27 第6章:初任務と冷徹な日常
第6章 第3節
下町のうろたえた娼館の二階、湿った空気と安っぽい香水の匂いが漂う一室で、私は暗闇の中に静かに座していた。
傍らでは、疲弊したルシアが規則正しい寝息を立てている。私に肌を重ね、純粋な好意と情愛をぶつけてきた彼女の無防備な首筋を見つめながら、私の思考はすでに次の段階——ギルドから持ち帰った新たな「標的」に関する指令書へと移行していた。
今回の依頼は、王都の裏社会で急速に勢力を拡大している新興の密輸組織「赤き蛇」の幹部、ならびに彼らと手を結ぶ中堅貴族の排除だった。
表向きは単なる裏社会の利権争い、あるいは違法物資の摘発に伴う抹殺依頼。しかし、ギルドの極秘情報ネットワークから引き出した羊皮紙の裏データを解読していくうちに、私の「死んだ目」の奥底に、凍りつくような冷たい火が点った。
その依頼の背景には、5年前に他国の侵攻と裏切りによって徹底的に踏みにじられ、地図上から消し去られたはずの我が故郷——かつて父が伯爵として治めていた「旧ヴァルハイト領」の凄惨な現状が色濃く影を落としていたのだ。
指令書の行間に刻まれた文字を、私は光のない瞳で正確にスキャンしていく。
(……旧ヴァルハイト領。我が家が代々治め、豊かな森林と鉱山資源に恵まれていたあの土地か)
あの日、敵国の陸竜騎兵隊となだれ込んできた敵勢力によって、白亜の館は焼き払われた。父は私の前で首を撥ねられ、母は泥の中で巨足の下敷きとなってペチャンコに潰された。私自身も泥を啜りながらスラムへ逃げ延び揃い、最終的にこの暗殺ギルドへ買い叩かれたのだ。
あれから5年。かつての我が家がどうなったのか、私はあえて思考の隅へと追いやってきた。復讐の力を蓄える前の段階で無駄な感傷に囚われることは、生存確率を無駄に下げるノイズでしかないからだ。
だが、提示されたデータは、私の想像を遥かに絶する残酷な現実を淡々と物語っていた。
かつてのヴァルハイト領は、我が家系が断絶した直後、近隣の二大列強国による非公式な協定によって「割譲」されていた。表向きは戦後の領土再編という形をとっていたが、実態は「徹底的な搾取と実験の場」へと変貌を遂げていたのだった。
「……なるほどな」
私は暗闇の中で、声もなく冷ややかに呟いた。
敵国は、旧ヴァルハイト領に住んでいた領民たちを「人間」として扱っていなかった。
かつて父が慈しみ、税を納めていた領民たちは、すべて「国家無国籍の再教育対象」という名の強制労働奴隷へと落とされていた。男たちは昼夜を問わず、安全対策すら施されていない魔導鉱山へと放り込まれ、毒性のある魔導鉱石の採掘によって数ヶ月で肺を狂わせ、使い捨ての泥のように死んでいく。
女や子供たちの運命はさらに惨絶だった。
若く容姿の整った者は他国の貴族や裏社会の娼館へと売り払われ、残された者たちは敵国の魔導技師たちが推進する「生体魔導兵器の実験体」として施設へと送られていた。
我が家系が隠し持っていたとされる「血(肉体再生)」の異能。
敵国の権力者たちは、我が伯爵家を滅ぼした後、その異能の因子が領民たちの血の中にも微弱に混ざり込んでいるのではないかと疑っていたらしい。そのため、旧ヴァルハイト領の子供たちを次々と拘束し、人為的に凄惨な重傷を負わせた上で、肉体の回復反応を観察する異端の生体実験が、今なお我が家の残骸の地下で行われているという。
(我が故郷は、いまや人間をすり潰して魔導資源と肉体実験の材料を取り出す『巨大な屠殺場』に変えられたというわけか)
そして、今回のターゲットである「赤き蛇」の幹部と不平貴族。
彼らは、その旧ヴァルハイト領から極秘裏に運び出される「実験の副産物(壊れた人間の部位や、抽出された異常な魔導物質)」を、王都の闇市場へ流通させて莫大な利益を得ていた仲介業者だった。
私が手にしている黒磁の短剣、そして体内に宿る自傷再生の異能。
我が家を滅ぼし、母をペチャンコに踏み潰した連中は、私が暗殺ギルドの闇の中で牙を研ぎ澄ましている間にも、かつて我が家が護ろうとした土地と人々を、現在進行形で踏みにじり、骨の髄までしゃぶり尽くしていたのだ。
「……く、ふふっ……」
胸の奥底から、乾いた笑いがこみ上げてきた。
怒り? 悲しみ? 絶望?
