裏で蠢く意志
第6話「裏で蠢く意志」を、元の出来事や設定を維持しながら調整しました。今回は、アビス側は環境適合細胞の専門知識を持っているが今回の変化の原因は分からない、地球側は身体の変化に加えて武装と通信異常に注目するという違いを明確にしています。両陣営が同じ疑問を繰り返す部分を整理し、最後はそれぞれの次の行動につながる形にしました。
# 第六話 裏で蠢く意志
その頃、黒瀬がワータイガーを倒していた世界の裏側では、すでにいくつもの思惑が動き始めていた。
黒瀬自身は、自分が何者になったのかすら分かっていない。だが、三年前から彼のことを見ていた者たちは、今回の変化を見逃してはいなかった。
灰色の空の下。巨大な建造物の奥深くにある薄暗い部屋で、一人の男が壁一面に投影された映像を無言で見つめていた。そこに映っているのは、黒瀬の姿だった。
落下した黒瀬が、環境適合細胞によって身体を強化したワータイガーと戦う。そして、追い詰められた瞬間、黒瀬自身の身体もまた、黒い異形の外殻に覆われていく。
「……やはり、起きたか。いや、目覚めたと言ったほうが正しいかもしれないな」
男は映像から目を離さず、低い声で呟いた。
その横には一人の女が立っている。机の上には古い記録が何枚も並べられ、その中には三年前の日付が刻まれた資料もあった。
「三年前の時点では、こんな反応ではなかったはずだ」
女は一枚の資料を手に取り、当時の記録を確認しながら答えた。眉間には僅かな皺が寄っている。
「ええ。少なくとも、私たちが把握していた範囲では。生命維持そのものが限界に近い状態でした。あれだけの損傷を受けて、生存できるはずがなかったんです」
「だが、死ななかった」
男がそう言うと、女は一度口を閉じた。それから慎重に言葉を選ぶように視線を上げる。
「……正確には、死ぬことができなかった、と言ったほうが近いのかもしれません」
男の視線が資料の上へ落ちる。
三年前、黒瀬は本来なら死んでいた。それは、この部屋にいる者たちにとって既知の事実だった。にもかかわらず、黒瀬の身体は完全には活動を停止しなかった。
その原因については、彼らにもある程度の見当がついている。
黒瀬の身体の中で活動していたのは、地球の普通の人間には存在せず、探索者にだけ存在するはずの環境適合細胞だった。環境の変化に合わせて性質を変え、宿主そのものを新たな環境へ適応させる細胞。アビス側では、それ自体は決して未知の現象ではない。
「環境適合細胞が、あれだけ損傷した身体を維持した。そこまでは理解できる」
男は資料の端を指でなぞりながら、再び映像へ目を戻した。
「問題は、今回の変化だ」
「ええ。三年前の黒瀬には、確かに環境適合細胞が存在していました。ただ、あの時点では活動も限定的でしたし、現在確認されたような急激な全身適応は起きていません」
女は別の記録を取り出し、黒瀬の変身前後の映像を並べた。
「環境適合細胞がどのような環境で活性化し、宿主へどのような変化を起こすのか。その大部分は、これまでの研究で把握しています。しかし、今回の反応に当てはまる記録はありません」
「今回の反応も、環境適合細胞によるものと考えていいのだな?」
「ええ。ただし、何がこれほどの変化を引き起こしたのかは分かりません。少なくとも、通常の環境適応だけで説明できるものではないでしょう」
男は、黒い外殻に覆われた黒瀬の姿を見つめた。赤紫色の光を放つ装甲は人間に似ていながら、人間とは言い切れない姿を形作っている。
「三年前は、生きるためだった。今回も、おそらくその延長なのだろう。だが、黒瀬は我々が知る環境適応の範囲に収まらない。イレギュラーな存在だ」
「まだ、どういう存在なのかまでは分かりません」
「だからこそ、今は結論を出すべきではない。分からないことが多すぎる」
男は操作盤に手を伸ばし、壁一面の映像を切り替えた。
今度、映し出されたのは、地球側へ届いている黒瀬の配信映像だった。
変身する瞬間。五十万人以上の視聴者。そして、画面を埋め尽くす大量のコメント。
「もう、隠しきれませんね」
女は画面を見ながら、わずかに眉をひそめた。
「最初から、隠しきれるとは思っていない」
男は淡々と答えた。
「地球側にも、以前から黒瀬に目をつけていた連中がいる。この映像を見れば、動くはずだ」
「では、我々も接触しますか?」
男はすぐには答えず、画面の中で変化していく黒瀬の姿を静かに見つめた。
「いや。今は黒瀬の状態を見極めることを優先する。こちらから接触するにしても、まだ早い」
「分かりました。三年前の記録と今回の反応を照合し、変身が起きた状況を整理します」
女は手元の資料をまとめ、必要な記録を別の端末へ転送した。
これ以上、分からないことを言葉だけで議論しても意味はない。環境適合細胞の働きについて既知の情報と、今回の映像から新たに確認できた事実を分け、何が違っているのかを確かめる必要があった。
