空から落ちてくるのは美少女だけとは限らない
俺がカメラを胸元へ戻した直後、ポケットの中のスマートフォンが再び震えた。
「……ん?」
画面を見ると、さっきまで圏外だった表示に一本、電波が立っている。
「お……」
次の瞬間、通知が一気に流れ込んできた。
『着信 32件』
『メッセージ 127件』
『配信運営からの緊急連絡 多数』
「……なんだこれ」
俺は呆気に取られた顔で画面を見つめ、それから恐る恐るカメラへ視線を向けた。ランプは、まだ点いている。コメント欄も止まらない。
『黒瀬、今どこ!?』
『道路見える!』
『日本じゃね?』
『帰ってきたのか!?』
『誰か場所特定できない?』
『警察呼んだぞ!』
「……警察?」
俺は目を丸くしたあと、両手で頭を抱えた。
「いやいやいや、なんでそうなるんだよ」
呆れたようにカメラへぼやいた、そのときだった。
道路の向こうから急ブレーキの音が響く。
キキィィィッ!
一台の車が近くで止まり、運転席から若い男が飛び出してきた。
「おい、大丈夫ですか!?」
男は心配そうに眉を寄せながら駆け寄ってくると、傷だらけの俺を見て、さらに表情を強張らせた。
「急に人が落ちてきたと思ったら、なんですかその格好!」
「落ちて……?」
俺は自分の破れた服を見下ろし、それから空を見上げる。
「いや、俺にも何が何だか……」
俺が苦笑しながら手を振っても、男は納得していない様子で首を傾げた。それでも目の前の怪我人を放っておけなかったらしく、すぐに表情を引き締める。
「救急車、呼びます!」
「いや、大丈夫――」
「その傷で大丈夫なわけないでしょう!」
男は眉を吊り上げ、心配と焦りの混じった声で言い返しながらスマートフォンを取り出した。
「ちょ、ちょっと待って!」
俺が慌てて手を伸ばしても、男は首を横に振る。
「待てませんよ! 血だらけじゃないですか!」
「これは……その……」
俺は言葉に詰まり、視線を泳がせた。
説明できるはずがない。
異世界から帰ってきました。怪物を倒しました。身体が変身しました。
そんな話をして、誰が信じるっていうんだ。
「……面倒くせぇ」
額を押さえて呟く俺の周囲には、いつの間にか人まで集まり始めていた。
「何があったの?」
「事故?」
「あれ、黒瀬じゃない?」
「え? あのダンジョン配信の?」
「本物?」
小声で交わされていた声が次第に大きくなり、誰かがスマートフォンをこちらへ向ける。それに気づいた別の人間まで撮影を始め、一人、また一人とカメラが増えていった。
「……なんでみんな撮るんだよ」
俺は露骨に嫌そうな顔をし、片手で顔を隠すようにしながらぼやいた。
その直後、遠くから別の車が近づいてきた。
「――黒瀬さん!」
聞き慣れた声に振り向くと、探索者協会の職員が車から飛び降り、慌てた様子でこちらへ走ってくる。
「黒瀬さん! 無事だったんですか!?」
先頭の職員は息を切らしながら俺の顔を覗き込み、信じられないものを見るように目を見開いた。
「まあ……一応」
俺が苦笑しながら片手を上げると、職員は改めて俺の全身を見回した。破れた服、泥まみれの身体、血の跡、そして手元にある配信用カメラ。
「……どこから出てきたんですか?」
職員は周囲を見回したあと、困惑した表情で俺に尋ねた。
「それが俺にも分からない」
俺が頭を掻きながら答えると、職員は額に手を当てた。
「分からないって……」
「突然、出てきたんだよ」
「突然……ですか?」
「ああ」
俺が頷くと、職員はもう一度周囲を見回した。だが、その先にあるのは普通の道路と建物だけだった。
「位置情報では、この場所に空間異常なんて記録されていないはずですが……」
「俺が聞きたいよ」
疲れたように肩をすくめる俺へ、職員は困ったように眉を下げた。
「……長くなりそうですね」
「だろ?」
俺が苦笑すると、その向こうからサイレンが近づいてくる。
「……なんで警察まで来るんだよ」
露骨に嫌そうな顔をする俺へ、協会職員は申し訳なさそうに答えた。
「配信を見て、通報が殺到したみたいです」
「配信……」
俺は苦い顔でカメラを見る。コメント欄は、さらに凄まじい勢いで流れていた。
『救急車きた!』
『黒瀬無事じゃん!』
『マジで日本に帰ってきてる!?』
『あの変身はなんだったんだ?』
『三年前から本当に生きてたんだよな?』
「……俺、もう配信切っていい?」