そんな生ぬるい感情は、とうの昔に死に絶えている。
私の脳内を支配していたのは、どこまでも冷酷で、狂気的なまでの「合理的な殺意」だった。
(素晴らしい……本当に、胸がすくほどの反吐が出る世界だ)
奴らは私からすべてを奪うだけでは満足せず、残された故郷の土むらさえも地獄に変えて泥を塗っていた。
ならば、やり甲斐があるというものだ。
もし、かつての領地が平和に他国に治められ、領民たちが平穏に暮らしていたなら、私の復讐は「かつて我が家を裏切った首謀者数名」の暗殺だけで終わっていたかもしれない。だが、現状は違った。我が家を滅ぼした構造そのものが、肥大化した醜悪な怪物となって、旧ヴァルハイト領を中心に大陸の裏側へと病巣を広げているのだ。
「標的が増えただけだ」
私は羊皮紙を両手で軽く捻り、暗闇の中で静かに破り捨てた。
今回のミッション——「赤き蛇」の排除は、単なるギルドの仕事ではない。
我が故郷を屠殺場へと変え、私からすべてを奪った巨大な国家構造と支配層。その巨大な病巣の末端を切り崩し、旧ヴァルハイト領へと至るルートを逆噴射的に辿るための、絶好の「踏み台」だったのだ。
私が目指すべき最終目的地は、決まった。
王都での暗殺ミッションをこなしてギルド内での地位と資金、そして情報網を確固たるものにした後、必ずかつての我が家——「旧ヴァルハイト領」へと戻る。
そこに巣食う敵国の魔導技師、実験を指揮する貴族、領民を豚のように虐殺する軍隊。
そのすべてを、私がこの肉体に磨き上げた「自傷再生のハメ殺し理論」の歯車へと噛み合わせ、逃げ場のない絶望の密室へと叩き落としてやる。
私の異能は、傷を癒やすための奇跡ではない。
我が故郷を地獄に変えた奴ら全員を、生きたまま肉と骨の噛み合わせで拘束し、喉を掻き切るための「最悪の呪い」だ。
「ん……レイン……? どうしたの……?」
隣で眠っていたルシアが、私の発する氷のような殺気に肌寒さを感じたのか、うわ言のように身をよじらせて私にしがみついてきた。その温かい体温を感じながらも、私の瞳はただ暗闇の深淵を見据えていた。
「何でもない。寝ていろ」
私は彼女の頭を冷たく撫で下ろし、静かにベッドから立ち上がった。
黒い暗殺服を身に纏い、黒磁の短剣を腰に滑らせる。
窓の外には、偽りの繁栄を貪る王都の夜景がどこまでも広がっていた。その街並みの遥か彼方、漆黒の闇の奥深くに眠る、血と泥に塗れた我が故郷の影。
「待っていろ、ヴァルハイト」
私の「死んだ目」が、暗闇の中で妖しく、そして絶対に消えない殺意の光を放つ。
我が家を滅ぼし、領地を屠殺場へと変えたすべての者たちへ。
死に損ないの棺となった元伯爵家の生き残りが、いま、お前たちの首を刈り取るために、地獄の底から一歩ずつ歩みを進めている。
最初の足がかりとなるターゲットの血を吸うため、私は音もなく部屋の窓から夜の闇へと躍り出たのだった。




