26 第6章:初任務と冷徹な日常
第6章 第2節
バルトロメウス男爵の暗殺ミッションを完遂してから数週間。私の生活は、表社会の光が一切届かない下町の最底辺——貧民街の雑踏の中に溶け込んでいた。
暗殺ギルドの「影の執行人」として潜伏するためには、豪華な高級宿や目立つ隠れ家など使えない。日中は泥と汗と排泄物の臭いが混ざり合う裏路地の安宿に身を潜め、暗闇が街を覆うと同時に「レヴナント」としての牙を研ぎ澄ます。それが今の私の日常だった。
その場つなぎの潜伏先として利用していたのは、下町の路地裏に佇む薄暗い娼館の二階にある、小さな一室だった。
そこには、私に一方的な好意を寄せる一人の娼婦がいた。
名をルシアといった。数年前、どこかの農村から売られてきたという彼女は、爛れた下町の男たちに弄ばれながらも、どこか人懐っこい笑みを絶やさない、二十歳ばかりの女だった。
彼女が私に惹かれた理由は滑稽なほどに単純だった。
粗暴で暴力を振るう客ばかりを相手にしてきた彼女にとって、金を払ってもめったに暴力を振るわず、ただ感情の消えた「死んだ目」で静かに佇む十代の少年——私の存在が、酷く異質で、同時に不気味なほどの安心感を与えたらしい。
「ねえ、。レイン今日もずっとお部屋に引きこもってたの? ちゃんとご飯食べた?」
夜の仕事が始まる前の短い時間、ルシアは安っぽい香水の匂いを纏わせながら、私の部屋へ忍び込んでくる。手に持った木皿には、彼女が自分の稼ぎから買い求めたパンの切れ端や、ぬるいスープが載せられていた。
「勝手に入るなと言ったはずだ」
私はベッドの端に腰掛けたまま、冷ややかに彼女を一瞥した。
「レイン」という名は、この場所で使っている偽名に過ぎない。白亜の城の貴族としての記憶も、暗殺ギルドでの「レヴナント」という名も、この女には一切明かしていない。私にとって彼女は、単なる監視の目を逸らすための「完璧な迷彩」であり、潜伏生活を円滑に進めるための都合の良い拠点に過ぎなかった。
「だって、ほっておいたらレイン、何も食べないで死んじゃいそうだもの。……ふふ、相変わらず冷たい目。でもね、あたしはその目が好きなの。嘘をつかない目だから」
ルシアは私の冷淡な拒絶など気にも留めず、木皿を古びた机の上に置くと、滑らかな動作で私の隣へと腰掛けた。
そして、ためらいもなく細い腕を私の首に回し、自らのしなやかな肉体を擦り寄せてきた。
彼女の体温が、薄い衣服越しに直に伝わってくる。
スラムの湿った空気と、安っぽい花の香水、そして女特有の生の匂い。
「……何の真似だ、ルシア」
「何って……決まってるじゃない。あたし、レインのことが大好きなの。客としてじゃなくて、男の人として。……ねえ、抱いてよ。あたしのこと、好きにしちゃっていいから」
彼女の言葉には、計算も偽りもなかった。
こんな地獄のような下町で、明日の命すら保証されていない娼婦が、自分よりも若い無口な少年に救いを求め、温もりを貪ろうとする剥き出しの純粋な好意。それは、この泥に塗れた世界においてはあまりにも愚かで、儚い感情の浪費だった。
私は彼女の首筋に冷たい視線を落とした。
その気になれば、指先一つで彼女の喉骨を砕き、一瞬で息の根を止めることができる。彼女が私の素性に踏み込みすぎたり、危険な兆候を見せたりすれば、迷わずそうするつもりだった。
(……だが、今は殺す理由がない)
殺す必要のない人間を殺すことは、単なるエネルギーの無駄遣いであり、余計な痕跡を残すリスクでしかない。
