち。
領土を侵略し、領民を生体実験の材料として貪り尽くす魔導技師と軍隊。
そして、この弱肉強食の理不尽なルールを当然のごとく振りかざす、この世界そのもの。
「待っていろ」
静まり返った王都の裏路地に、私の静かな呟きが溶けていく。
「お前たちが築き上げたその栄華も、強固な防衛網も、すべては私が仕掛ける『絶望の密室』の舞台装置にしてやる。一人残さず、逃げ場のない地獄へとハメ殺してやるからな」
暗殺者として闇に身を潜め、反撃の牙を極限まで研ぎ澄ます。
冷酷な合理性と自傷再生の呪いを纏った「死に損ないの棺」の真の復讐劇は、いま、暗闇の深淵の中で、静かにその序章を終えようとしていた。
(第一巻 慢心の崩壊と肉体破壊の養成所 完)