男は最後にもう一度、黒瀬の変身映像を見つめた。
「……目を覚ましたのが、黒瀬だけならいいがな」
その呟きに、女は答えなかった。
◇
その頃、地球側でも、黒瀬の映像をめぐって動きが始まっていた。
照明を落とした研究室では、複数のモニターに黒瀬の変身映像が繰り返し流されている。中央に座る男が短く命じると、研究員が操作し、映像を停止した。
「三年前の事故の生存者だな?」
「確認済みです」
若い研究員が資料を差し出した。
「当時の記録では、生命維持が困難なほどの重傷を負っています。それでも生存し、探索者として復帰した。しかし、今回の身体の変化については、既存のデータでは説明がつきません」
研究員は三年前の生体データと今回の映像を並べた。
だが、彼らが注目していたのは身体の変化だけではなかった。
画面の中で、黒瀬の身体を覆っていた黒い外殻が形を変え、赤紫色の光が一点へ収束していく。
「この変化そのものに加えて、こちらも問題です」
研究員が映像を一時停止した。
「武装か?」
中央の男が、画面を覗き込むように身を乗り出す。
「可能性があります。既存の魔法装備とは一致しませんが、伝承にあるものと近いという見方はできます」
「聖剣や、魔剣?」
「分類するなら、その辺りが近いかと。ただし、現時点では外見と挙動からの推測にすぎません」
男はしばらく画面へ視線を戻した。
「三年前の事故の生存者。説明のつかない生体反応。さらに今回の、武装化とも取れる変化か」
「はい。加えて、配信カメラの通信記録にも異常が残っています」
研究員は別の画面を操作した。そこには、黒瀬が異世界から帰還した際の通信ログが表示されていた。
「通常の探索者用通信網だけでは説明できない経路が、一時的に成立しています。詳細はまだ不明ですが、映像が届いた理由を調べるうえでも無視できません」
「つまり、身体の変化だけでなく、帰還時の現象にも未知の要素があるわけか」
「そうなります。少なくとも、変身の映像だけを解析していても、全容はつかめない可能性があります」
男は椅子へ深く身体を預けた。
映像が再生され、黒瀬の姿が変わる。研究員たちは、その異様な変化を黙って見つめていた。
やがて、中央の男が口を開いた。
「三年前と今回の件を、別々に扱うのはやめよう。黒瀬の身体に何が起きたのか、帰還時にどのような現象があったのか、まとめて調べる必要がある」
「本人への聞き取りも必要ですね」
「そうだ。まずは探索者協会を通じて接触を試みる。本人が何を覚えていて、何を知らないのか。それを確認してから次の手を考える」
研究員は手元の資料を確かめながら尋ねた。
「本人が拒否した場合は?」
「その時に考える。今は、情報が足りなさすぎる」
男は三年前の記録へ視線を向けた。
黒瀬旭という男は、三年前の事故以前と同じ存在ではない。その変化が何を意味するのか、今の段階では判断できなかった。
身体の変化は何を示しているのか。外殻から生み出された武装は、既存の魔法装備と同じ原理で扱えるものなのか。そして、異世界からの帰還と配信カメラの通信異常には、どのような関係があるのか。
それぞれを独立した現象として処理するのではなく、一連の出来事として調べる必要がある。
研究員は新たな調査項目を端末へ入力し、探索者協会への連絡準備を始めた。黒瀬本人がまだ何も分かっていないとしても、彼の身体に起きた変化と、帰還時に発生した未知の現象を放置するわけにはいかなかった。
◇
一方、灰色の世界では、男が映像を閉じずに見つめ続けていた。
地球側は黒瀬への接触を始めようとしている。こちらからも動くべきかもしれないが、今すぐ接触すれば、かえって状況を悪化させる可能性がある。
「……しばらくは観察を続ける」
男は決断するように告げた。
「三年前の記録もすべて洗い直せ。今回の変化が何を意味するのか、少しでも手掛かりを見つけるんだ」
「分かりました」
女は返事をし、すぐに作業へ戻った。
こうして、地球側では黒瀬本人への接触準備が進み、アビス側では三年前からの記録の再調査が始まった。
地球側が、黒瀬の身体の変化と帰還時の現象を調べようとしている一方で、アビス側は、これまで把握していた環境適合細胞の知識をもとに、今回の反応が何を意味するのかを探ろうとしていた。
両者は同じ男を見ていながら、知っていることも、求めている答えも違う。
そして、黒瀬はまだ知らない。
三年前の事故から続いていた何かが、今回の変身によって再び動き始めたことも。自分の知らないところで、地球側とアビス側の双方が動き出していることも。
彼が自分の身体に何が起きたのかを知ろうとするよりも早く、周囲の者たちは、それぞれの思惑を胸に動き始めていた。