それ以上に、この女の好意と肉体を利用することは、私の精神の維持において、冷徹な合理性を持っていた。
「……後悔するぞ」
私が低く呟くと、ルシアは嬉しそうに目を細め、自ら衣服の紐を解いて見せた。
「後悔なんてしないわ。あたし、レインになら殺されたっていいもの」
彼女の身体をベッドへと押し倒し、私は無言で彼女の肉体を貪った。
そこには、恋人同士のような甘い睦言も、互いを慈しむような優しい撫で合いも一切存在しなかった。
ギルドの独房で同期の三十八番と重ねたものと同じ、完全なる「乾いた肉体関係」。
彼女は私に抱かれながら、熱い息を吐き、私の背中に強く爪を立ててしがみついてきた。あたかも、過酷な現実から逃避し、自分が確かに「生きている」という証を、私の肉体を通じて確かめようとするかのように。
(女の肉体……骨格、動脈の位置、皮膚の厚み、体温の上がり方)
彼女の肌に触れ、その温もりを感じながらも、私の頭脳は恐ろしいほどに冷め切っていた。
私はルシアの身体を抱きしめながら、その肉体の質感や動脈の脈打ちを、無意識のうちに「人体解剖のデータ」として冷徹にスキャンしていた。
人間が快楽に身を委ねる時、どの部分の緊張が解け、どの隙が生まれるのか。
至近距離で抱き合っている最中、相手の喉元や心臓を最も効率的に破壊するための角度はどこか。
彼女が耳元で甘い喘ぎ声を上げるたびに、私の脳内では冷酷な殺戮のシミュレーションが機械的に更新されていく。
「ん……っ、レイン……! もっと、もっと強く……っ!」
ルシアは私の冷徹な内心など知る由もなく、私の背中にしがみつき、涙を浮かべながら私を求めた。
彼女が私に寄せる「好意」は本物だった。彼女は心から私を愛おしみ、この薄暗い部屋で私と肌を重ねる時間だけが、彼女の過酷な人生における唯一の救いなのだろう。
だが、私はその好意に対して、一かけらの同情も、愛おしさも抱くことはなかった。
母親が怪物の巨足の下でペチャンコに潰されたあの日、私の心から「誰かを愛する」という機能は完全に壊れて消失していた。
目の前で自分に心も体も捧げているこの女も、私にとっては「潜伏用の便利な隠れ家」であり、「肉欲を処理し、人間の解剖学的データを再確認するための道具」に過ぎない。
(悲しい女だ)
私は彼女の銀色の髪を乱暴に掴み、その首筋に顔を埋めた。
もし、敵がこの娼館に踏み込んできたなら。
もし、この女が私の足手まといになるような事態が起きたなら。
私は何の躊躇もなく、この女の体を「肉の盾」として敵の攻撃を受け止めさせ、その隙に敵の首を掻き切るだろう。
彼女の差し出してくる好意すらも、私は自分のハメ殺し戦術の駒として冷酷に利用し尽くす。
「あぁっ……レイン……あたしを……捨てないでね……っ」
彼女の哀しい懇願の言葉が、湿った部屋の中に溶けていく。
私は答えない。ただ無言のまま、彼女の身体を激しく揺さぶり続けた。
行為が終わり、疲弊したルシアが私の胸の中で静かな寝息を立て始めた後も、私の目は暗闇の中で冷たく冴え渡っていた。
窓の隙間から差し込む月光が、彼女の滑らかな背中と、私の傷一つない冷たき皮膚を照らし出す。
彼女の体温は温かい。だが、その温もりすらも、私の中に宿る底知れぬ「復讐の冷気」を溶かすことは決してできなかった。
白亜の城を滅ぼした者たちを地獄へ引きずり下ろすその日まで。
私はこの下町の泥の中で、女の好意すらも冷徹な毒へと変えながら、静かに、確実に、次のハメ殺しの機会を狙い続けるのだった。