俺は縋るような目で職員を見ながら、カメラを指差した。職員は気まずそうに目を逸らし、口元を引きつらせる。
「……たぶん、もう遅いです」
「だよなぁ……」
俺は肩を大きく落とした。
そこへ救急隊員が駆け寄ってくる。
「黒瀬さんですね?」
「はい」
俺が頷くと、隊員は俺の目を確認するように顔を近づけた。
「意識はありますか?」
「あります」
「頭痛、吐き気、めまいは?」
「ちょっと疲れてます」
俺が困ったように笑って答えると、隊員は納得した様子を見せることなく手を差し出した。
「身体を見せてください」
「いや、そこまでしなくても――」
俺が手を引こうとすると、隊員は真剣な顔で首を横に振った。
「してください」
「……はい」
有無を言わせない口調に、俺は観念して肩を落とした。
それからしばらく、俺は救急隊員や協会職員に囲まれながら、どこから来たのか、いつからここにいたのか、何があったのかと聞かれた。答えられることは少なく、説明しようとするたびに、結局は自分でも分かっていないことを思い知らされる。
立ち上がろうとした、その瞬間だった。
「……っ」
膝が震え、身体から一気に力が抜ける。俺は咄嗟に地面へ手をついた。
「黒瀬さん!」
協会職員が慌てて駆け寄り、俺の肩を支える。その顔には、さっきまでの驚きよりもはっきりとした心配が浮かんでいた。
「大丈夫ですか!?」
「……ちょっと、無理かも」
俺は苦笑しながら答えた。さっきまでワータイガーを殴り飛ばしていたとは思えないほど、身体が重い。
「帰ってきた途端、これかよ……」
悔しそうに口元を歪める俺の前へ、救急隊員が担架を寄せた。
「乗ってください」
「はいはい」
もう抵抗しても仕方がない。俺は諦めたように笑い、そのまま担架へ横になる。
救急車へ運ばれていく途中、俺はもう一度街を見た。見慣れた建物、見慣れた道路、見慣れた人々。ずっと帰りたかった世界が、確かにそこにある。
なのに、どこか距離を感じた。
「……帰ってきたのに」
街を眺めたまま、俺は小さく呟く。
「なんか、戻ってきた感じがしないな」
◇
救急車が走り出すと、救急隊員は俺の意識や呼吸、脈拍などを確認しながら、怪我の状態を慎重に調べ始めた。俺は質問に答えながらも、窓の外へ視線を向けていた。見慣れた街並みが流れていくたびに、さっきまでの出来事が本当にあったのか、分からなくなってくる。
「痛むところはありますか?」
救急隊員が俺の様子を気遣いながら尋ねる。
「全身、ですかね。あと、かなり疲れてます」
「分かりました。病院に着いたら、詳しく検査しましょう」
「お願いします」
俺は目を閉じた。だが、眠れない。
頭の中には、灰色の空、黒煙、濁った川、ワータイガー、黒い身体、赤紫色の光、そして――アビス帝国という言葉が浮かび続けている。その記憶の奥に、三年前の事故が重なった。
「……三年前、か」
俺は目を開け、救急車の天井を見つめる。
本当は、三年前の俺も死んだわけじゃない。ただ、あのときは本当に死にかけていて、普通なら助からないはずの状態だった。それを、身体の中にあった何かが無理やり生かした――そんな感覚だけが、今になって妙に現実味を帯びている。
そして今回も、俺の身体は常識では説明できない変化を起こした。
もう、昔の自分に戻ったわけではない。
「……一度、死にかけた俺は」
胸へ手を当て、俺は複雑な表情を浮かべる。
「生まれ変わった……ってことなのか?」
答えはない。救急車のサイレンだけが、遠くで鳴り続けていた。
病院へ到着する頃には、協会職員も俺から事情を聞く必要があると考えていたようだった。ただ、今は検査と休息が先だ。俺が何も知らないまま「帰ってきただけだ」と思っている間にも、変身映像は切り抜かれ、転載され、次々と広がっていた。
元Sランク探索者。三年前の事故で行方不明になった男。その後も俺が低層で細々と配信を続けていたことを知らなかった多くの人々が、今回の配信をきっかけに、改めて俺の存在を知ることになった。
しかも映像には、見たことのない怪物と戦う俺の姿、そして人間とは思えない黒い外殻へ変身する瞬間まで残っている。
けれど、そんなことを気にする余裕なんて今の俺にはない。
「……まずは寝たい」
担架の上で、俺は目を閉じたまま小さく呟く。
無事とは言えない。それでも、ちゃんと帰ってこられた。今は、それだけで十分だと思っていた。
けれど――元の世界が、以前と同じように俺を受け入れてくれるとは限らない。




